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石川五右衛門丹後幾地説3

石川五右衛門伝 (但馬丹後丹波 たんたん紀行)


石川五右衛門伝

歌舞伎でもおなじみ石川五右衛門
「百日蔓の大盗人」というのが通り相場だが、実像には謎が多い。 出生地についても諸説紛紛。そのひとつに野田川町出身説がある。
「石川五右衛門(いしかわごえもん) 一五五八~一五九四
「石川五右衛門はそのむかし、幾地(当時は伊久知) 山城主だった石川左衛門尉秀門の次男として生まれた」というのだ。その根拠と推理はさておき、 まずは同地を訪ねてみた。
野田川町幾地は、むかしから「丹後ちりめんの里」として有名だ。 歩いていると、道端の家から機音が間こえてくる。その機音に包まれ静かにたたずむ、養源院というお寺の裏手に「史蹟伊久知城趾」と書かれた石碑が建ってぃた。幾地出身説、 その他である。石碑の右手には確かに「石川五右工門出生之地」とも刻まれていた(昭和三十九年建立)。それにしても本当にここで、石川五右衛門は生まれたのだろうか。
石川五右衛門幾地出身説はまず、大田亮著の『姓氏家系大辞典』 の「石川氏」の項に触れる。それによると、「伊賀の平姓石川氏で、川合一族中にて平信兼の末裔なり。丸の内に梶の葉。大盗石川五右衛門は丹後の石川氏とも、 伊賀者忍者より出づともいう」とある。
次に、地元の老人たちで幼いころに、″ 天下の大盗賊石川五右衛門はこの土地の出じゃ″ という話を聞かないで育ったものはない、という共通したコメントだ。そしてこれらを受け、昭和四十四年に発刊された「野田川町誌」 では、地元の郷土史家たちが本格的に資料の収集、分析を行い、その結果が「石川五右衛門の出生地考」として収録されている。
さて、そのいきさつを同町幾地に住む郷土史研究家、 浪江重雄さん(六三)の説明でひもといてみよう。     
それによるとまず、舞鶴市立西図書館にある『丹後 旧事記(くじき)』という本が登場する。この本は、江戸時代初期から中期にかけて編さんされたものらしいが、 丹後地方史を語るうえで比較的価値の高い資料だという。その中に、「秀門、天正十年田辺城(宮津城説もある)にて討死、嫡男文吾秀澄は弓木山の戦(与謝郡岩滝町)に討死す。次男五良左衛門はのち大閤秀吉公の伏見城にはいり千鳥の香炉を盗 んだが、仙石権兵衛につかまり、京都七条河原にて御仕置うける」との記述がある。色白い若君で和歌と謡曲の名手『一色軍記』などによると、秀門は丹後守護職一色義俊の家臣で、 足利幕府が減んだ天正元年(一五七三)のころ伊久知城主になった人物。しかし、 義俊は足利家の血を引く身の上。当時、天下を手中に収めんとしていた信長にとっては、 気になって仕方がなかった。そこで話は前述のいくさへと進む。五右衛門幾地出生説は、この秀門の嫡男、文吾秀澄の妹、 菊寿が嫁いだ坂根斎――秀門の次の城主、その後代々庄屋を務める―― の子孫(養子)が名のりをあげたことで急浮上した。この人は、大阪市内に住む坂根さんで、坂根家十五代日になる。昭和三十九年、同家で「代々家宝として間外不出、 人に見せてはならぬ」との口
伝が残る系図が見つかった。系図には「文化十二年(一八一五)写す」と記されているが、それには、石川次郎秀廉から始まり、石川左衛門尉秀門へ、 そしてその下に右から連名で、文吾秀澄、菊寿、五良左衛門とある。つまり『丹後旧事記』の中に登場した「次男五良左衛門」が、 初めて実在する他の資料の中に浮かびあがった、という訳でる。さらに、坂根家の家伝では、「五良左衛門は面長、色白い若君で和歌と謡曲の名手だった」といわれている。また、 地元の老人たちはその所行を、「伊久知城落城の際、二十四歳だったであろう青年石川五良左衛門が、父、兄らの無念を晴らそうと、 当時、一色氏の守護代として伊勢にもあった石川家を頼っていき、伊賀に入って忍者修行をしたのでは」と信じているとも。悪事の限りをつくした天下の大盗賊、 釜煎の極刑に付された大悪党、石川五右衛門像は、かなり開きがある。また、歌舞伎「 楼門(さんもん)五三(ごさんの)桐(きり)」で南禅寺の山門の欄干に片ひざをつき、
「絶景かな、絶景かなァ」と大見栄をきり、長い掛け合いの後、下に控える 真柴(ましば)久吉(ひさよし)が、「石川や浜の真砂はつくるとも 世に盗人の種子はつくまじ」と応える名場面から連想される石川五右衛門とも、 少々違うようだ。お墓は信長父子と同じ大雲院に坂根家所蔵の系図と『丹後旧事記」にある「五良左衛門」が「 五右衛門」と同一人物であることを確定する資料はなにもない。名前の文字がひとつ多いなどということは、昔はよくあったとはいうが……。真実はやはり謎だ。ただ、 坂根家の口伝も含め、これらの資料が正しいとすれば、石川五右衛門の出生にひとつの大きなヒントを与えたことになる。石川五右衛門の出生を、クエッションマーク付きで、「 国民百科事典」の通り永禄一年(一五五八)とするなら、それから、四百年以上の月日が経っている。 謎が謎を呼ぶのも当然かもしれない。

野田川町幾地から、京都市東山区祇園町ヘやってきた。 八坂神社南側に大雲院がある。寺号は、織田信長の子、信忠の法号から付けられたという。寺の裏手が墓地になっている。墓地には、正面に信長父子の墓がある。そして、 その墓地の一角になぜか、石川五右衛門の墓もある。周りの墓より大きく、「 融仙院(ゆうぜんいん )良(りょう)岳(がく)寿感(じゅかん)禅定門(ぜんじょうもん )」という院号が刻まれて……。
もとは四条河原町の繁幸な一隅にあった。そこは今、 駐車場に変わっている。

(87年5月)

※幾地臨済宗養源院には、石川氏累代に位牌がある。
また、京都大雲院の墓地前にある宝鏡院塔には坂根家の名前が彫られている。(明治時代)
GRP_0366.jpg
石川五右衛門伝 (但馬丹後丹波 たんたん紀行)


石川五右衛門伝

歌舞伎でもおなじみ石川五右衛門
「百日蔓の大盗人」というのが通り相場だが、実像には謎が多い。 出生地についても諸説紛紛。そのひとつに野田川町出身説がある。
「石川五右衛門(いしかわごえもん) 一五五八~一五九四
「石川五右衛門はそのむかし、幾地(当時は伊久知) 山城主だった石川左衛門尉秀門の次男として生まれた」というのだ。その根拠と推理はさておき、 まずは同地を訪ねてみた。
野田川町幾地は、むかしから「丹後ちりめんの里」として有名だ。 歩いていると、道端の家から機音が間こえてくる。その機音に包まれ静かにたたずむ、養源院というお寺の裏手に「史蹟伊久知城趾」と書かれた石碑が建ってぃた。幾地出身説、 その他である。石碑の右手には確かに「石川五右工門出生之地」とも刻まれていた(昭和三十九年建立)。それにしても本当にここで、石川五右衛門は生まれたのだろうか。
石川五右衛門幾地出身説はまず、大田亮著の『姓氏家系大辞典』 の「石川氏」の項に触れる。それによると、「伊賀の平姓石川氏で、川合一族中にて平信兼の末裔なり。丸の内に梶の葉。大盗石川五右衛門は丹後の石川氏とも、 伊賀者忍者より出づともいう」とある。
次に、地元の老人たちで幼いころに、″ 天下の大盗賊石川五右衛門はこの土地の出じゃ″ という話を聞かないで育ったものはない、という共通したコメントだ。そしてこれらを受け、昭和四十四年に発刊された「野田川町誌」 では、地元の郷土史家たちが本格的に資料の収集、分析を行い、その結果が「石川五右衛門の出生地考」として収録されている。
さて、そのいきさつを同町幾地に住む郷土史研究家、 浪江重雄さん(六三)の説明でひもといてみよう。     
それによるとまず、舞鶴市立西図書館にある『丹後 旧事記(くじき)』という本が登場する。この本は、江戸時代初期から中期にかけて編さんされたものらしいが、 丹後地方史を語るうえで比較的価値の高い資料だという。その中に、「秀門、天正十年田辺城(宮津城説もある)にて討死、嫡男文吾秀澄は弓木山の戦(与謝郡岩滝町)に討死す。次男五良左衛門はのち大閤秀吉公の伏見城にはいり千鳥の香炉を盗 んだが、仙石権兵衛につかまり、京都七条河原にて御仕置うける」との記述がある。色白い若君で和歌と謡曲の名手『一色軍記』などによると、秀門は丹後守護職一色義俊の家臣で、 足利幕府が減んだ天正元年(一五七三)のころ伊久知城主になった人物。しかし、 義俊は足利家の血を引く身の上。当時、天下を手中に収めんとしていた信長にとっては、 気になって仕方がなかった。そこで話は前述のいくさへと進む。五右衛門幾地出生説は、この秀門の嫡男、文吾秀澄の妹、 菊寿が嫁いだ坂根斎――秀門の次の城主、その後代々庄屋を務める―― の子孫(養子)が名のりをあげたことで急浮上した。この人は、大阪市内に住む坂根さんで、坂根家十五代日になる。昭和三十九年、同家で「代々家宝として間外不出、 人に見せてはならぬ」との口伝が残る系図が見つかった。系図には「文化十二年(一八一五)写す」と記されているが、それには、石川次郎秀廉から始まり、石川左衛門尉秀門へ、 そしてその下に右から連名で、文吾秀澄、菊寿、五良左衛門とある。つまり『丹後旧事記』の中に登場した「次男五良左衛門」が、 初めて実在する他の資料の中に浮かびあがった、という訳でる。さらに、坂根家の家伝では、「五良左衛門は面長、色白い若君で和歌と謡曲の名手だった」といわれている。また、 地元の老人たちはその所行を、「伊久知城落城の際、二十四歳だったであろう青年石川五良左衛門が、父、兄らの無念を晴らそうと、 当時、一色氏の守護代として伊勢にもあった石川家を頼っていき、伊賀に入って忍者修行をしたのでは」と信じているとも。悪事の限りをつくした天下の大盗賊、 釜煎の極刑に付された大悪党、石川五右衛門像は、かなり開きがある。また、歌舞伎「 楼門(さんもん)五三(ごさんの)桐(きり)」で南禅寺の山門の欄干に片ひざをつき、「絶景かな、絶景かなァ」と大見栄をきり、長い掛け合いの後、下に控える 真柴(ましば)久吉(ひさよし)が、「石川や浜の真砂はつくるとも 世に盗人の種子はつくまじ」と応える名場面から連想される石川五右衛門とも、 少々違うようだ。お墓は信長父子と同じ大雲院に坂根家所蔵の系図と『丹後旧事記」にある「五良左衛門」が「 五右衛門」と同一人物であることを確定する資料はなにもない。名前の文字がひとつ多いなどということは、昔はよくあったとはいうが……。真実はやはり謎だ。ただ、 坂根家の口伝も含め、これらの資料が正しいとすれば、石川五右衛門の出生にひとつの大きなヒントを与えたことになる。石川五右衛門の出生を、クエッションマーク付きで、「 国民百科事典」の通り永禄一年(一五五八)とするなら、それから、四百年以上の月日が経っている。 謎が謎を呼ぶのも当然かもしれない。

野田川町幾地から、京都市東山区祇園町ヘやってきた。 八坂神社南側に大雲院がある。寺号は、織田信長の子、信忠の法号から付けられたという。寺の裏手が墓地になっている。墓地には、正面に信長父子の墓がある。そして、 その墓地の一角になぜか、石川五右衛門の墓もある。周りの墓より大きく、「 融仙院(ゆうぜんいん )良(りょう)岳(がく)寿感(じゅかん)禅定門(ぜんじょうもん )」という院号が刻まれて……。
もとは四条河原町の繁幸な一隅にあった。そこは今、 駐車場に変わっている。

(87年5月)

※幾地臨済宗養源院には、石川氏累代の位牌がある。
また、京都大雲院の墓地前にある宝鏡院塔には坂根家の名前が彫られている。(明治時代)
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南方系海人

Author:南方系海人
ブログへようこそ!
古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
間違えた認識もあるかと思います。
自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

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