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丹後の戦国時代 その参

【応仁の乱勃発】

文正2年(1467)1月18日、家督争いから畠山義就が京都上御霊社にいた畠山政長を攻めて、 これが発端に「応仁の乱」が始まった。


また、嘉吉の乱で、将軍足利義教が殺害された為、 義教の嫡子である義勝が第七代将軍になったが、僅か 9歳の為、政治能力などなく、官僚細川持之が実権を掌握した。 しかし、僅か在任8ヶ月で義勝は死亡。 後任の第八代将軍に、弟で八歳の義政が選出された。 しかし、同じように政治能力などあるはずもなく、朝廷や、生母の日野重子、官僚の細川氏、 有力 守護大名の山名氏や畠山氏などの政治関与が続き、将軍の権威は一気に失墜していった。

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足利義勝



【応仁の乱】 将軍義政は、政治能力が全く無く、趣味に没頭する日々に明け暮れていた。 正妻である日野富子との間に男子が無く、次の後継者に弟の義視を養子とし、家督を継がせる事にし た。
義視は後見人に官僚細川勝元を頼んだ。 しかし、日野富子との間に子が出来、義尚を出産した。 当然、富子は、我が子義尚に家督を相続させ、次の将軍にしたく思い、官僚山名宗全に後押しを頼 んだ。 この家督争いのゴタゴタが元となり、以前から仲の悪かった細川勝元と山名宗全が中心となり、 東 軍と西軍に分かれて戦闘を繰り返す事になった。
若狭守護武田信賢は細川(東軍)に、 丹後と伊勢の守護一色義直は山名宗全の孫婿の関係で、山名(西軍)に組した。 また守護大名畠山家や斯波家も家督争いが勃発し、東軍と西軍に分かれて戦った。 『応仁記』によると、東軍細川方16万人、西軍山名方11万人が衝突し、京都の町は、灰と化してゆ く。 1467年5月の事である。


応仁の乱=(東軍細川勝元と西軍山名宗全)


【畠山家】
1448(文安5)年、畠山持国は、畠山政長(持国の弟の持富の子)を養子にして、次の家督に指名していた が、自分に子供が生まれたので、自分の子畠山義就を跡目とした。
1455(享徳4)年、畠山持国死去。
1460(長禄4)年、反畠山義就派は、細川勝元の支援を受け、持富の子政長を かついで巻き返しを図りる為、家督を政長に譲った。
1464(寛正5)年、畠山政長は、細川勝元に代わり管領に就任。一方、畠山義 就は幕府の攻撃を受ける。
1464(寛正5)年11月、男子のいない将軍足利義政は、弟の義視に将軍継嗣を約束し 12月、足利義政の養子になり、細川勝元は、その後見人になる。


【細川氏】
細川勝元は、幕政の実権を握り、畿内・四国・山陽に8カ国の守護分国 を保持していた。

【山名氏】
山名氏の本拠地は、丹後の隣、但馬で、嘉古の乱で播磨など3カ国を加え、8カ国の守護分国を持つ有力守護となってい た。
次第に、細川勝元と幕政の主導権を 争うようになった。
宗全は養女を細川勝元と結婚させる一方、畠山氏の内紛では義就派についた。



【斯波氏】
1452(享徳元)年、斯波義健の死後、斯波義敏と斯波義廉の家督争いがおこる。

1466(寛正7)年、将軍足利義政は、側近の伊勢貞親らの意見により、斯波家の家督を 義廉から義敏に変更し、足利義視の暗殺を画策したが、足利義視は細川勝元邸に逃れ、斯波 義廉を支持した山名宗全は勝元と一致して伊勢貞親ら側近の排除を義政に申し入れ、そ の結果、伊勢貞親は逃亡した。
12月、山名宗全は、斯波義就軍を京都に招聘。

1467(応仁元)年1月、山名宗全の策略で、足利義政は、管 領に斯波義廉を任命。
畠山政長は自邸を焼き払い、上御霊社の森に布陣した。 畠山義就と斯波義廉の被官である朝倉孝景の軍勢が畠山政長軍を打ち破る。
応仁の乱の火蓋が切っておとされた。

【将軍家】
1464(寛正5)年11月、男子のいない将軍足利義政は、弟の義視に将軍継嗣を約束し 12月、足利義政の養子になり、細川勝元は、その後見人になる。

1465(寛正6)年11月、足利義政の妻の日野富子は、足利義尚を産むと、足利義視を 排斥しようとし、細川勝元と対立する山名宗全に後押しを依頼。

1466(文正元)年9月、足利義尚の養い親の伊勢貞親は、相国寺の季瓊真蘂(幕政の実力者)と共に、足利義視の悪口を足利義政に告げ口し、果ては殺害まで 計画。
義視の後見人である細川勝元と、伊勢貞親と対立する山名宗全らは、伊勢貞親を近江に追放。

【 東軍】
細川勝元、畠山政長・赤松政則・武田信賢・京極持清・富樫政親・斯波義敏

【 西軍】
山名宗全、畠山義就・斯波義廉・六角高頼・一色義直・土岐成頼・河野通春・大 内政弘・朝倉孝景

1473(文明5)年、山名宗全、細川勝元が相次いで病死し、和平の動きが活発化した。
1477(文明9)年、山名政豊は、細川政元と和睦し、さらに幕府へ降伏を申し入れた。
政豊は、新将軍足利義尚に謁見して山名氏の所領が安堵された。
ここに応仁の乱は、京都を荒廃させ終結し、戦国時代の幕があける。


応仁の乱が終わり、
・幕府や公家・社寺の権威・権力が崩壊した。
・社寺などの由緒なる建物が放火され、宝物が消失した。
・地方では、守護代や国人が台頭し、下剋上の時代が始まった。
・戦乱で灰と化した京都を離れた公家や芸術家や技術者が、地方に移住した。
・また、守護大名は、自分の領国に住むようになり、一色氏も京都から丹後府中に居を移した。
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南方系海人

Author:南方系海人
ブログへようこそ!
古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
間違えた認識もあるかと思います。
自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

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