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神秘の森 白米山古墳

【白米山古墳】

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神秘の森、白米山古墳に来ました。
この前方後円墳は、異常な気を感じます。
築造は四世紀前後だが、謎が多く、よくわからないらしい。
築造直後に、出雲の四隅吐出形のように改造された、全国でも例の無い前方後円墳なのだそうだ。
この加悦谷地域は、大国主神に土地を奪われた伝説があり、野田川の東半分は、物部郷と呼ばれ、中世の地図にもはっきりと描かれています。
丹後は豊受大神の故郷として有名ですが、ここ加悦谷は違う神様が祀られています。
倭文神社例祭で、大国主神に奪われた須代神社のスセリ姫に向かって、
『おーい、おーい!』と叫びます。
この白米山古墳も、ヤマト勢力の象徴とも言える前方後円墳に、出雲勢力の抵抗を連想させます。

以下、京都新聞より
*加悦・白米山古墳大改造*丹後豪族の自己主張か*定説見直す材料に*目的・背景さまざまな解釈*
 京都府与謝郡加悦町の前方後円墳・白米山古墳が三十一日、後に大規模に改造されていたことが分かった。これまで、古墳は大和王権との政治的同盟関係の象徴とされ、築造後は手を加えない、とみるのが定説だっただけに、研究者らに大きな反響を呼んでいる。「大和王権に対する丹後豪族の政治的自己主張」など、改造の目的や背景についてさまざまな解釈が出ている。
 前方後円墳は、三世紀後半の箸墓古墳(奈良県)が最古とされ、それ以後全国に広がる。研究者によると、同じ形の前方後円墳を造るのは大和の首長と各地の首長が同じ祖先を持つ同族であると示すためで、大和王権の政治的なネットワークが整ったことの象徴とされてきた。
 ところが、改造後の白米山古墳は前方部の角に特異な突出部が加えられていた。古墳に詳しい都出比呂志・大阪大数授はこの点について「弥生時代後期から日本海岸で造られた四隅が突出した墳墓の伝統を受け継ぐもの」とみる。今回確認された石棺が東西に向いているのも、後の丹後の古墳に共通する方式で、同教授は「当初は大和王権の指導で標準的な前方後円墳を造ったが、地域に伝わる独自の葬送儀礼を復活させたのではないか」と話す。改造した時期についても「当初のものを造った直後ではないか」と推測する。
 では改造は、何を物語るのか。現地を見た大阪府教委の広瀬和雄・文化財保護課係長は「大和王権に対する政治的な自己アピールではないか」とみる。「大和の権力が十分に浸透していない古墳時代前期には、大和と一線を画す地方があっても不思議でない。大和と地方の政治的力関係を見直す出発点になるのではないか」と話す。都出教授も「改造は地元豪族の意地の表れともいえ、大和王権がこれを黙認したのではないか」という。
 改造の意図とは別に、「築造後の古墳に手を加えない、とするこれまでの定説を見直す材料となる」(小笠原好彦・滋賀大教授)とみる研究者も多い。
 一方、時代を特定する出土物がないため、慎重な見方もある。和田晴吾・立命館大数授(考古学)は「三つあるテラスなど改造後の形状は他に例がなく、用途も不明だ。

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南方系海人

Author:南方系海人
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古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
間違えた認識もあるかと思います。
自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

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