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石川五右衛門丹後幾地説

石川五右衛門

 
古くから、与謝野町幾地に伝わる、石川五右衛門の伝説です。
旧野田川町の古老達は、「天下の大盗賊石川五右衛門はこの土地の出だ」と語り伝えてきました。
丹後旧事記、一色軍記、丹後新風土記、NHK歴史への招待、日本史人物夜話石川五右衛門、野田川町史、糸井文庫、岩滝町史、丹後但馬丹波の史跡集、その他郷土史に残る、当地に残る伝説や史実をもとにした、石川五右衛門について、自分なりに調査したことをまとめます。
1761年編集の丹後府志にはすでに幾地城にいたことの記述があります。
只し、丹後に伝わる石川五右衛門と、義賊として映画のヒーローとして脚色された五右衛門のイメージとは、少々異なるかもしれません。
また、文献については、そのままの原文を掲載する事もありますので、著作権などの問題が発生するのであれば、すぐに削除しますので、こちらにコメントください。
古い文献につき、多少異なる記事もありますが、訂正や注意書きも入れました。
丹後の石川氏については、「丹後の戦国時代」に詳しくかきましたので、どうぞ。
◎丹後旧事記一覧集

幾地城跡は、市場村字幾地小字城山にてソブ谷より水を引きしと云う。
石川左衛門尉の拠りし所にて、左衛門尉は天正十年九月八日、一色義俊に従い田辺城には入りて主従同じ枕に討死し、其男文吾秀澄は義清の為に弓木城に籠城し、其年九月二十八日討死す。
城跡に稲荷の小祠あり。次男五良左衛門は、盗賊となり、豐太閤千鳥の香炉を盗み、京都の七条にて刑死せり。
(幾地城跡は、現在の与謝野町幾地小字城山にあり、ソブ谷から水を引いていた。
この城の城主は石川左衛門尉で、左衛門尉は、天正十年九月八日、丹後守護大名一色義俊が、細川幽斉、忠興に田辺城…(宮津城の間違いであろう)…にて、誘殺されたとき、運命を共にします。長男文吾秀澄は、義俊の叔父義清の為に、弓木城に籠城したが、九月二十八日に討死した。次男の五良左衛門は盗賊となり、豐太閤千鳥の香炉を盗み、京都の七条にて刑死となった)

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◎与謝野町観光パンフレット…よさの旅、与謝野みち
 石川五右衛門生誕の地

文化二年(1805)の丹後旧事記によると、伊久地城主、一色義俊の家臣、石川左衛門尉秀門の次男こそが、かの有名な石川五右衛門であるとしています。
城跡には「石川五右衛門出生之地」の石碑が建てられています。


◎四辻郷土史

南北朝初期健武年中、足利尊氏中央政権を把握して其一族である一色範光が丹後国守護職に封せられからは(丹後府志によれば) 四辻亀山城に荻野悪右衛門景直が居りて、幾地(現城山)に石川左衛門尉及び其の子文吾秀澄、次男五右衛門が城を構え、当四辻八幡山の陣館には赤井五郎之に拠る。又は荻野の臣赤井平治とも云ふ。
注、古文書によると、荻野家は始め丹波の大名であったが、戦国となって、赤井家と確執、同地方大名波多野氏が和解につとめ、其の後、共に織田氏の先鋒明智氏に追われ、一色氏に依りて、此城を領有した同記に「女子、波多野右衛門輝秀室亀山城主遠江守秀尚母成、景直母方之伯父於殺、故号悪右衛門」とあり。
幾地城主石川次男五右衛門は、父、兄共に一色軍に従ひ細川勢と戦ひ討死し、此地方、又細川氏により占領され一色氏は全く滅亡したので、逃走して京師に隠れ、復讐の機を伺っていたが、豐太閤の千鳥の香炉を盗まんとして、とらえられ京都七条河原で、刑死したといふ。

※備考 
伊久知山城主石川左衛門尉秀門の家臣に坂根斎といふ者あり(伊津紀と同人なるべし)足利の残党にして一色義道(義俊か?)に従ひ天正十年二月二十二日の夜、加佐郡田辺城で合戦の際討死。同年十月一日伊久知山城落ち、其長男伊津紀といふ者両刀を捨て、幾地に隠る其次男某家統を継ぎ総本家となる。現幾地村坂根庄一家なり。(伊津紀は二代襲名している)又、其他坂根安三郎氏(在京都)四辻嘉右衛門氏家皆此系統遺族ならん。
又、坂根氏農民となり、戦国時代、朝廷衰徴して封料上がらず日常にも困難された時、当時の坂根氏家より其自作の穀物(米豆等)を奉献し、時の後水尾天皇は之を非常に嘉賞せられ親筆の色紙を下され共に、汝の居所を、生く地とせよと御命名になり之より生地と称し、幾地となったといふ。
 

◎一色軍記

次男、五良右衛門、後、太閤秀吉の伏見の御殿に忍び入り千鳥の香炉を盗み、仙石権兵衛に生け捕られ京都七条河原にてお仕置き。


◎石川五右衛門 日本史人物夜話 

平安の末に、石川次郎秀廉が怪鳥退治で源頼政に功をゆずり、その罪で山陰に流された。
その子孫の石川左衛門尉秀門が丹後の守護大名の名門、一色丹後守義俊の家老として伊久知山を居城とした。
天正年間、信長は細川幽斉に一色を討たせた。
幽斉は、天正十年(1582)九月、一色義俊を丹後田辺城(舞鶴)に招き、義俊もろとも秀門ら百五十人の家臣を謀殺した。
この時、秀門の長男秀澄は田辺城を脱し、弓ノ木城(岩滝)に籠ったけれど、ほどなく落城し、十月には伊久知城も陥ち、石川氏は亡んだ。
この秀澄の弟、つまり左衛門尉秀門の次男の五良右衛門が、落城とともに姿をくらました。
この五良右衛門なる人物がやがて巨盗石川五右衛門として登場する。
野田川町幾地(元の伊久知)や石川という大字があり、土地の人は、異口同音に「五右衛門さん」という親近感をもった愛称で呼んでいる。
五右衛門は本当のところはよくわからない。
秀吉についていうと、江戸時代になって、大坂町人などの反幕府的な空気のうちに太閤びいきの感情が生まれ、近代になると国民的人気者にされてゆくが、現実の秀吉の京畿における庶民に対する政治方策はきわめて厳しいものであ
り、庶民のそれに対する抵抗が少なくないことは、史実の上であきらかである。
五右衛門が、秀吉体制への反逆者の代表的なものであった事はまず確かだろう。『賊禁秘誠談』に秀吉じきじきの調べに対し、五右衛門が、「大盗人はお前だ、天下を盗んだではないか」とタンカをきる下りがある。
まさに、罪の小なるは囹語にあり、罪の大なるは廟堂にあり、である。
五右衛門の出生地はどこか。わたくしにとっては丹後説がおもしろい。
もともと丹波や丹後の霧深い山や野は、都にとってアウトサイダーたちの群落する所であった。亡命者の隠れ里であり、反逆者の旗揚げの地であり、都へのエネルギーの培養地でもあった。それは丹波、丹後に境する大江山の鬼以来の伝統である。

石川五右衛門のお話は、次回につづく

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南方系海人

Author:南方系海人
ブログへようこそ!
古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
間違えた認識もあるかと思います。
自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

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