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お稲荷さんの狛狐

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【狛狐のくわえている球】

お稲荷さんの狐の咥えているもの

神社繋がりの友人から、「稲荷神社の狐の咥えている玉って、なんですか?」と尋ねられましたが、はて?
何なのか調べてみました。

答えは、玉は如意宝珠。
水晶玉の事らしいですが、全ての望みを叶えてくれる宝珠なんだそうで、
狐は化ける時、この玉を使うのだそうです。つまり、この玉が無いと、狐は化ける事が出来ず、
妖術が使えないんですね。
稲勝負に負けた狐が宝珠を取られそうになっとしまうのですが、
もう人を化かしたりしない。その人の一生の間、
米の豊作を誓って宝珠を返してもらったという話しがあるそうです。
巻物は経典。
子供狐を従えているのは子宝。
鍵は、技の引き出しの鍵。

昔、狐が犬に襲われていました。
それを見ていた殿様が、襲われた狐を助けます。
狐はたいそう喜んで逃げて行きました。
ところが狐は、大切にしていた宝珠を落としてしまったのです。
殿様は宝珠を持ち帰ってしまいました。
それを知った子狐が、玉をとりもどそうと美しい姫に化けて、殿様の屋敷に忍び込みました。
しかし、いざ取り戻す時、宝珠を盗もうと犬神使いがやってきて、まんまと宝珠を取られてしまったのです。
ところがお香の香りで、犬の化けの皮が剥がれます。
オマケに殿様の妾になった子狐も、化けの皮が剥がれてしまい、またまた犬と狐が、玉の取り合いを繰り返します。
その玉こそお稲荷さんの狛狐の咥えた宝珠なのです。
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幾地、深田神社の調査②

【深田神社の調査②】
深田神社の彫刻師相野安右衛門は、昨日調査し、
丹州福知山京町にいた掘り師と判明しました。
会報「ふくち山」総目録569号にて、研究者塩見昭吾氏が、
「京町の掘物師相野について」を発表されており、綾部市高津の
高津八幡宮の彫刻も手掛けられていました。
相野安右衛門作の現地確認の為、高津八幡宮まで足を運びましたが、
制作年代は不明。
判ったことは、当時の住所のみでした。
丹州福知山京町住人御彫物師安井安右エ門
現在の市役所の少し駅側に当たるようです。
次に、文化四年に御神燈を奉納した坂根平右衛門のついて調査したところ、
幾地の安田墓地に墓があり、江戸期の人と判明しました。

神社本殿の建立時期は直接判りません。
そこで、宮津市図書館に残る、隣町の四辻郷土史を調査したところ、
寛政頃四辻推測図なるものを発見!
ついに左端に、深田社なる神社を見つけました。
しかし、どうやらこの推測図なるものは、明治時代の頃のようなので、
これもアテになりません。
調査はここまでと諦めず、休日を返上し、
大きな書店の郷土史コーナーに行って見ました。
そこで、面白い本を発見しました。


幾地 深田神社の調査

【深田神社の調査】

深田神社の建立時期の調査をすることになりました。

野田川町誌
深田神社 幾地小字新宮(元小字深田鎮座)
和久産巣日神または、若御魂神(ワカミタマノカミ)を祀る。
「御名義は、平田篤胤の説に『稚(ワカ)とし申す故は、御子豊宇気姫神(トヨウケヒメノカミ)に至りて穀物は成り出でたるなるを、此神はその産霊(ムスビ)の御徳を保持ち絵へるのみにて、未だ成し終へ給はざりしかば、豊字気姫神の神徳の広く大なるに対して、御親神なれども稚とは申ししなるべし。』とあり。」(大日本神名辞書)とある。神像はみずら童子形、室町期の作。大祭は、四月二十五日である。
 特殊な信仰崇拝として、米の粉で蚕の繭の形のものをつくり、これを神前に供える。麦、稲米を供える風習がある。これは、祭神が、養蚕穀物の神であることに由来している。
 余興として、江戸時代になってから能狂言があり、神楽による五穀豊穣の祈念も行なわれた。そのため、みこしが元宮祉の小字深田まで出向き、途中小字柳町に休憩所を設けていた(五・四メートル四方の石垣をめぐらし、杉が一本植えてあった)。 この休憩所は、道路工事のため、明治十六年取除かれた。また境内裏には、田地があったが、現在は荒地となっている。境内に保志奈、玉木、赤良の各祠がある。小字山王に日吉神社、小字平石口に狭田彦神社、小字新宮に愛宕神社、小字城山に稲荷神社の各社がある。
…………………………………………………………………………………………………………
創建は町誌によると七百年とあるが、実に曖昧です。
昭和二年の丹後大震災により、村は全戸全壊、灰になっており、その後の資料は、何も残っていません。
解っていたのは、
①御神搭に文化四年、坂根平右衛門
②彫刻に丹州相野安右衛門とある。
③本殿を建てたのが、冨田盛広と伝わる。
④鳥居に当時の世話人の名前が掘られている。
⑤江戸期文化年間に三河内から遷宮されたらしい。
以上により、江戸末期~明治にかけて建立した可能性が高いのですが、正確には分かりませんでした。
丹州相野安右衛門、坂根平右衛門、全て明治まで生きているので、深田神社本殿の江戸建立が、証明できません。
相野氏については、福知山市京町の彫刻師だったと判明し、数ヶ所の神社や資料を調べましたが、活動時期が、江戸~明治を跨いでおり、これ以上の調査は難航。
三河内地区にも深田神社の資料は全く無く、途方に暮れていました。
残すは冨田盛広なる宮大工さんです。
資料館、図書館、書店などを駆けずり回り、ついにゴールが見えて来ました。

三獄神社 福知山市

【雪の三獄神社

丹後の最高峰、三岳山の八号目に鎮座する神社です。
大江山 (833m)より高い三岳山は、古くから山岳修業の山としてしられています。
山名は、源頼光が大江山へ鬼退治に行く際、大江山に見立てて三嶽神社で鬼退治を祈願したことから、「見立て山」が三岳山になったとされています。

大江山山頂から眺める三岳山は、ピラミッドのような三角錐型の山で、すぐにわかります。
鎌倉時代後期から山岳修験の山として開かれ、南北朝時代初期には八合目の三嶽神社に蔵王権現が祀られています。
金光寺から山頂までの参道は女人禁制でした。

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金光寺からの登山道は、積雪60センチ、
山スキーを使い登ります。
針葉樹林が美しく、時折射す陽射しが、雪の参道を照らし、神秘的です。
黙々とラッセルし、深くなる雪を踏み締めながら登ること50分。
風雪に耐えてきた鳥居が、まるで大魔神のように佇んでいました。

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鼻ぐり古墳

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【鼻ぐり古墳】
吉備の鼻ぐり塚古墳です。
吉備津神社にお参りせず、今回は、此方に来ました。
吉備は、牛の信仰が多いようです。
ある宗教団体が、この周辺を購入されているそうで、入場料が100円必要です。
古代から崇拝の対象になっている磐座があり、後部には、小さな社があります。
鼻ぐり塚古墳は、牛の鼻ぐりが、約690万個も積み上げられていて、圧倒されます。
ウルトラマンエースの「怪談・牛神」では、この鼻ぐり塚から鼻ぐりを盗んだ青年がヤプール人に呪いをかけられて牛神超獣カウラになっています。
案内には鼻ぐり塚の由来が詳しく記されています。
鼻ぐり塚について
 かつてわが国の農村では、牛を飼い、田畑の耕作の労役等に使用していました。牛は家族の一員のように大切に育てられました。その際、牛の鼻に穴を穿ち、鼻輪(鼻環、鼻ぐり)をはめ、それに縄を結んで使役していました。やがて牛は飼い主の手をはなれて売りに出され、解体されて肉となり皮となりその最期を迎えます。牛はその一生のすべてを人間のために尽くしてきたといえましょう。
 こうした牛の大恩に報いるため、死後残された鼻輪(鼻環、鼻ぐり)を牛の唯一の形見として集めて浄祭することを福田海開祖中山通幽師が発願されたのであります。篤信の方々のお力により全国から鼻輪は収集され、現在もその事業は続いています。
 鼻ぐり塚はもと円墳であり、その墳丘上に鼻輪を積んでいます。石室内には真鍮製の鼻輪を溶かして作った阿弥陀の宝号を刻印した金属板が安置されています。また、正面には馬頭観世音菩薩を祀っています。昭和初年に塚が建立されて以来、現在までにおさめられた鼻輪の数は六百八十万を超え、現在も畜類供養のため、春秋二回畜魂祭を行っており、年間数万個の鼻輪が塚におさめられています。
プロフィール

南方系海人

Author:南方系海人
ブログへようこそ!
古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
間違えた認識もあるかと思います。
自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

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