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丹後の戦国時代 その弐

【将軍足利義教謀殺事件】

独裁者、足利義教による諸大名弾圧に、都では「次は赤松の番だ」と噂が広まっていた。 「薄氷をふむの儀、恐怖千万。世上も物言い有り。赤松の身の上云々」 (看聞御記)

嘉吉元年六月二十四日

雨風降って、うすら寒い日だった。 守護大名赤松満祐の舘は宴が開かれ、宴たけなわとなっていた。 将軍義教はじめ、側近の諸大名を招き、大いに盛り上がった。大杯は何度も座敷を回り、能舞台が 開かれ、「鵜飼」を演じていた。 その時、邸の奥から物音が響き渡り、雷鳴かとも思われた。

「荒馬を外に出すな!門を閉めろ!」 それは、たずなを切られた荒馬が暴れまくる音だった。
荒馬は宴席が設置された庭に駆け込んできた。 その一瞬、障子が一気に引き裂かれ、数十人の侍がどっと乱入し、将軍義教を斬り倒した。 独裁者の最期だった。 義教側近の大名の三人もどっと倒れた。 場は一気に血の海となった。
山名持豊、細川持之など生き残った大名は、一目散に自分の屋敷に逃げ帰ったという。
1441年第六代将軍足利義教没。


四職のうち唯一生き残っていた赤松満祐 による将軍殺害事件である。 この事件により、赤松家は没落することになったが、赤松がやらなくても、誰かがやったのだろ う。 この事件をきっかけに、世は果てしない戦乱の日を送る事になる。


満祐はその背丈の低さから三尺入道などと呼ばれていたという。低身長症(軟骨無形成症・身長が120cm程)だったようで、そのコンプレックスゆえ に、将軍に反抗したのではないかとの説もある。


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足利義教肖像画




※赤松氏は、播磨を中心とする一族で、守護大名の中でも一色氏と肩を並べる程の勢力を持ってい た。 「播磨は赤松の血」と言われるほどで、播磨、備前、美作、摂津にかけて分流し、赤松氏からの氏 姓は、二百数十にも及ぶという名家である。 そういえば、和田山の竹田城主も赤松の時代があったし、与謝野町にも赤松姓の人達がいる。 元々 は播磨からの流れなのだそうだ。 現在でも「赤松一族の会」が開かれ、全国から集結すると聞く。


丹後年表(主な出来事) 1400年~1450年まで

1402 足利義満、義持と共に三度天橋立文殊堂参拝。

1405 足利義満、四度目の天橋立文殊堂参拝。

1409 丹後守護一色満範から義貫となる。(守護代伊賀入道)

1420 木津中館城主松本正勝、妙見社建立

1440 一色義貫、大和陣中にて暗殺され、甥の教親が守護を継ぐ。(守護代、三方範忠~延永益信 ~延永益幸~堅海若狭入道)

1443 丹後大雨大洪水、加佐郡田辺は泥海と化す。波浪は天橋立を越す。竹野川沿岸被害甚大。一村 残らず流出の所あり。現峰山町杉谷まで船9隻が流れ着いた。 一色義範は年貢を免じ大災害に対処 とある。

1449 坂根修理亮が加佐郡中筋村字伊佐津左武ヶ嶽の西頂に砦を築く。のち、一色氏に従い竹野郡島 村に城を移す。
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古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
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7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
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自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

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