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飛鳥坐神社 元伊勢参詣第九番

さて、元伊勢笠縫邑伝承候補地九社目は、桜井市から南部にすこし走った高市郡明日香村にある飛鳥坐神社である。
この地は、あの大化改新の場所であり、古代日本の中心部である。
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この神社は、どうやら出雲系のようで、鳥居が伊勢鳥居でなく、
また、案内板にも元伊勢伝承の記述が無い。
しかし、驚いた事に、ここの由緒書きには、出雲の国譲りそのものが書かれていた。
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飛鳥坐神社
所在地 奈良県高市郡明日香村大字飛鳥字神 奈備708
位置 北緯34度28分47秒 東経135度49分20秒
主祭神 事代主神 高皇産靈神 飛鳥神奈備三日女神 大物主神
社格等 式内社(名神大)・旧村社
創建 不明
この社・・・どうみても出雲であるが・・・。
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国のまほろば大和の国に古代より皇室の守護神と して鎮まります当神社の主神、事代主神は恵 美須神 の御名で世に広く知られております。大国主神の第 一子で父神とともに力を合わせ、こ の国土を拓き民 の衣、食、住は勿論、その他万物の生きるための基 礎作りをされた大神であり ます。 古典によりますと、神代の昔皇祖天照大神が皇国 の基を定めようとされ、大国主神のもとに国 土を天 の神に奉るよう御使を遣わされました。大国主神は その事を事代主神に相談され、その すすめによって 国土を捧げられました。そうして大国主神は、わが 子事代主神を数多くの神々 の先頭に立たせ皇祖に仕 えさせたならぱ、皇祖の国づくりに逆らう神は無い であろうと、皇室 の近き守護神として事代主神とそ の娘神、飛鳥神奈備三日女神(賀夜奈留美神)の神 霊を奉斎 なされたのが当神社の創建であって、実に 神代から続いている大社であります。 前述のごとく、この飛鳥の地に永く郡のあったことと神代に当社がこの地に創建されたとする 伝承とは決 して偶然ではなく、すでに神代の昔から大和の国は将来都と定めるべき美地なること を父神の大国主神は予 知されていたのであります。以来事代主神、飛鳥神奈備三日女神を始め四 柱の神々は協力して皇室の守護を はじめ、日本人に生活のあるべき道を教え、農業、工業、商業 など、産業振輿の神として、その由緒の顕著 なことは多くの古書に記述されているところであり ます。特に子宝、緑結ぴ、厄除、治病、製薬、交通安全、 商売繁昌、家内安全、夫婦和合等、専 ら国利民福の増進を図られ、その御神徳は著しいものであります。 当社は、天武天皇朱鳥元年七月に天皇の御病気の平癒を祈る奉幣があったことにも示されるよ うに、皇室 の近き守り神として奉祀され、天長六年に神託により神奈備山より現今の鳥形山へ遷 祀されました。延喜式 によれば名神大社に列し、祈年、月次、相嘗、新嘗、祈雨等の奉幣に預か り、祈年祭には特に馬一匹を加え られました。正平元年八月後村上天皇より金五十枚を賜わり中 ノ社が再建されております。このように朝廷 でも一般でも広く尊崇せられたことが察せられま す。 降って寛永十七年(一六四○)に植村家政が高取城主として封ぜられると、当社がその城の鬼 門にあたる ため、特に深く信仰されました。元緑頃には境内に末社五十余社が存したが、享保十 年(一七二五)に本社、 末社ともに火災に会い、社殿の大部分が焼失したので、安永十年(一七 八一)城主植村出羽守家利が再建し、 天明元年(一七八一)正遷宮が行なわれました。これが現存 の社殿であります。このように古代から数々の 変遷を経て今に至っています。 ※相嘗祭……朝廷の特別に尊崇された大社に新米を奉られる祭である。名神社三、一三二座中僅 に七一座に 限られている。

由緒書きによる

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境内を探したが、元伊勢らしき社が見つからず、半分諦めていたが、何やら
奥宮らしき道があり、歩くと・・・。金色に輝く鰹木と神明造りの小さな社が見えた。

間違い無く、天照皇大神と豊受大神である。
感激の瞬間。

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明日香村飛鳥に到着してまず感じるのは、 大化の改新の香りがするということだ。 蘇我氏の住居の あった甘樫丘から東にほぼ一直線上に蘇我入鹿の首塚があり、中臣鎌足、中大兄皇子と蘇我氏の戦 場と化した飛鳥寺、そして古い街並みがあり、 まるで映画のロケ地にでも来たような錯覚に陥る。 甘樫丘から飛鳥坐神社まで、僅か約七百メートル程度しかないのだ。 ここだけは車では通るべきではない。やはり徒歩か自転車で飛鳥の空気を吸い込みたいのである。 ほんの少し移動すれば、大友氏夫人の墓、蘇我山田倉石川麻呂の山田寺跡、天武天皇稜、 高松宮古 墳など見所が盛り沢山で、圧倒されてしまう。 やはり、大和は古代倭国の中心部なのである。

さて、肝心の元伊勢であるが、石段を上がり、境内を見渡すと、やはり、い・ず・もである。この 地の大物主は、大国主神なのであろう。 となれば、大国主の国譲りは、「ヤマトに国をどうぞ」 と譲った説も成り立つのかもしれない。 そして大国主を出雲に【封じ込めた…】 そして巨大な出雲大社を建立した。 このような仮説もあるのだ。 つまり、《記紀》によると、天照大神は葦原中国を鎮めたので、子のアメノオシホミミに次代を担 う。しかし、アメノオシホミミには二人の子供が出来たので、二人の子供、 ニギハヤヒとニニギに任 せる。ニニギは高千穂に降臨し、ニギハヤヒは大和に降臨した。 ニニギの曾孫にあたる神武が、東の国にいい土地があり、 そこにニギハヤヒという神がいる。私は そこに向かう」

ニギハヤヒはナガスネヒコの妹と結婚していた。 (つまり、大物主神を祀っていた大和にはナガスネヒコとニギハヤヒがいた。 )

神武の軍隊は瀬戸内をルートとし、河内から大和に侵攻したが、ナガスネヒコの軍団に激しく抵抗 され、再び熊野から廻る。 そして大和に侵攻した神武は再びナガスネヒコの抵抗に合うのだが、ニギハヤヒの息子のウマシマ ジが叔父のナガスネヒコを殺害し、あっさりと大和は神武のものになったのだ。 神武とニギハヤヒは元々先祖が同じ海人族なので、同じ血脈である。 海人族による制圧で、ここから大和がスタートする。 つまり、大物主を祀る出雲系を再度出雲 に封じ込めた。その後、大和朝廷の皇祖神天照大神が祀られる…。 の説である。

天照大神を皇祖神とする大和は、神の安住の地を求めて、遷宮の旅に出る。それが元伊勢伝説なの である。




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参拝日7月8日

元伊勢とは皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)が、 現在の伊勢神宮 に祀られる前に安住の地を 求めて旅をし、一時的に祀られた神社、場所 をいう。 天照皇大神は各地を遷宮され、 24箇所目が 伊勢神宮内宮皇 大神宮である。

外宮豊受大神宮は、天照皇大神が、丹波(丹後)の豊受大神を呼ば れ、丹波国(丹後国) 比治 真名井神社を出発され、伊勢神宮外宮豊受 大神宮に鎮座された。
※神格は、外宮豊受大神が上とされる。

倭国笠縫邑~丹後国与謝宮~倭国~紀ノ国~吉備国~倭国~ 伊賀国~近 江国~美濃国~尾張国~伊勢国~磯宮~渡偶宮(現伊勢神宮皇大神宮)

【倭国:笠縫邑伝承候補地】三十三年

檜原神社
巻向坐若御魂神社
桜井市茅原あたり
多神社境外末社笠縫神社
泰楽寺境内笠縫神社
志貴御県坐神社付近
笠山荒神宮
小夫天神社
飛鳥坐神社
以上、元伊勢笠縫邑三十三年間の伝承地候補地九社を参拝した。元伊勢笠縫邑とは・・・。

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南方系海人

Author:南方系海人
ブログへようこそ!
古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
間違えた認識もあるかと思います。
自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

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