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丹波の名城 福知山城

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福知山城 


城の種別 平山城
築城時期 天正七(1579)年
築城者 明智光秀
主要城主 明智光秀、杉原氏、小野木氏、有馬氏、朽木氏
遺構 曲輪、石垣、井戸、移築現存番所、復原天守 と転用石の石垣


小笠原長清の後裔塩見大膳頼勝が横山城を築いた。
織田信長に丹波平定を命じられた明智光秀は、天正七( 1579)年六月、横山城の塩見大膳信房、八上城の波多野氏を降し丹波国を平定、 横山城を新たに福知山と命名し大改修した。
築城に当たっては、信長 の旧権力否定の表れといえる、付近の社寺の転用石( 墓石、五輪塔や宝篋印塔 など ) の多さに驚く。
山崎合戦で光秀とその一党は滅亡した。



光秀本人は主に亀山城を丹波での居城とし、 福知山城には甥の明智秀満を置いた。 光 秀は、娘の玉(ガラシャ夫人)を細川忠興にやり、細川氏の宮津城築城の際、大きく協力した。天橋立で遊興した記録もある。光秀は民政にも力を入れ、 地子銭免除や河川の改修などで、民衆の高い支持を得た。
江戸時代から御霊神社に祀られるなど敬慕され た。

天正十(1582)年六 月一日、
織田信長に羽柴秀吉の備中高松城攻めへの援軍を命じられた明智光 秀軍は、亀山城を進発した。光秀は 進路を京都に向かって取り、六月二日早暁に信長の居所である、本能寺に火を放ち襲撃、信長を自害に追い込んだ。
しかし、羽柴秀吉との山崎合戦で 光秀とその一党は 滅びた 。
山崎合戦後 、亀山城に羽柴秀勝 (信長四男秀吉の養子) が入り、福智山城は その支配下におかれた。
翌天正 十一年 杉原家次が 二万石で入った 。
家次が病死、天正十三年 ( 1585 ) 、秀吉の重臣 小野木重勝が三万石で入る。
慶長五年 ( 1600 ) 、 関ヶ原合戦に先立ち、小野木重勝 は 石田三成 )の 命により、徳川に味方した 細川氏の丹後田辺城攻めに 出陣した 。
ところが 、 関ヶ原の戦いで石田三成の軍は、大 敗 した。
福知山城にいた重 勝 は 、関ヶ原で 徳川方に属して戦った 細川忠興の軍勢に 城を囲まれ 降伏し、重勝は亀山城で切腹した。
関ヶ原の論功行賞で有馬豊氏が 福知山城主になった。米高 六万石である 。
有馬氏により、城下町が完成したと云われている 。
元和六年(1620) 、大坂の陣による戦功で有馬豊氏は 筑後 久留米に 転封 。
翌七年 に 岡部長盛 が 五万石で 藩主となった 。
三年後の寛永元年(1624)、稲葉紀通が四万五千七百石で藩主となる。
と こ ろ が 、 悪 政 者 で あ っ た為、民衆からの評判が悪く、隣の丹後宮津藩 京極家 ともいざこざを起こし、謀反の噂まで広がってしまった。
慶安元年 ( 1648 ) 八月二十日 、稲葉氏は、自殺 に追い込まれた。
慶安二年 ( 1649 ) 松平 忠房 が 四万五千九百石 で 藩主となる。
寛文九年 ( 1669 ) 忠房 が 肥前 島原 へ 移封 となり 常陸土浦藩主 朽木 稙昌 が 三万二千石 で 最後の藩主に赴任した。
以後 、 十三代 朽木氏 が 続き、明治維新を迎えた。
朽木さんは現在も続く名家である。


福知山城に並ぶ転用石。
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この墓石、五輪塔などの転用は、明智光秀の城のシンボルである。

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福知山城の井戸は、全国の中で、最も深いものである。
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南方系海人

Author:南方系海人
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古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
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自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

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