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此隅山城 【応仁の乱、山名氏の本城】

此隅山城 【応仁の乱、山名氏出陣の本城】
此隅山城(このすみやまじょう)は、兵庫県豊岡市出 石にある山 城。
別名は子盗城、此隅城。「山名氏城跡」として国の史跡に指定 されている。
応安5 年(1372年)頃、出石神社の北にある標高140mの此隅山に山名時義が築城。
以後山名氏の居城とな る。
応仁元年(1467年)、応仁の乱が始まると、此隅山城には山名の各領国から計2万6000騎の軍勢が 集まり、山名持豊(宗全)は当城から京都へ出陣した。
永禄12年(1569年)、山名祐豊の時、羽柴秀吉に攻められ落城。祐豊は、 より高所にある有子山城 に居城を移し、城は廃城となった。
山全体が要塞と化した、まさに戦国の山城である。
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応仁の乱で西軍の総大将として細川勝元の率いる東軍と戦った山名宗全は、(元の名前は持豊という。後に出家して宗全とした。) 勇猛果敢な武将で、《赤入道》と呼ばれた。

宗全は1404(応永11)年5月29日に但馬国出石の此隅山城で誕生した。
出石は新羅の アメノヒボコの開拓した土地で、その歴史は古い。
近くに但馬国一宮出石神社があり古くから開けた土地であった。
室町時代、山名氏が但馬守護となった。
出石は但 馬守護の居城の地として発展する。


此隅山城は、文中年間(1372年~1374年)ころ山名時義によって築かれたといわれている。
山麓には宗教寺、願成寺、大手門、御屋敷、などの地名が残り、かつて城下町が存在したことを伝 えている。 また出石神社や総持寺にも山名に関する書状などが残っている。
しかし永禄12年(1569)と天正8年(1580)に天下統一を狙う木下秀吉らの織田軍が但馬に侵攻 し、此隅山城は落城した。 《出石町教育委員会》


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Author:南方系海人
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古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
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