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山椒太夫=安寿と厨子王

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山椒太夫

1 伝承地 宮津市 由良

(説経節より)
これから語る 物語は、丹後の国、 金焼地蔵のご由 来である。
陸奥の将 軍・岩城判官正 氏は、農民のことを気遣っていたが、帝のご勘気を蒙って、無実の罪で、筑紫の安楽寺に流された。
後に残った御台所は、父恋しと嘆く安寿姫・厨子王を連れ、召し使いの乳 母を供として、夫に何とか会いたいと、九州筑紫に向かっ た。
安寿姫16才、厨子王13才の時である。
半月ばかりで一行は、越後の国直江津 にたどり着いた が、ここで宿を貸そうという人買いの老婆に騙され、二隻の小舟に乗ったが、夫御台 所と乳母は蝦夷ヶ島へ、安寿姫・厨子王の姉弟は丹後の山椒太夫に売り分け られた。
安寿と厨子王は、「お母様ー、お母様ー!」と涙して何度も叫び、御台所も、「安寿~!厨子王~!」と叫んだが、見る見るうちに小舟はみえなくなった。
その別れに絶望した乳母は、自から海に身を投げて果てて しまうが、同じく投身しようとする御台所は、舟梁に縛り付け られ、蝦夷ヶ島の商人に売られ、女郎で働かされることとなった。
毎日毎日、けだものの相手をさせられ、渇れるほど泣き、耐えかねる日々を送っていた。
逃げようと試みたが追っ手に捕らえられ、足手の筋を刀で断ち切ら れ、不自由な体にされてしまう。
涙の雨に失明して、とうとう明け暮れ粟の鳥を追う身となったとい う。




一方、丹後由良の山椒太夫のもと に売り飛ばされた安寿姫・厨子 王の姉弟は、朝から晩まで潮汲み また柴刈りの労役をし いられ、その過酷さに命も危う く思われたが、太夫次男の二郎 の慈悲や村人の柴勧進によっ て、かろうじて命をつないでいた。
来る日も、来る日もなげきあい、離ればなれになった父や母を思い、必死に生きていた。
しかし、そんな二人に太夫の三男三郎は、いつも厳しい仕置きをした。
この屋敷から逃げたものは、顔に焼きごてを当てられ、大火傷を負わされ、半殺しにしていた。
二度、三度と逃げたものは、散々拷問を受けたあと、奈具の山中にて、道通りの通行人に竹の鋸で、首を切らせ殺害した。



し かし、太夫のあまりに過酷な労 役からなんとか逃れようと、姉弟が逃亡 の相談していたのだが、太夫三男 の三郎に立ち聞きされ、二人は それぞれ額に焼き金を当てられ る。無残な姿となった二人は、年の暮れには浜路の松の木湯船 の下に追いやられ、正月十六日には半死半生のまま山仕事に責 め立てられる。
が、宍道の岩の洞に、安寿姫が膚の守りの地蔵 尊を取り出だして拝んだところ、、二人の焼き金の傷は忽ち消え、地 蔵菩薩の白毫どころに焼き金のそれが現れたという。

そこで姉 の安寿姫は、その地蔵尊を弟の厨子王に託し、その場から逃げさせた。
ひとり屋形に戻った安寿姫 は、太夫の三郎に迫め立てられ、湯責め水責めのはて、炭火に 焼かれ、品詞の重症を負う。

山を逃れた厨子王は、太夫 の追手が迫るのに気づき、国分寺の毘沙門堂に助けを乞うと、 お坊様は、古い皮龍のなかに厨子王を入れ、縄で結んで棟の 垂木に吊って、素知らぬ体で日中の勤めをいとなむ。やがて太 夫を先頭に、毘沙門堂に駈け込んだ追手たちは、聖を迫め立て 寺中を探し回るが、厨子王を見出せない。しかし、ついに三郎 は棟木の皮籠を見とがめ、兄の太郎の慈悲のことばを退けて、 それを降ろして縄を切り、その皮龍の中を見ると、そこには姉 から託された厨子王の膚の守りの地蔵菩薩が金色の光を放って いたという。

安寿は、隙をみて屋形から逃げたが、降りしきる雪の中、凍える寒さと空腹と極度の疲労で、母、厨子王を想い息絶える。
ここをかつえ坂(飢え坂)という。
あわれに思った村人が、この近くに安寿を埋め、今は供養塔が建っている。




追手が去った後、毘沙門堂のお坊様は、厨子王の入った皮龍を背 負い、はるばる都へ上り、西の七条朱雀の権現堂まで送ってく れた。
その権現堂からは、厨子王は人々に土車に乗せられ、宿 送り村送りされて、難波の四天王寺にたどり着いた。
たまたま天 王寺の阿闍梨さまに見出され、茶汲みの稚児として仕えるが、 清水観音に申し子をして子どもを求めていた梅津の院と邂逅、 その養子に迎えられる。しかも、梅津の院に代って、帝の大番 を勤めた厨子王は、求められて素姓を名乗り、帝から許され て、父の元の所領・奥州五十四郡を賜わり、丹後の国まで添え られ、丹後国主となる。

厨子王は、早 速に安楽寺に父 を迎えの輿を出 す。次いで丹後 国に入って、国分 寺に詣でてお坊様を 探し出す。
お坊様 は、その後に安 寿姫の死骸を弔 うたとて、その 死骨・剃り髪をさし出して見せた。
さらに厨子王は、由良の港 に使を出し、山椒太夫親子を国分寺に呼び寄せた上で、太郎と 二郎の二人を許したが、山椒太夫の首を三郎に鋸引きさせ、三郎を浜に引き 出し往来の山人に鋸引きさせる。やがて慈悲の心を寄せた人々 に恩賞を送った厨子王は、直江津で山岡太夫を引き出して、 これを柴漬けの刑に処した。


はるばると蝦夷ヶ島に赴いて、鳥追 いに身を落とした母を探し出す。
「あんじゅ~、ずしおう~」「あんじゅ~、ずしおう~」
やっと会えたその母の盲目は、か の膚の守りの地蔵菩薩を取り出して、その両眼に当てたとき、 たちまちに元のごとくに開いたという。

最後に厨子王は、姉の安寿姫の菩提を弔うため、かの膚の守 りの地蔵菩薩を丹後の国に安置して、一宇の御堂を建立なさ る。今の世に至るまで人々が金焼地蔵とあがめ申し上げるの は、このことだったのだ。


山椒太夫(三庄太夫 )「加佐郡誌」

由良ヶ獄のふもと石浦に三庄太夫の遺跡というのがある。三 庄太夫は近在三ヵ庄の代官をもつとめる分限者であった。 村上天皇の天暦年間、奥州の太守岩城判宮将氏は無実の罪に よって筑紫に流されたが、その二子、姉安寿姫と弟津塩丸は父 を慕う余り、母を促して筑紫へ下ることにした。

山を越え、川を渡り、越後の国直江の浦の辺りまで来た時、山 岡太夫という悪者にだまされて、母は佐渡ヶ島へ売られ、安 寿・津塩の姉弟は宮崎三郎という者の舟で、丹後の由良湊へ連 れてこられ、三庄太夫に売られて奴隷にされた。それからは姉 は海へ潮汲み、弟は山の薪取りをさせられ、毎日々々随分むご い仕打ちを受けた。

それでとうと う堪え切れず、 二人は屋敷を逃 れ、津塩丸は和 江の国分寺に隠 れたが、和尚の 義侠によって追 手の難を逃れる ことが出来た。 和尚は津塩丸を 哀み、ひそかに経箱に入れ自ら背負って、京都清水寺の大悲閣 まで送った。ここで津塩丸は、子のない梅津大納言に逢いその 家に入って成人し、追々と出世する。

やがて津塩丸の家譜をはじめ、いろいろなことが天子の耳に も入り、特に旧国のほかに丹後の国も賜った。津塩丸はまず母 を佐渡から迎え、和江の国分寺の和尚を訪ねて旧恩を感謝し、 三庄太夫に対し一族の仇を打ったという。

これより前、姉弟は国分寺の谷間で水盃をして別れたが、そ れに使った草の葉を盃ギボシといい、その谷だけに成育したと 伝えられ、その谷を隠れ谷というと伝えている。 また和江に は、国分寺・大 坊屋敷・堂ノ 奥・老僧谷・仏 谷・かくれ谷・ 院ノロなど寺に ちなんだ地名が ある。 また、姉の安 寿は太夫の家を 逃れ、京へ上ろ うとする途中、中山から下東へ出る坂で、疲労と空腹に堪え切れず最期を遂げたという。いまもこの坂を かつえ 飢 坂といい、姫を 葬ったといわれる安寿姫塚が建部山のふもと下東にある。
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南方系海人

Author:南方系海人
ブログへようこそ!
古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
間違えた認識もあるかと思います。
自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

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