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丹後の戦国時代 その五

【石川氏と延永氏の合戦、武田氏の乱入】

武田氏と一色氏は、武田信栄が一色義貫を大和陣中で暗殺してその若狭守護職を得た。
また、応仁の乱では、一色氏が西軍、武田氏が東軍に分かれて戦い、その上、一色義直から没収された丹後守護職を一時武 田信賢に与えられたが、のち一色氏に返付されたなどの経緯があり、一色氏と武田氏は、互いに 強い不信感を抱く宿怨関係にあった。
さらに丹後と若狭は境を接しているため、両 氏の間には常に緊迫した情勢が続いており、何かきっかけがあるとただちに武力衝突につながっ た。
こうした事情があり、武田氏の丹後出兵は幾度となく繰り返されていった。

1503(文亀3)年、幕府の実質的支配者、細川政元には実子がなく、前関白九条政元の子、澄之を養子としたが、のちに前阿 波守護細川成之の孫の澄元を養子に迎えた。更に、同じ細川一門の細川政春の子、高国を養子とし、それが因となって、家中は 澄元派と澄之派に分かれて対立するようになっていった。
いよいよ官僚細川家でも家督争いが始まった。

一方丹後では、守護一色氏の権力は完全に失墜し、守護一色義有は、丹後の国人衆を統制できなくなっていた。
丹後守護被官伊賀又次郎が竹野郡で反乱を起こした。
同年、もともと仲の悪かった丹後守護代の延永春信(府中)と丹後守護被官石川直経(加悦谷)が対立し合戦となった。
一色氏家臣同士の戦闘である。
更に、この内紛に便乗して、若狭の武田元信の軍が丹後に侵入し、丹後国は「国錯乱」と呼ばれほど激しい戦火が繰り返され、本格的な戦国時代に入った。

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※石川氏は、加悦の安良山城を本拠地とする国衆で、元々荘園をもっていた。
幾地、滝、石川、亀山、金屋等、加悦谷一円に一族の城を持ち、支配域を広げていた。
丹後国初代守護満範からの有力被官として、在京奉行人や、若狭今富名代官、伊勢国守護代を出している。
守護勢力が弱体化した当時は、加悦谷の石川氏、宮津の小倉氏、久美浜の伊賀氏が、国の奉行として、丹後を三分割していた。

一方の延永氏は、国府、宮津の府中を本拠地とし、丹後守護一色氏の守護代を務めてきた。
丹後国で守護代として地位を保持しながら、次第に勢力を広げ、主家をも凌ぐほどに成長した。
天橋立智恩寺の多宝塔は、延永氏の残した遺産である。
しかし、1497年、一色五郎を殺害し、内乱を起こしていたようだ。
また丹後水軍を率いて、若狭国を攻撃している。



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南方系海人

Author:南方系海人
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古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
間違えた認識もあるかと思います。
自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

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