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丹後の戦国時代 その六

【武田氏と幕府軍の丹後侵攻】

1506(永正3)年、細川澄元の後見として三好之長が上洛。 澄之は丹波国守護、澄元は摂津国守護となる。三好之長は摂津西半国守護代となった。
一方、若狭武田氏は、元信の代になって丹後侵攻を本格的に開始した。
丹 後ではこの年3月ごろ武田氏出兵がささやかれていた。4月に は元信が若狭国中山寺に丹後平定の願文を納め、戦勝を祈願し、6月には管領細川政 元の協力で出兵容認の御内書が出された。
政元は一色義有の丹後守護職を解任して、養子の澄之を一色征伐の大将として派遣した。
一色義有は、京都に使いを出し、政元に赦免を願ったが受け入れられず、5月には、更にもう一人の養子の澄元も出陣した。

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武田軍の行動開始時期は未詳 ながら、武田氏の武将粟屋親栄は7月28日には由良川を越えて天橋立近くに着陣している。
一色勢と武田勢の合戦は8月3日に始まり、激しい戦いとなった。その日の戦いで武 田方は大敗し数百人が討たれたという。
しかし9月 24日には援軍として入った細川澄之勢と武田元信勢が協力して、宮津如願寺付近の一色方小倉氏の山城を夜襲し、攻め落とした。
その後の戦闘 は確認されないが、武田勢は丹後占拠を続けていたものと思わ れる。

1507年4月、細川政元は丹波で軍勢を整え、澄之、澄元、重臣赤沢朝経、香西元長、三好之長らが 大挙して武田氏支援のため丹後に侵攻した。
まさに、【幕府軍対丹後軍】の戦であった。
この非常事態に直面して、一色家臣団は、内戦どころではなくなった。延永春信と石川直経は休戦し、延永春信は府中の阿弥陀ヶ峰城に、石川直経は加悦の安良山城(現与謝野町)に、一色義有は府中の今熊野城に籠もり、防戦につとめた。
府中町の寺や民家は一色方によって焼かれ、灰と化した。
これは敵方が侵攻し、寺などの建物を占領するからである。

これに対し、細川澄之、香西元長の軍は石川直経の安良山城を攻撃、武田元信、赤沢朝経軍は府中の成相寺に陣を取り、延永春信と一色義有への攻撃を開始した。
5月11日、合戦の火蓋が切られたが、寄せ手の武田軍は多くの死者を出し、なかなか丹後勢は落ちなかった。
5月18日、合戦でまたも武田方が敗北し、 同25日には細川政元が京都に帰ってしまった。
さらに加悦城を攻めていた細川澄之の率い る丹波勢も城将石川直経と申し合わせて帰陣した。ただ府中(宮津)では、今熊野城 の一色義有軍、および阿弥陀ケ峰城の延永勢と両城を囲む武田・赤沢勢とが対峙した状態 のままであった。

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ところが、6月24日、細川政元が京都で養子の澄之、薬師寺長忠らに暗殺されると いう大事件が起きた。
この知らせが6月25日には丹後在陣中の細川勢にもたらされたため、赤沢朝経は一色義有と和睦し、 翌日宮津城まで退いたところ、27日、政元の死を知った石川直経らは挙兵し、普甲谷で再 び合戦となった。
勢いついた石川直経は、赤沢朝経、古市丹後公ら、細川軍の諸将に勝利し、ここで粟屋親栄や赤沢以下数百人の戦死者を出した武田・細川軍は、若 狭・丹波へ退却せざるをえなかった。
このように、武田、細川勢の丹後侵攻は失敗に終わり、また、幕府の最高権力者である細川政元が死亡するという、とんでもない一大政変を引き起こした。
これにより、室町幕府は更に衰退化していった。
丹後の合戦が、日本の歴史に大きな影響をおよぼすことになったのである。
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南方系海人

Author:南方系海人
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古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
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