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大江山の地名伝承

雪が降らないので、年末は大江山を徹底的に学習する事にしました。

大江山は、古代は余社の大山(与謝の大山)と呼ばれ、今の大江山になったのは11世紀の頃のようです。
大江山は、京都市と亀岡市の境にある老ノ坂付近と、ここ丹後の大江山の2つがあり、大江山の鬼、酒呑童子の本家本元騒動があったようですが、どちらの山にもあてはまるように書かれています。
これは、老ノ坂の大江山(大枝山)は、日本書紀では大井山、万葉集では大江山となっており、大江の古名は老または淤伊で、どちらもオイと読みます。
これが現在では大枝(おおえ)。
大日本史・姓氏録によると、天武七年(679年)大枝に丹波国の関所が設けられ、『大江(オイ)は今沓掛村ニシテ西北二在り即チ古き郷ナリ大江氏はコノ地で貫ナル』とあり、丹波丹後国司の大江氏の出生地であり、大江氏が丹波国司に赴任したとき、『ここが古代の老ノ本郷だ』とし、大江山としました。
長歴元年(1037年)に大江拳周が丹後国守として赴任し、丹後の大江山は、大江氏が丹後国司として赴任の時に、与謝の大山を大江山と称し、我が姓を当てた。
後世、丹波の大枝山は《老ノ坂》となり、丹後の与謝の大山は《大江山》となり、現在に至っています。

大江山連峰
『地名は貴重な文化財』
私は この麓の町に住んでいまして、この山の名前や伝説について、悩み続けた事がありました。
・いつ頃から大江山になったのか?う
・酒呑童子伝説(大江山の鬼退治)は京都の大枝山?

古い文献を読むと、この山は、与謝の大山、千丈ケ嶽、三上山、鬼嶽、鍋塚なとどが出てくる。
貝原益軒『西北紀行』1689年には大江山として書いてあるので、その時には大江山の山名が付いていた事になります。
この山には、古代から三つの鬼退治伝説が残されています。

①『古事記』に記された、日子坐王が、土蜘蛛、陸耳御笠を退治して、この山に逃げた話。
②聖徳太子の異母兄弟である麻呂子親王が英胡、軽足、土熊を討ったという話。
③そして有名な酒呑童子を退治する話。
https://nohmask21.com/oni/densetsu01.html
酒呑童子の本拠とした「大江山」は、原話では、京都市西京区にある山城国と丹波国の境、老ノ坂の大枝山(おおえやま)で、ここ丹後の大江山では無いとする有力な説があります。
しかし、丹後の大江山周辺は、鬼だらけで、鬼の交流博物館、鬼退治伝説に登場する多くの神社や地名があり、本家である大枝山より、今ではこちらを説とするのが、一般的になっています。
①と②の鬼退治伝説は、丹後の大江山(当時は与謝の大山)である事は確かですが、③の酒呑童子の大枝山が、何故、丹後の大江山になってしまったのか?

*加悦町史を纏めると、以下のようになります。
元乙訓郡大枝村(現在の老ノ坂辺り)に住んでいた大江氏が丹後国守になり、長暦元年(1037年)丹後に赴任した。
大江氏は、天安二年(858年)大枝音人が丹波守となって初めて「大江」の姓を称した。
子孫が丹波、丹後の国司を歴任し、丹後の大江山は、大江氏が丹後国司として赴任の時に、与佐の大山を大江山と称し、わが姓を当てた。
やがて、丹波の大枝山は「老ノ坂」となり、丹後の与佐の大山が「大江山」に組み替えられ現在に至る。とあります。

※亀岡の小塩山も大江氏が大江山とし、与謝の大山も大山氏が大江山とした。

平安時代初期の延喜式において、籠神社は山陰道唯一の官幣大社とあり、当時は出雲大社より社格が上とされているが、皇學館大学文学教授白山先生の講話を聞き、実はそうではなく、平安京の勢力域、つまり平安京の最北端の大社であるから官幣大社とされたのをお聞きしたことから、考えが変化しました。

なる程、日本書紀で大井山、万葉集で大江山とされた大枝山が、それにふさわしい平安京の最北端の山として、大江山の位置が変わったのではないか?と想像しております。
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大浦半島の古刹 多禰寺

飛鳥時代最古の古刹、多禰寺を拝観しました。
国の重要文化財金剛力士像は木造として、東大寺に次ぎ日本で二番目の大きさを誇ります。

舞鶴湾を眼下に景勝の地にあるこのお寺は、医王山多禰寺と称し、当地に初めて仏教を伝えた飛鳥時代最古の古刹です。

今を去る事千三百年の昔、両丹を支配した豪族が乱を起こし、時の帝 用明天皇は第三皇子麻呂子親王に追討の勅命を下し、激しい戦も大江山(与謝の大山)の攻防を最後に平定されました。

世の不安を願う親王は、譲持仏の薬師如来を本尊に鎮護国家の道場として多禰寺を創建されました。往時は七堂伽藍の瓦が山並みに映え、七仏薬師の霊場として香煙が絶ゆことなく、門前市が軒を連ね賑わいました。

栄枯盛衰は世のならい、時代の変遷に壮大な姿は影を潜めました。然しいまもなお風光明媚な山懐に庶民の薬師信仰は息づいて居ります。歴史の風雪に耐え抜いた證として数多くの現存する文化財は訪ねる人々に語りかけ、偲ぶ事が出来ます。《多禰寺パンフレットより》

『多禰寺縁起』

用明天皇2年(587年)、聖徳太子の弟、麻呂子親王(まろこしんのう)の開基。父・用明天皇の命を受けた麻呂子親王は、庶民を苦しめた鬼賊(与謝の大山、三上ヶ岳に住む英胡、軽足、土熊)を「七仏薬師の法」の力で平らげ、その加護に報いるため、丹後の国に七箇所の寺を建て、七仏薬師像を安置した。その中で、親王の護持仏であった第七薬師瑠璃光如来を本尊としたのが当寺で、医王山多禰寺と名付けられた。

現在は真言宗東寺派に属し、西国薬師四十九霊場30番札所として、風光明媚な自然の山懐にたたずんでいる。 また、奈良時代〜平安時代などの貴重な文化財を、当初の像容で遺存されている。

加悦奥の一の宮さん

えっ!丹後一の宮籠神社の元宮???
与謝野町加悦奥の一の宮神社を参拝。
延喜式による山陰道唯一の官幣大社、丹後一の宮籠神社は大化改新後、彦火火出見命を祀り、与謝宮を籠神社としました。養老三年(719年)に久美浜から赴任にた海部氏が籠神社の神官となり、彦火明命(彦火火出見命の兄弟神)を主祭神とし、天照大神、豊受大神を相殿に祀った。その後、海神、天水分神も併せて祀った。
しかし何故、籠神社の主祭神を彦火火出見命から彦火明命に替える必要があったのだろうか?
ここに古代丹後の大きな秘密が隠されていると思う。
与謝野町加悦奥に鎮座する一の宮神社は、養老三年までの籠神社と同じ彦火火出見命と天水分神をずっとお祀りし、また祭礼の時は、ここ一の宮神社から天橋立府中まで、神輿が巡行した。
《加悦町誌》
一宮神社 加悦奥小字新田
 彦火々出見命、天水分命(水の神)、級長津彦命(風の神)の三神を祭る。社殿は江戸期一六八○年(延宝八年)と一七二八年(享保十三年)に建造されその後、一八七九年(明治十二年)境内末社の宮森の祠を合併し、一八八○年(明治十三年)改築された。
社前に小池があり、いかなる旱天にも枯れなかったと伝えられ、日照りで水田の水が枯れた時、氏子が池の清掃を行い雨ごいをした。文明年中(一五世紀中頃)府中まで、神輿の渡御があったといい、その創建はよほど古いものと考えられる。
籠神社が丹後の国、与謝郡の一の宮に対し、この社は謁叡郷の一の宮であったともいう。天水分命が籠神社と当社に祭られ江戸期に神輿が府中まで渡御したことから当社が籠神社の元宮だと里人がいい伝えている。

みこし田 加悦奥の一宮神社の近くの有熊にみこし田という名の田がある。府中一宮神社(籠神社)の奥の院がこの宮と称し、府中との間に一週間の祭礼があり、神輿が休んだ石が田の中にあった。この〝みこし田〝を耕作すると災難(たたり)に会うので、今だにつくらない。 (この石を石屋が割った際、その女房が腹痛をおこし、また、〝みこし田〝の草取りをして眼に草がささる等のことがあったという。
《与謝郡誌》
一宮神社
 加悦町字加悦奥小字新田、村社、祭神彦火々出見命、水分命、交明年中には神輿殿御ありしと伝ふ。社前に池あり旱天に減ぜずとて農民崇敬す、明治六年村社に列せらる。境内末社に宮森神社あり志那津彦命を祭りしも祠殿廃壊し明治十二年二月本社に合併す、氏子七十戸、例祭同上。

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南方系海人

Author:南方系海人
ブログへようこそ!
古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
間違えた認識もあるかと思います。
自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

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