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丹後の戦国時代 その七

【一色氏の家督争いと石川直経vs延永春信】


石川直経の活躍などで、武田氏が若狭へ逃げ帰り、危機を乗り越えたその後の丹後は、何事もなく平和な日々を送っていた。
丹後守護には一色義有が再度復帰していた。
しかし、義有は、1512年、26歳の若さで病死してしまった。

これを期に、一色義清と一色九郎との間で家督争いの状態となり、義清の守護代が石川直経、九郎の守護代が延永某となり、守護が二人もいるというような並立状態となっていた。

しかし1515年永正12年からついに内乱状態となった。すなわち、守護一色義清の実権が失 われるなか、一色義清を擁立する重臣石川直経と、一色九郎を擁立する守護代延永春信の 両派が全面衝突したのである。
この争いで、数百人の死者がでている。
一色九郎というのは、一色義有に子がなかった為、延永春信が三河国の一色家から丹後の呼び、家督を継がせようとした人物である。

この戦いでは、延永春信が石川直経に勝利し、直経を加悦の安良山城から追い落とし、直経は加佐郡まで退散してしまった。
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しかし石川直経は、勢力を温存し、反撃のチャンスを伺っていた。
1516年石川直経が桂林寺に禁制を出しているので、戦火は加佐郡にも及んでいたようである。

※「禁制(きんぜい)」とは、支配者 が寺社や民衆に対して、禁止する事柄 を広く知らせるために作成した文書     で、別 に禁札、制札とも呼んでいま す。また、「禁制」は文書として記し てあるだけではなく、木札に墨書して 人目につきやすいところに掲げ、のち には駒形の木板に書いて提示される高 札などによって示されるようにもなった。


1517年永正14年3月ごろになると、若狭守護武田元 信は、若狭に不穏な噂があるとの情報を得た。

5月ごろ延永勢が若狭に侵入し、大飯郡和田まで進撃してきた。
その一方で、高浜の逸見河内守が、武田元信に背き、延永春信に寝返りをした。
しかし元信は、娘婿の越前の朝倉孝景に救援を依頼する一方、丹後勢で加佐郡にいる石川直経・一色義清と連携し、幕府の細川高国に運動した結果、幕府からは、武田への支援を命じる 御内書が出される事となった。
高国は、近江国高島郡の朽木種広にも合力を求め、石川直経・一色義清と一緒に戦う事を命令した。
当時の将軍、足利義種は、朝倉孝景に対し、武田元信とともに延永春信を攻撃するように命じた。
これにより、石川直経・一色義清は、武田元信・朝倉孝景の軍と連合し、将軍家による討伐の形をとって反撃を開始した。




【参考文献】 加悦町誌  宮津市誌  竹野郡誌  福井県誌  舞鶴の山城  中世の加悦
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南方系海人

Author:南方系海人
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古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
間違えた認識もあるかと思います。
自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

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