スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

笑原神社

【元伊勢笶原神社】
丹後国元伊勢籠神社の兄弟神社です。
籠神社国宝海部氏系図二十八世千嶋、千足、千成の千成が721年加佐郡国造として笶原神社の祝になりました。
以後、海部から清水、坂根と姓を変え、現在五十四世まで続いています。
舞鶴出身の実業家有本国蔵・嘉兵衛兄弟が寄進した神明鳥居に架かる奉納額
「総社笶原魚居匏宮」
(そうじゃやはらまないひさごみや)とあります。
花山天皇の皇子にして後の白川伯王家の祖となる清仁親王の書によるとされています。
本宮は、裏手の階段を登った山の上にあったそうですが、平成16年の台風で倒壊しています。

所 在 地 京都府舞鶴市紺屋町二九
主 祭 神 天照皇大神・豊受姫神・月夜見命
相  殿 清和天皇・宇多天皇
末  社  稲荷神社
祝  部  坂根氏

御由緒(舞鶴城下町倶楽部作成の碑による)

 天平勝宝元年頃に創設された古社。
 祭神は、天照皇大神、豊受姫神、月夜見神。
 相殿に淳和天皇、宇多天皇が祀ってあり、かつては魚居社(まないのやしろ)とも呼ばれ、古代海部(あまべ)や凡海連(おおしあまのむらじ)に関わりをもつ。

☆応永15年(1409)において、真名井与佐宮とされている点に注目
『舞鶴市史編纂だより』
《神職の許状について》
   専門委員  西村 尚

 神職の世襲による、いわゆる社家の制は、明治4年になって廃止されたが、無論、徹底したわけではない。今春、国宝に昇格した海部家系図を家蔵する宮津市の籠神社宮司海部穀定氏の家は代々同神社の祀職を世襲して今日に至っている。
 これは代表的な一例である。出雲大社の千家・北島両家を始め他にも例は多い。本市関係では大川神社の高田家、吉坂稲荷神社の両森本家。現白糸浜神社の坂根家は同一神社の世襲ではないが、祀職世襲的である。
 中世、京都吉田の神楽岡にあって吉田神道(唯一宗源神道)を標榜した吉田(卜部)家は、兼倶などの有力者を擁して、次第に神祇伯家の白川氏の職務を蚕し、神祇官代として全国の神社、神職をその支配下に置きつつ、盛んに神職の許状を発行した。殊に徳川幕府によって公布された「諸神禰宜神主諸法度」(寛文5年・AD。1665)により、吉田家の行政的権威が確立したとみられている。ために神祇伯家は劣勢挽回を期して努めたが、遂に吉田家に迫ることは出米なかった。
 当地方で 吉田、白川両家の神社・神職支配をめぐる軋轢については、寡聞にしてその資料を見る機会に恵まれないが、いかなものであろうか。江戸期の当市関係で、吉田より神職の許状を得ていたのは、大川・朝代の二社のみである。この点については、市史「各説編」で少しく触れた通りである。なお白川家側資料に「白川家門人帳」があって、その名称の通り、神職のみならず門人として職人・百姓なども名を留めている。
 ところで、昨年、白糸浜神社の坂根肇宮司より家蔵の神職許状を拝見する機会が与えられたのは、まことに幸いであった。以下これについて略述し大方の批判・叱正を賜わりたいと思う。

     丹後国田造郷内八咫村
     式内笶原神社神主海部綱光
     継目任願被為許容訖因冠○服
     浅黄差貫着用如先規神事之○
     令進退可奉祈
     宝祚延長者
     本官所候也仍執達如件
      神社官統領神社伯王殿
               雑掌奉
     応永十五年五月十三日
式内笶原真奈井与佐宮神主 坂根修理亮殿

【丹後風土記残欠】
笶原社

田造郷。田造と号くる所以は、往昔、天孫の降臨の時に、豊宇気大神の教えに依って、天香語山命と天村雲命が伊去奈子嶽に天降った。天村雲命と天道姫命は共に豊宇気大神を祭り、新嘗しようとしたが、水がたちまち変わり神饌を炊ぐことができなかった。それで泥の真名井と云う。ここで天道姫命が葦を抜いて豊宇気大神の心を占ったので葦占山と云う。ここに於て天道姫命は天香語山命に弓矢を授けて、その矢を三たび発つべし、矢の留る処は必ず清き地である、と述べた。天香語山命が矢を発つと、矢原山に到り、根が生え枝葉青々となった。それで其地を矢原(矢原訓屋布)と云う。それで其地に神籬を建てて豊宇気大神を遷し、始めて墾田を定めた。巽の方向三里ばかりに霊泉が湧出ている、天香語山命がその泉を潅ぎ〔虫食で読めないところ意味不明のところを飛ばす〕その井を真名井と云う。亦その傍らに天吉葛が生え、その匏に真名井の水を盛り、神饌を調し、長く豊宇気大神を奉った。それで真名井原匏宮と称する。ここに於て、春秋、田を耕し、稲種を施し、四方に遍び、人々は豊になった。それで其地を田造と名づけた。(以下四行虫食)

【与謝郡誌】
吉佐宮趾
 崇神天皇の朝皇女豊鋤入姫命が皇太神の御霊代、即ち三種神器の内八咫鏡と叢雲剱を奉じて大和国笠縫邑より當國に御神幸あり。社壇を橋立の洲先に卜して宮殿を御造営あらせられ、吉佐の宮と申し霊代を奉安神事せらるゝこと四年、のち伊勢国五十鈴川上に奉遷し、内宮皇太神の神都に奠め給ひしといへる旧社にて、我国体上最も尊厳の地位を占むる霊蹟なれば、伊勢に御遷幸の後にても依然宮殿を存置して皇太神を奉祀せしも、文殊堂の雪山和尚が諸堂拡張の為めに、切戸を渡して橋立の厚松内に宮殿を移したるが今の橋立明神なり。文殊境内なる宮跡は今本堂の東北なる本光菴の前仁当れるが、古来神聖の境域として苟くも汚穢不敬等のことある無く、約四坪計りは厳然として保存せられ今要目樹壹株を栽ゑられてあり。尤も吉佐宮に就ては種々異説ありて倭姫世紀には「奉天照太神於笠縫邑遷之于旦波與佐宮今加佐所在内宮即其處居焉四年又遷于伊勢五十鈴川上號曰内宮、事在垂仁天皇二十五年機歴十代至雄略天皇祀豊受皇于伊勢所謂外宮是也云々」と載せ神社啓蒙には「與謝宮在二丹後国與佐郡川森一所祭神一座」と云ひ和漢三才図曾には「與佐宮在二與謝獅川守一云々」となし又大神宮御遷幸図説には丹波吉佐宮今丹後に属し丹後の神森云々と云ひて河守に比定し、加佐郡舞鶴町紺屋天香山鎮座笶原神社慶長五年康子 冬十一月十四日国守細川越中守忠輿再建の標札に「丹後州神座郡田辺城外西嶺有笑原神宮焉豊受大神神幸之古跡而所謂為真名井原與謝宮三處之一而此嶺別有天香或藤孝之名焉、祭神天皇即位卅九壬戌歳使豊鋤入姫命遷天照太神草薙剱月夜見神于此地以奉齋一年三月矣然後鎮其御霊代又遷與謝郡九志渡島以奉齋此時始有與佐郡名焉云々」と録し、日本地理志料には「豊鋤入姫命齋皇太神於丹波吉佐官云々吉佐宮趾在文殊村郷名取此云々」と載す。丹後細見録、丹後舊事記及び丹後州宮津府志には孰れも「橋立大明神余社郡天橋立、祭神豊受皇太神宮、崇神天皇三十九年天照皇太神宮を崇め奉る,與佐宮倭姫の垂跡なり」と云ひ、神祇志科式外論神の部に「等由気太神與謝郡切戸にありて與謝宮と云ひしを後世橋立に遷して改て橋立明神といふ。(按与謝宮趾今切戸に在り何頃よりか其近傍に文珠堂ありしが奸僧雪山なる者其仏の栄えるまにまに遂に本社を今地に遷して其趾に文珠堂を構へたりしなりといふ甚だ憎むべき所業なりと云ふべしさて古は切戸より橋立の内府中真井原までも悉く本社の境内なりしといふ云々)天照太神の御饌都神等由気太神を祀る。雄酪天皇御世大御神の御教に依て此太神を伊勢の度曾山田原に遷坐奉らしめ給ひき云々」と掲げ、尚ほ皇太神四年鎮座考(吉佐宮考)には「皇太神は籠神社に四年間御鎮座ありて後伊勢の五十鈴川上に御遷幸」の由を記す。其他諸書の載する説もおのづから異るものあり、又皇大神と豊受大神即も内宮と外宮とを混同せる向もありて一定せず。按ずるに此の両者は倭姫世紀にある如く判然別個にして、皇大神を吉佐宮に齋き奉るのとき、典御饌神に丹波郡の眞名井原に降臨御鎮座あらせられたら豊受大神を橋立近辺に迎へ奉り(今府中村に豊受大神を祀る真名井神社は其宮なりとも伝ふ)皇大神の伊勢に御遷幸の後は祭祀も頽れしを、雄略天皇の朝に皇大神の御託宣により真名井原へ勅使を御差遣(此の真名井原とは府中の真名井原か或は其故地たる丹波郡の真名井かを知らず)伊勢の度曾に奉遷したるが豊受大神なれば、吉佐宮は内宮の皇大神なるは謂ふまでもなし。

笶原神社に残る慶長五年の棟札
丹後州紳座郡田邊城外西嶺有笶原神宮焉、豊受大神神幸之古跡而所謂爲眞名井原與佐宮三處之一而此嶺別有天香或藤岡之名焉、崇神天皇即位世九壬戊歳使豊鋤入姫命遷天照太神草薙劔月夜見神于此地以奉齋一年三月矣然後鎭其、御霊化又遷與謝九志渡島以奉齋此時始有與佐郡名焉夫當宮之有霊験者著于世也因記一二以示於後世社記曰、文武天皇慶運三丙午歳夏久旱魃不降一露尋有災火而山悉焚爲之萬民無所置手足也於是、勅阿部朝臣眞君副使中臣朝臣人足等被進種々神宝幣帛於当宮雷聲忽応而火災自滅矣、高岳親王詣当宮依神詫建清光殿于宮地遂奉戒言以自愼矣、花山帝患無子被祈於當宮即有感応而、清仁親王生、後醍醐天皇所於當宮被免蝮蛇之患、邦高親王亦祈此神御脳忽平癒此以下世蒙、神明之威徳者不可勝数、歴帝崇此紳之徳数進幣帛被修理賓殿雖然星移物代而雨露疵其?清宮既古矣于時慶長五年秋八月石田三成方人小野木重勝方囲當城之時父藤孝詠一首歌以奉于此、神而後爲籠城矣歌云、天照神之御坐郡奈禮婆荒振毛能乎屋良比賜邊庸既有感応而、太神夢中以長歌詫、智仁親王親王輒奏之、天子、天子大驚直乃、勅烏九岩廣卿西三條實條卿加茂松下大宮司等下、綸命於小野木因之小野木等速解囲退是故父出戦苦得小治一國也是非我徳也正、神明之妙助也益尊敬、其神徳自奉幣帛愼配吾姓祖、清和天皇之霊爲寄附神領九町七段百九十歩者也又其宮地山林自西馬谷之尾崎接圓隆寺之境南至桂林寺之境分地各正而寄附者如先規茲新営治、宝殿命神主海部真正之令祷當城鎭護國家安全五穀成就武運長久府惟、神明霊徳尚紳愍敬白
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

南方系海人

Author:南方系海人
ブログへようこそ!
古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
間違えた認識もあるかと思います。
自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。