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丹後の戦国時代 その壱

戦国時代といえば、どこから書き出せばいいのか。 一般論としていえば、織田信長の頃と思われがちだが、そうでは無い。応仁の乱の頃からである。
応仁の乱から室町幕府が完全に失墜する16世紀末までの、約100年間である。
さて、この応仁の乱であるが、どうもあまり人気の無い戦国期なのだそうだ。 人間関係が大変複雑で、織田信長のような圧倒的支配者がいなかったのが原因かもしれない 。 しかし、この乱を知らずして戦国期を語る事は出来ない程、重大な意味を持っている。 詳細は数ある歴史資料を読めば理解できるので、ここでは、大まかな史実を書きます。


1336年、足利尊氏が南朝を破り、征夷大将軍になり、室町幕府(足利幕府)がスタートした。
三代将軍義満の時には足利家の絶頂期を迎え、武力だけでなく、和歌、連歌、能などの北山文化を花咲かせ、金閣寺建立など、文化の面でも 華々しい時代であったという。
南北朝の合体を実現し、貿易も始める等、室町幕府は全盛期を迎えた。

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室町幕府は、日本の各地(各国)に守護(守護大名ともいう)を配置し、それぞれが支配してい た。
丹後国は、足利一族の一色氏の領国であったが、守護一色氏は、実質丹後にはおらず、自分の家臣 を守護代に置き、治安などを任せていた状態であった。
一色氏は若狭国、三河国、山城国も領国としており、足利一族として隆盛を誇っていた。

しかし、足利家も五代義持の頃になると、将軍の権威は低下し、各地の守護大名が独立性を強め、重大な問題を抱えていた。
なかなか将軍が決まらず、結局、くじ引きにより義 教が、六代将軍となった。 この六代義教がくせ者で、気に入らない者は全て処分するといった残酷非情な将軍であった。

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朝廷で、くしゃみをした程度で、追放したり、正当な理由が無くても、処分、処刑した。
この為、周りの大名なども、震えあがっていたという。

その時代、一色氏は三代目の義貫が守護に任命され、丹後国、山城国、三河国、若狭国の4国を 領国としていた。
一色氏は、守護大名の中でも格が高かった。
三官四職といわれるように、幕府の官僚は、斯波、細川、畠山の三家、侍所頭人に、赤松、一色、 山名、京極の四家で交替されていた。

しかし、将軍足利義教は、力のついた守護大名と次第に対立し、細川氏以外の守護大名を弾圧す る。
1440年、永享十二年五月二十四日、一色義貫は、大和国人の反乱討伐戦に出陣中に、義教が命 令し、味方であるはずの武田信栄と細川持常の手によって暗殺されてしまった。
領国の多い一色氏を恐れたからであろう。
この時から、武田氏が小浜を中心とする若狭国の守護になり、細川氏が三河国の守護になった。この事件から、一色氏と武田氏は、丹後と若狭で、戦い続けることになる。

若狭国と三河国を取られた一色氏は、義貫の甥、教親が継いだが、領国は、丹後国と伊勢国の二カ 国になってしまった。


※一色義貫の後継者は、義貫の甥の教親が継いだが、実は義貫とは対立が続いていたのである。
教親は、父の持信と同様に、将軍義教の側近として重用された。そのため、義貫 との対立は続き、
義貫が大和で誅殺されると、翌日早朝、京の義貫邸を襲撃、放火した。
この騒動で義貫の家臣数十人が討死、自害している。
将軍足利義教が嫌っていた義貫邸襲撃、 この功績により、教親は、一色氏の家督を継ぎ丹後・伊勢北半国の守護となった
翌年6月24日の赤松満祐の義教謀殺事件(嘉吉の乱)の際は義教に供奉していたが、隙をついて逃げ出し難を逃れている。しかし1451年、教親は32歳の若さで急死する。
教親の後、義貫の子、義直(よしただ)が、守護職を継ぐ。
このような話が残っている。

義貫は、幕府の命令により、越智氏らを討伐するため大和に出陣していた。 同じく大和に布陣していた武田信栄が訪れて来た。 信栄は、義貫に翌朝、武田陣所で、一緒に食事をしないかと誘った。

武田信栄は将軍義教から一色義貫暗殺の密命を受けていたのである。

義貫の家臣は、「罠ではないか」として引きとめたのだが、翌日、約束とおり朝食の招待に応じ、 武田の陣所に出向き、 襲われ自害し果てたという。
義貫の家臣、三方若狭守・同弾正らは激しく応戦したが、討死した 。 陣所は血の海と化し、信栄自身も負傷したという。 その頃、伊勢守護土岐持頼も、細川持常に討たれている。

同年5月15日、武田氏に腹背を斬られ、大和信貴山の竜門寺で一族と共に自害した説もある。


“くじ引き将軍”足利義教が将軍になり、実現したい政策は、 公家風に軟弱になった武家の風潮を厳し く引き締め、幕府や朝廷を初代将軍足利尊氏の頃のように戻す事だった。

義教に反抗的な態度を取る者や気に入らない大名は次々と消され、延暦寺の高僧である弁澄、円 明、兼覚の三人までも、斬首されてしまった。これを聞いた延暦寺の僧二十余名は抗議の為に根本 中堂に籠り、火を放って全員切腹してしまった。

「万人恐怖」「恐怖千万」と恐れられた義教は、どんどん強硬路線を歩み続けていった。
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丹後の戦国時代について

はじめまして、てこいもです。
よろしくお願いします。
すごいです。よくまとめられたと思います。
なにより、歴史の資料を断片的でなく、関連させながら、臨場感を感じさせます。
ほかの項目も楽しみに閲覧させていただきます。
この時代の永正四年の乱については、守護大名の怨念がぶつかり合ったように思います。
この時代、丹波守護、若狭守護、越前守護対丹後守護という図式に何故但馬守護が援軍に来なかったかが、この後の、山名氏のみじめな滅亡の仕方につながると思っています。
丹後出身者だから思うので、暴論かもしれません。
但馬の方失礼しました。
一色氏はよく戦ったと思います。
最後に細川家の出世につながりましたが、丹後の戦いは足利一門の一流の武士団が戦った素晴らしい歴史だと思います。
また、感想を書きます。ありがとうございました。

てこいも様

コメント有り難うございました。
丹後の歴史が知りたくて勉強しています。
忙しくてブログの更新ができてませんが、
時間を見つけて少しずつ書きたいとおもいます。
ありがとうございました。

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プロフィール

南方系海人

Author:南方系海人
ブログへようこそ!
古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
間違えた認識もあるかと思います。
自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

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