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天橋立出船祭

【天橋立出船祭】

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出船祭りは、知恩寺の九世戸縁起を再現したお祭りです。
阿蘇海上を照らす数多くの松明の中、お坊さんのお経から始まり、子供の演舞、宮津節、龍 舞・巫女舞が演じられる。
イベントの最後には花火が打ち上げられ、夏本番を迎えます。
花火大会の後、回転橋の前で、和太鼓、龍舞、巫女舞が演じられ、目の前で見学出来ます。
丹後でも知らない人が沢山いて、もっと宣伝すべき盛大なお祭りです。
花火もいいですが、お祭りの由来を知り、演舞を最後まで見たいものです。

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九世戸縁起(くせとえんぎ)」
太古の昔、「いざなぎのみこと」「いざなみのみこと」という神様が、 日本列島、そして天橋立をお造りになりました。 この神様が出来上がった地上をご覧になりますと、悪龍が大暴れしていて 人々が住む事ができません。
神様たちは、毎日相談されました。 やがて、いざなぎのみことの申されますには、
中国五台山におられる文殊菩薩こそ智恵第一の仏様で、「何といっても、昔から龍神の導師である。
悪龍もきっと改心するであろう」と。
そこで神様たちは、五台山から日本海の荒海を越えて、 文殊菩薩を丹後天橋立のこの九世の戸(天橋立)へお迎えされたのであります。 文殊菩薩は千年の間、この地でやさしく慈悲の心をもって説法をされました。 やがて改心して善龍となった龍は仏に帰依し、 人々を守護することを誓ったのであります。

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天橋立文殊について
切戸の文殊、九世戸の文殊、知恵の文殊とも呼ばれる。
日本三文殊のひとつで、奈良県桜井市の安倍文殊院、山形県高畠町の亀岡文殊があります。
本尊の文殊菩薩は秘仏とされる。 正月三が日、1月10日、7月24日の年5日の開帳があります。


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知恩寺(宮津市史)
鎌倉時代制作の于?王と善財童子を従えて獅子に騎乗する 文殊菩薩像(重要文化財)を本尊として祀る智恩寺は、縁 起などで天橋立を中国五台山文殊大士降応の土地としてい るが、その開基については伝承の域を出ない。「延喜聖 主」こと醍醐天皇から「天橋山」の勅額を賜わり、智恩寺 と名付けたと伝える(『九世戸智恩寺幹縁疏并序』、『対 潮庵記』が、『丹後国惣田数帳』にはわずかに「九世戸 二町三十六歩」を寺領として載せているだけで、所領規模 だけから見れば鎌倉時代の智恩寺はそれほど規模の大きな 寺院とはいえなかった。
『対潮庵記』は、相国寺の彦龍周 興(一四五八~九一)が文明十四年(一四八二)に天橋立 に遊んだ際の漢詩文であるが、彦龍はその中で延喜以来応 永年中まで「爾来誰が人か主たるを知らず」というありさ まであったと述べている。なお寺伝では、嵩山居中が嘉暦 年間(一三二六-二九)に智恩寺を中興して新たに禅宗寺 院としたという。

http://www.monjudo-chionji.jp/
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矢喰神社(吉備)

【矢喰神社】

御祭神 吉備津武彦命
後に天満宮を合祀したので矢喰神社又は矢喰天満宮と呼んでいる。
創立年代不詳
吉備津宮縁起によれば第十代崇神天皇の時百済の王子温羅と云う者があった。
両眼大きく毛髪赤く、頬骨強大、身の丈抜群、その性勇 悍腕力絶大常に仁義を守らず日本を覗わんとする志があった。
本朝に来り諸州を暦覧する内、遂に吉備の国新山(後方の山)に登った。 この地方の勝れたるを見てこの所に大門を起し、城壁を築き矢倉を立てて城郭をなして居を構え、時には西国より帝京に送る貢物を略 奪した。
近里に往来して人民を悩乱せしめた。
時の人、この城郭を鬼ノ城と称し恐れた。
天皇勅して大吉備津彦命を派遣し之を征伐せしめられた。 即ち彦命は兵数千を率いて東の方吉備の中山に陣し、西の方は、日畑西山(稲荷山)に出で石楯を築き甲兵を引きい、鬼の城に向かい 温羅と戦った。 彦命、矢を放ては温羅の矢と空中に噛合い海中に飛び入る。
其の所に宮を建てて矢喰宮と云った。之が今日の矢喰神社である。 彦命、再び千鉤の矢に大矢二筋を番え発したところその一矢は喰い合って前の如く海中に飛び入ったが、他の一矢は温羅の左眼に命中 した流血で流水の如くであった。 其の所を名ずけて血吸川と云う。 是に於て温羅は雉となって山中にかくれたが、命は鷹と化して之を追うた。次には鵜と化して噛んで之を揚げ、その所を名づけて鯉喰 宮と云った。(東南二キロにあり)温羅、遂に錘旗を垂れ鋒刀を捨てて降ったとある。 以上は吉備津彦にまつわる物語でこの地方に昔から語り伝えられている伝説である。 左側の砂川が血吸川で血吸石がある。当時このあたりは海であった。

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温羅伝説吉備津宮縁起には、おとぎ話の「桃太郎の鬼退治」の基になったのが、温羅伝説である。
第10代の宗神天皇の頃、百済の王子と称する温羅(うら)という鬼が住んでいた。
両眼は大きくて毛髪は赤く、大きな身の丈で腕力は強くて、新山造った鬼ノ城を拠点に、西国から京への貢物を略奪したり、里の人民に危害を加えるなど悪事の限り を働いていた。
吉備の人々が、この窮状を都に訴えたため、天皇は、温羅征伐のため、孝霊天皇の子で四道将軍(よつのみちのいくさのきみ)の一人・吉備津彦命(きびつひこのみこと)を派遣 した。
彦命は兵数千を率いて、東の方吉備の中山に陣(現在の吉備津神社の付近)を構え、西の方は、日畑西山(稲荷山)に出で石楯を築き甲兵を引きい、鬼ノ城の温羅と戦った。
吉備津彦命の射た矢は、空中で温羅の投げる岩に食い込まれて落ちてしまい勝負が決まらない(その岩の落ちた所が矢喰い宮)。
そこで、吉備津彦命は二本の矢を同時につがえて放つと、一本は温羅の左眼に命中した(その血が流れて川となったのが血吸川、下流の赤く染まった浜が赤浜)、もう一本は岩に 喰い込んで下に落ちた。
温羅は雉となって山中に隠れたが、彦命は鷹になって雉を追った。
次に、温羅は鯉の姿に化けて川を逃げ下った。すると吉備津彦命は、鵜となって温羅を追い鯉をついばんで退治 した(鯉喰神社)と言われている。

鯉喰神社(吉備)

【鯉喰神社(吉備)】
【由緒】
吉備の国平定のため吉備津彦の命が来られたとき、この地方の賊、温羅が村人達を苦しめていた。
戦を 行ったがなかなか勝負がつかない。
その時天より声がし、命がそれに従うと温羅はついに矢つき、刀折れ て自分の血で染まった川へ鯉となって逃れた。
すぐ命は鵜となり、鯉に姿を変えた温羅をこの場所で捕食 した。
それを祭るため村人達はここに鯉喰神社を建立した。
社殿は元禄14年(1701)4月、天保13年3月に造営し現在に至った。
大正6年4月、庄村矢部字 向山村社楯築神社を合祀した。大正6年10月4日神饌幣帛供進神社に指定された。

【御祭神】
夜目山主命
夜目麻呂命
狭田安是彦
千田宇根彦
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【吉備の国 古代年表】
300年 日本 崇神天皇(第10代天皇即位)太歳甲申(庚申:甲申264年の36年後)
310年 百済応援に、吉備の先住民の出雲振根(百済の王子温羅)が筑紫に行った。
その後、吉備に帰還したが、吉備の石上神社を大和に移し、石上神宮に遷し加え祭る。


この神社の狛犬は、なんと備前焼きである。
この地方では、さほど珍しいものではないそうだが、丹後では、まず見かけない。

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大虫神社と白い犬

【大虫神社と白い犬】

【社格】旧府社 式内社・大虫神社(官幣名神大社) 式内社・阿知江神社(官幣小社)1881年大虫神社に合祀

【御祭神】本社 大己貴命 太田命 少童命 
     末社 若宮神社 遷座用仮殿

     倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
     大鏡神社 
     現皇稲荷神社


【由緒等】「延喜式」神名帳に、与謝郡「大虫神社名神大社」とある式内社で、855年「丹波国大虫神社加 従四位下」とあります。
元々、大江山の池ケ成の地に小虫神社と共に鎮座していたが、中世室町時代 初期に現在地へ移された。
旧社地には、今も御手洗の池が残っています。
古代から、朝廷、貴族や武士に至るまで崇敬が厚く、 成相寺の国宝『丹後国 郷保荘田数目録帳』に当社領一四丁七反二三六歩と記され、今も御供田、灯明田、油田等の地名が 残っている。
用命天皇の皇子磨呂子親王が、鬼賊退治の時、必勝祈願の為、自ら神象を作り奉納した伝説があります。
(火災により消失)
明治十四年、温江小字湯の谷にあった阿知江神社(少童命)と床浦神社(大田命)を合祀した。
昭和四年、鎌倉期の経巻紙が出土し、そこに「秦氏兄弟」と書かれて注目されました。
この狛犬は、磨呂子親王の鬼退治に出てくる、鏡をぶら下げた白い犬です。
この辺りは温江地区といいますが、昔は「あちえ」といいました。
大虫神社は、昔阿知江郷16ヶ村の鎮守で
加悦町後野地蔵堂付近に一の鳥居がありました。
境内から経塚が発掘され、鎌倉時代の経巻及び願文紙片約十軸が出土した。

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与謝郡河守荘三上の嶽(大江山鍋塚)に、栄胡、足軽、土熊(土蜘蛛)の三鬼が棲み、朝廷 の命に服さず、人々を苦しめていた。
鬼賊征伐を命じられると、用明天皇の第三皇子、麻呂子親王(聖徳太子の異母兄弟)は、推古天皇の命をうけて、塩干、松干らの実弟を連れて、三上ヶ嶽の土賊を攻めた。
磨呂子の軍は、馬堀から
河守、雲原を経て、仏谷に入り、自ら薬師如来像 を刻み、神徳の加護を祈願したのち、征伐に向かった。
丹後におもむく途中、額に鏡をつけた(一説には、首に鏡を掛けた)白い犬が現れて、親王にその鏡を献 上し、鬼賊の住む岩窟までの道案内を申し出た。
これこそ神仏のご加護と感じた麻呂子親王は、喜び勇ん で進み、鬼の窟に着くや、栄胡、足軽の二鬼を首尾よく退治することが出来た。
しかし、土熊には逃げられてしまった。
親王は、逃げた土熊を追って竹野郡の岩窟に至ったが、土熊の姿 はかき消えてしまった。
このとき、白犬から献上された宝鏡を松の枝に掛けたところ、肉眼では見えない土熊の姿が歴然とその鏡 に映ったのでこれも退治できた。 鬼賊征伐成功の後、麻呂子親王は、この宝鏡を、三上山(大江山)の麓の大虫神社に納めた。 大虫神社には、この白い犬が付けていた宝鏡が祀られていたが、火災で焼失してしまったそうです。
(参照資料:加悦町誌1974年12月など)

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【鍋塚】
鍋塚は、古代において、三上ヶ嶽といい、与謝の大山(大江山)の、千丈ヶ嶽、鳩ヶ峯に次ぐ三番目の高峰で、丸く、鍋をひっくり返したような美しい山です。
麻呂子親王が鬼退治に成功すると、愛用の白馬が死んだので、その 馬を葬り、その場所を鍋塚と言ったといいます。
それが後世、山そのものの名となっ たようです。
この鍋塚の鞍部を加悦へ越す峠が加悦峠で、藩政時代は、こちら も加悦も同じ宮津藩領で、結構往来があったようです。加悦側へ少し下りたと ころに池ケ成公園があり、ここに大虫神社、小虫神社の元宮がありました。
白犬を葬っ たところと伝えています。

温江、池ヶ成、鬼の岩屋などの間には、狼煙や鏡での連絡が行われた事が予想されるといい、宝鏡、鏡山古墳、鏡神社があります。

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明治維新の志士、清河八郎がこの地に訪れ、日記西遊草に「大江山の入り口、温江村に至る。
小さき宮あり。この神を犬の教えという。この神、犬となって源頼光を導きなされたといえり。
大江山の頂近く、道のかたわらに【とくら明神】あり。
力を祈る神という」とあります。

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当地の伝承によると、大虫神社の祭神は大国主命で、小虫神社の祭神は少彦名命であり、大国主が妃についた土鬼を追い払う為に、少彦名の提言で設けた神社で、この地に悪行を働いた 土蜘蛛(鬼)を大国主命と少彦名命が平定し大国主命が大虫の神(大虫神社)、少彦名命が小虫の神(小虫神社) として祀られたのが始まりと伝えられています。

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元伊勢内宮皇大神社にも白い犬の伝説があります。
大江山には有名な酒呑童子伝説より もさらに古い鬼伝説が伝わっており、 このお社にはこの鬼伝説にまつわる白 犬の話が伝えられています。
聖徳太子の時代、大江山には英胡、 軽足、土熊という三匹の鬼に率いられ た鬼神たちが盤踞していました。
鬼討伐を命じられた麻呂子 親王は、官軍を率いて大江山を攻めた ものの、鬼たちは妖術を使って姿を消 したので攻めあぐねていました。
この とき麓に鎮座する元伊勢皇大神宮のお使いの二匹の白犬が現れて
額の鏡で照らしたため、鬼たちは姿を消すことはできなくなり、大江山を平定する ことができました。
戦いの後に死んでしまった二匹の犬は山頂近くの池ヶ平に葬られ、額の鏡は北山 麓の加悦の「大虫神社」と南側の仏性寺の「美多良志荒神」に祀られています。
プロフィール

南方系海人

Author:南方系海人
ブログへようこそ!
古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
間違えた認識もあるかと思います。
自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

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