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丹後の戦国時代 その八

【戦火相次ぐ混乱の丹後】

石川直経を支持する越前守護朝倉孝景は、若狭国境まで進撃し、 陣を取る延永氏征伐にいよいよ軍 勢を出発させた。この時、武田元信は6月19日に若狭明通寺に対して、 陣僧を軍勢に加わるように命 じた。

一色義清・石川直経の軍と、越前を出発し若狭、加佐郡へと向かう朝倉軍と武田元信軍・朽木種広軍は合流し、若狭和田に着陣していた一色九郎・延永春信の勢力との戦が始まろうとしていた。

朝倉一族の景職や武 田氏家臣の逸見・本郷氏らが大飯郡高浜城の防備を固める一方、丹後では白井清胤らの軍勢が加佐郡余戸里に展開す るなど、攻勢を強めていた。
6月29日、 加佐郡余戸 里にてついに合戦が開始された。
激しい戦闘が続き、劣勢となった延永氏の軍勢は、加佐郡倉橋城に篭城したが、朝倉氏の軍勢は更に 激しく攻撃し、ついに倉橋城は落城し、一色九郎・延永氏は降伏し、城を出た。
この戦に勝利した朝倉孝景の仲介で、敗れた延永春信・一色九郎と武田元信との間で和睦が結ばれ、その条件と して、武田元信に加佐郡が与えられた。 この合戦で敗北した延永春信と一色九郎は死亡した訳ではなく、宮津の府中に退散したようであ る。

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しかし、混乱が続いた丹後に平和は戻らず、今度は加佐郡で反武田の動きがあったようで、 先の合戦での 和睦は翌月の7月には破られてしまい、再び対戦となった。
武田元信は再度、越前朝倉孝景と近江国の朽木種広に援軍を求めた。
朝倉勢は再び加佐郡に進出し、8月8日までに倉橋城を再占領した。
そのあと、丹後加佐郡の延永与党が9月初旬ごろ国境を越えて若狭に 侵入したものの、それも本郷氏らに討たれた。
この頃、加悦安良山城を追われて加佐郡にいた石川直経・一色義清の軍勢は由良川を越えて延永氏 の本拠地府中まで侵攻しており、武田・朝倉勢と合流した。
9月12日、再びついに石川直経・武田・朝倉の軍勢と延永春信の軍勢による合戦が開始され、 激しい戦闘 となった。
今度も石川勢が勝利し、その結果、武田・朝倉の助力を得た石川氏は永遠のライバルであった延永春信を没落させる事に成 功した。
この合戦でも多くの死者を出し、永世12年から続く2年間の争いで、二千数百人以上が死亡した。


武田氏の侵攻は更に奥丹後まで伸びた。
9月22日に竹野郡の堤篭屋城、10月11日に吉沢城を攻撃している。
しかし、熊野郡、竹野郡を本拠地とする伊賀氏の抵抗によって撃退されたといわれる。 またこの頃、武田勢の背後で加佐郡一揆が勃発し、若狭国まで乱入するなど、加佐郡の混乱は続い ていた。

11月、将軍足利義種の要請で、近江国朽木氏・越前朝倉氏らが再度丹後国へ出陣し、合戦があった。
その後の交戦記録は無いようだが、武 田氏はこの出兵で、加佐郡については一部地域の実質的支配 権を獲得したとみられる。
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永く続いた丹後の混乱も漸く一定の決着が着き、 合戦に勝利した石川直経は、一色義清に家督を継 がせた。敗北した一色九郎は、伊賀氏を頼り、竹野郡成願寺に逃れ、 居を移した。 その後、一色義清は、若狭武田元光の娘を嫁にし、できた子に一色氏当主として国府である宮津の 府中に住ませた。 一色義清は与謝野町石川城、石川直経は同じ一族で、幾地、滝、金屋、亀山などに城を築城し、防 御を固めているので、与謝野町加悦に戻っていたとみて間違いないだろう。

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南方系海人

Author:南方系海人
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古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
間違えた認識もあるかと思います。
自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

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