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磨呂子親王の土蜘蛛退治伝説2

両丹日日新聞より

【麻呂子親王伝説】

丹波、丹後に残る麻呂子親王鬼退治伝説(上) 両丹日日新聞

福知山市、宮津市、与謝野町にまたがる大江山には3つ の鬼退治伝説が残っている。「日子坐王(ひこいますのき み)伝説」「麻呂子(まろこ)親王伝説」「源頼光・酒呑 童子伝説」。最も有名なのが酒呑童子伝説で、多くの文献 が残り、ゆかりの地も多いが、麻呂子親王に関しても大江 山周辺にたくさん存在する。福知山市大江町内を中心に関 連地を回った。

麻呂子親王は6世紀後半から7世紀初期にかけての皇族 で、聖徳太子の異母弟と言われている。当時三上ケ嶽(み うえがたけ=大江山)には英胡、軽足、土熊の3鬼がすみ つき、朝廷はこの鬼たちを退治するよう、親王に勅命。大軍を率いて攻めたが、鬼たちの 妖術で歯が立たなかった。

いったん兵を引かせた親王は、神仏の加護をもって鬼を討ち倒そうと考え、薬師如来像 を彫って、もし鬼を討てたならば、丹後に7寺を開き、像をまつる−と祈願したという。

■親王の鞍と鐙が寺宝に 河守の清園寺■

親王を開基と主張する寺は7つ以上あるが、舞鶴市の多禰寺に残る縁起では、大江町河 守の鎌鞍山・清園寺(若田真喬住職)がその一つとしてあげられている。

同寺の開基は586年。親王が勅を受け鬼を討ち、寺を創建するまでの由来を描いた3 幅の「清園寺縁起絵巻」は伝説を色濃く物語る。室町時代の作とされるが、現物は京都博 物館(京都市)にあり、レプリカが同寺と日本の鬼の交流博物館に展示されている。

また寺宝として残る鞍(くら)と鐙(あぶみ)は、親王が馬に乗る際に使っていたもの で、神の加護で鬼退治できたことに感謝して、鎌と一緒に納められたという。同寺の山号 の鎌鞍山はここから付けられた。若田住職(49)は「本物かどうかは分かりませんが、 京都の都から乗って来た馬に取り付けられたものと思われます。末永く後世に伝えていき たい」と話している。

■鎌と鞭納めて開基 仏性寺の如来院■

大江山のふもとにある仏性寺、如来院(田和祐昌住職)も親王が鬼退治の加護に感謝し て、鎌と馬に乗った際に使う鞭(むち)を納めて開基したと伝わる。山号は鎌鞭山。鞭は 長さ約1メートルで木製。漆塗りとみられ、持つところが革張りになっている。

普段は木箱の中に入れ、大切に保管しているが、参拝者に見せることもあり、田和住職 (71)によると、寺に古く残るものだけに、だれもが「これはすごい」と感激するとい う。

丹波、丹後に残る麻呂子親王鬼退治伝説(下) 両丹日日新聞 1月1日(日)16時32分配信

■伝説由来の地名多く

斬った鎌を投げ入れたとされる「鎌渕」という深い池のようになっ ている所がある。

いた馬が立ちすくんだことから付けられた「馬止」という場所も。 更には、額に鏡を付けた白犬が現れ、鏡で照らしたところ、

一筋の道が開け、親王らが進んだといわれている坂「あかさか」も

拡大写真

あり、伝説由来の地名が今も残っている。

お手植えの杉は3本 あったが、今は1本だ



■鬼退治に貢献した白犬と鏡まつる

けになっている

白犬の付けていた鏡をまつっているのが、仏性寺の二瀬川渓流に架かるつり橋・新童子 橋のそばにある美多良志荒神。

う。鬼が倒れたあと白犬は死に、

美多良志は「み照らし」からつけられたとも考えられ、古来、

をよくしてくれる神として厚い信仰を受けている。

■挿した竹の杖から芽が吹き戦勝確信

清園寺近くにある関の逆竹神社にも親王の伝説が残っている。親王の軍勢が鬼退治に行 く途中に神社周辺で休息。親王が地面に竹の杖を逆さに挿して、戦闘で勝てるなら、翌日 には竹から芽が出るだろう−と告げたところ、一夜のうちに根付き、芽を吹いた。家来た ちは霊力のある親王の下で戦えば勝てると、士気を高めた。逆さの竹の逸話が神社創建に つながったとみられる。

鬼や大江町の歴史に詳しい福知山観光協会大江支部の赤松武司副支部長(59)

町金屋=は「酒呑童子伝説の源頼光の逆さ杉の話は、逆竹神社の話を基にしていると考え られる」と話している。

■お手植えの杉 内宮の皇大神社■

軍勢は逆竹神社同様に内宮の元伊勢内宮皇大神社にも寄ったらしく、参道には親王が手 植えしたとされる杉の大木が存在する。

鬼退治が達成出来ることを願って植えたといわれ、

時代に台風で倒れ、もう1本は落雷の影響で枯れたため、

皇大神社の佐藤仁禰宜(76)は「残っている1本は樹齢1500年ほど。杉に向かっ て手を合わす人や幹にさい銭を埋め込む人もいます。神社にとっては大切な木で、雷が落 ちない限り枯れないでしょう」と言う。

このほか親王ゆかりの地は丹後、丹波の広範囲に及び、多くの逸話を残す。酒呑童子伝 説は麻呂子親王伝説を基にしてつくられたという説もある。

日本の鬼の交流博物館の塩見行雄館長(63)は「麻呂子親王の鬼退治伝説の時代は、 地方に仏教が浸透していった過程とだぶることから、仏教徒にならない人たちを鬼と称し て物語をつくり、仏教が広まるようにしたのではないでしょうか」と話す。
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磨呂子親王の土蜘蛛退治伝説 1

聖徳太子(574〜622)の異母兄弟である磨呂子親王は、推古天皇(554〜628)の命を受け、三上山(大江山鍋塚)にいた土賊(英胡、軽足、加羅夜叉、土熊)を退治した。土賊とは、大和朝廷軍に征伐された原住民族の製鉄集団と思われる。

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【磨呂子親王の鬼退治 】

第三十二代(『古事記』『日本書紀』によれば 第三十一代)用明天皇は、大和磐余宮で天下を統 治する時まで、この丹後の国に鬼賊が多く隠れ棲 んで人々を悩ましていることを聞き、諸皇子のな かから討伐に向かう者を選び出そうとした。
この 時、皇后には四人の皇子、第一に厩戸皇子、弟二 に久米皇子、第三に殖栗皇子、第四に茨田皇子が いた。
また、蘇我大臣の辱名姫には田目皇子、葛 城直磐村の娘広子には麻呂子皇子がいた。
この磨呂子皇子は、勇ましいこと万人にすぐれ、 その才 知世に類なく、神仏を篤く敬っていた。
臣下を恵 み、民衆を憐れんで、その徳は遠く広くまわりに 及んでいた。
このことによって、この丹後の国の 鬼賊を退治せよという勅命が下された。
その時、彼は、勅命に従い、丹後の国に下向し ても、鬼賊を追討して功名を立てることができな いときは、その苦労が何もならないのみならず、 天皇の政にきずがつき、また自分にとっては恥と なってしまう。
仏神の力を借りようと考え、まず 宮中において七仏薬師の法を修め、また金の薬師 仏一体を鋳造して護身仏としてお持ちになった。
また、天照大神宮に祈誓をかけ、「この度の諸願 が成就するならば、社殿をそこに立てることとし ます」とお誓いになり、兵を率いて征伐に向かわ れた。
丹波篠村の川辺で、死んだ馬を土中に埋めるの をご覧になり、心のなかで祈誓して、「この度の 鬼賊の征伐が成就するならば、この馬はきっと生 き返ることになりましょう」とおっしゃって、こ の馬を掘り出しなさった。
この馬は駿足の竜馬で あった。
今、ここを馬堀(現亀岡市)といってい る。 皇子はこの馬に乗って、与謝郡におもむかれ た。
その地には、惣鬼、迦桜夜叉、土熊という三 人の鬼を頭として、眷属が多数いた。
皇子はこの 国の大社籠明神社に参るべきこととして参拝をな さったが、その後に一人の翁が白い犬を連れて現 われ、「この国は道筋が定かではない。
この犬を 道案内に用いよ」と言って、行方知れず消えてしまった。
これはひとえに神の加護にちがいないと 思って、皇子はこの犬の後に従って与謝村にお着 きになった。
しかし、悪鬼の棲んでいるようには 見えなかった。
ところが、この犬の額には物みな をよく照らす鏡が掛けられていたが、それに悪鬼 がたちまちに顕れた。
この犬は、今、温江大鏡大 明神と崇め申し上げている。
皇子はとうとう河守 庄三上ヶ嶽まで攻め上り、平定なさった。このと き、土熊鬼だけは討ち洩らされたが、今の竹野の 地で封じ込め、岩窟のなかに繋がれた。

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この鬼 賊を征伐された後、皇子は七仏薬師の像を自ら彫 刻なさった。
ここを仏谷といっている。
第一に善 名吉祥如来を祀る滝村(現与謝郡加悦町)の施薬 寺、第二に宝月智厳光音自在如来を祀る河守(現 加佐郡大江町)の清園寺、第三に金色宝光如来を 祀る竹野郡の元興寺、第四に無憂寂勝宝吉祥如来 を祀る竹野郡吉永(現丹後町)の神宮寺、第五に 法界雷音如来を祀る溝谷庄(現竹野郡弥栄町)の 等楽寺、第六に法界勝恵遊戯神通如来を祀る宿野 (現宮津市)の成願寺、第七に瑠璃光如来を記る 白久村(現舞鶴市)の多祢寺、の七ヶ寺がその七 仏を祁っている。 竹野神社は、この皇子が鬼賊退治をされた後 に、伊勢両宮を移されたものである。
当国熊野郡 市場(現久美浜町)の神社からこの神社へ斎宮を 奉るのである。
市場村に神の子が生まれると、そ の家の屋根に白羽の矢が立つといっている。
それ で、斎大明神と呼び申し上げているのだという。 また、間人村というところがある。この母后が当 国へお下りになり、そこでこの皇子がご対面に なったので、対座村と名づけたのである。


・福知山市雲原に「仏谷」という地名があり、麻呂子親王 はここで七体の薬師如来像を彫った伝説がある。
・福知山市大江町の元伊勢皇大神社には、「麻呂子親王お手植えの杉」と 呼ばれる杉の巨木が現存する。また、皇大神社には麻呂子親王勧 請説がある。
・ 与謝野町の大虫神社には、火災で焼失したものの戦勝祈願のために親王 自らが彫った神像が納められていた。また、白い犬の鏡も合祀さ れていた。
・ 与謝野町に、「二つ岩」と呼ばれる巨石があり、大江山 から親王めがけて鬼が投げつけた巨石といわれ、親王はこの岩を刀で受 け止めて真っ二つに切り裂いたものであるとの伝説がある。
・京丹後市丹後町の竹野神社は、麻呂子親王を合祀していると伝 える。また近くの土熊を封じたとされる「立岩」があり、「鬼神 塚」も現存している。
・大江町旧普甲峠に美多良志荒神という神社があり、親王の大 願成就と同時に死んでしまった白い犬を祀っているという。

深田神社 与謝野町幾地

【幾地の深田神社】
与謝野町幾地には、深田神社、中村神社、愛宕神社、幾地神社など、四つの神社があり、今回のご紹介は、市場小学校から約100m程度西側の、幾地の氏神様、深田神社です。
深田神社は、丹後国制定(713年)より少し古く、歴史ある神社である。

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御祭神: 本社 和久産巣日神(わくむすびのかみ)

由緒等:創祀年代 700年頃(野田川町誌)

御名儀は平田篤胤の説に「稚と申す故は御子豊宇気姫神に至りて、穀物は成り出でたるなるを、 この神はその産霊の御徳を保持し給えるのみにて未だ成し終え給はざりしかば豊宇気姫の神徳の広 く大なるに対して御報神なれども稚とは申しなるべし」とある。 ≪平成祭データより≫

御祭神について
和久産巣日神(わくむすびのかみ)が祀られている全国でも珍しい神社である。
わくむすびのかみ 稚産霊神 ワク
わくむすびのかみ 和久産巣日神 = 稚・若の意味で、ムスは生成を表す。よって若々しい生育の力を表す。

稚産霊神(わくむすびのかみ)は「古事記」にて、伊邪那美命(いざなみのみこと)が火の神である迦 具土(かぐつち)を生んだ際、火で焼けて病み苦しんで漏らした尿から水の神である罔象女神(み ずはめのかみ)に次いで生まれた神様です。

名前の「むすび」は生成力を意味しており、五穀の種が立派に生育して豊かに実ることを象徴し ている神様として知られています。稚産霊神わくむすびのかみ

稚産霊神--五穀豊穣の神

稚産霊神「日本書紀」神代第五段 ある書 第二

ある書第二によると、「コムナリ加耶」の伝承である。 コムナリ加耶は百済系南百済。
この集団は「応神」であるから「雄略天皇」に絡む集団。
雄略天皇の時代は、丹後の全盛期であり、浦嶋伝説、大江山鬼伝説=鉄集団の頃と一致する。
倭国が半島と倭 と最大の領域をもった時代が雄略天皇の頃、コムナリ加耶の全盛期であり、丹後(当時の大丹波王国)の位置付けがみえてくる。
当時、丹後は、南百済の加耶とも連携していた。
このコムナリ加耶の応神移動は「秦」氏 の伝承とつながる。八幡宮=応神
与謝野町には加悦(加耶)の地名が残る。

日本書紀では 「火神カグツチは埴山姫を娶り、「稚産霊」(わくむすひ)を生む。この神の頭の上に蚕と桑が なり、臍の中に五穀生まれる。」とあり、五穀や養蚕の開始を意味する神様。

「古事記」 神々の生成では 「尿に生まれる神は「みつはのめの神 彌都波能賈神」と「わくむすひのかみ)和久産巣日神」 とある。
この神の子が豊受大神という。
豊受大神は、古代丹後の神であり、伊勢神宮外宮の祭神である。
伊邪那美神は「火之神」を生んで亡くなる。 古事記であるから、倭の先住民を意味する。

鉄の誕生等が農業生産の飛躍的 向上をもたらした。

丹後=鉄→農業生産→和久産巣日神=豊受大神という図式ができあがる。
つまり、丹後は倭国の重要な貿易地域であり、南百済加耶の集団移動があったのであろう。

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この地域独特の苗字が刻まれた御神灯や鳥居。
福井さん、金谷さん、坂根さん、浪江さん、白杉さん、山添さん…。
氏神さんの特徴でもある。
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深田神社は、市場小学校から約100メートル西側の、小高い森の中に鎮座されている。参道の階段は歴史を感じるので、このあたりの住民に古くから祀られてきたと思われる。
樹木に覆われて少し暗いが、上まで上がると見晴らしは良い。
最初の鳥居付近に建屋があり、お祭りの神輿などが収納されている。
そこから更に階段を登ると境内に出る。
その境内の奥の一段高い場所に、拝殿があり、その後ろに本殿が鎮座されている。
昭和二年の丹後大震災には倒壊しているので、その後、建て直したと思われます。
まつり: 1月 7日 新年祭 [通称]元旦祭
4月最終土日 春季例祭 [通称]春祭り
7月 下旬日曜日 夏季例祭 [通称]麦祭り
9月 上旬日曜日 秋季例祭 [通称]秋祭り
11月 中旬日曜日 新嘗祭

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宮津の聖ヨハネ天主堂

【日本最古の木造建築現役天主堂】

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左手の建物は、暁星幼稚園。

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【カトリック宮津教会聖ヨハネ天主堂】

●所在地 京都府宮津市宮本
●アクセス: KTR宮津駅から徒歩5分 ●現役の教会堂
●建立1896年(明治29年)

建築年代、様式ともに宮津市を代表する歴史的財産であり、自治体、大学の研究室等から注目 されているそうです。
木造天主堂として現役である。
また天主堂の中は畳敷きだそうです。

設計、ルイ・ルラーブ
施工、大井正司

建築が明治29年と、日本に現存する二番 目に古いカトリック天主堂である。
ステンドグラスを配した洋風の外観、内部は畳敷きとなっている。
明治時代のカトリック教会の様子を今に伝える日本でも貴重な建物である。

明治18年、フランス人宣教師ルイ・ル ラーブ神父が来日され、3年後の明治21年、近畿北部(丹後・但馬・若狭)での布教 活動を命じられた。
しかし、人々に白い目を向けられ、子供から石を投げられ、荷物運びも手伝って貰えない状況の中、宮津に赴任された。
最初は旅籠に身を預け、借家に教会を設置されたそうですが、徐々に信者が増え、順調に教会が発展。
家主の田井五郎衛門も洗礼を受け、敷地を教会へ寄付されました。
宮津のカトリック教会は、日本海地方、最初の教会として根付きました。
神父は、母国フランスから自転車を取り寄せ、宮津、舞鶴、近隣地域の布教活動に励まれたのです。
神父が自転車で走ると警戒の警官が走って後を追い、警官が倒れると神父は警官を介抱したという話が残っています。

その後、教会堂を新築、明治29年に、現在の天主堂が完成しました。
現在でも、毎週日曜日にはミサが 行われている現役の教会です。

宮津市といえば、戦国時代、細川幽斉の作った町である。
明智光秀の子、玉(ガラシャ夫人)が細川家に嫁ぎ、カトリック信者であったのは有名な話。
宮津の町は、有名な神社、寺院の宝庫のような土地であるが、この天主堂は、また一つの宮津の顔である。
城下町、宮津を訪れたら是非立ち寄って頂きたい。

入館できる時間 午前9時〜午後5時(無料) ※ミサの時間帯は、教会内の見学は不可。

但馬の王墓 茶すり山古墳

[近畿最大の円墳]

兵庫県は、日本で一番古墳が多い県で、その中でも、但馬地方に集中しています。
但馬は、古代七世紀以前は、丹波でありました。
日本書紀に登場するアメノヒボコ集団の本拠地でもあります。
和田山から山東へ抜ける「宝珠峠」の途中、標高約144メー トルの尾根の先端に位置する茶すり山古墳は、5世紀前葉の大型 円墳です。 円墳としては奈良県富雄丸山古墳よりも大きく、近畿地方最大 規模を有しています。 直径約90メートル、高さ約18メートルの円墳で、2段に築 成されていたと考えられます。 墳頂には東西約36メートル、南北約30メートルの楕円形の 広い平坦面があり、そのやや内側には、円筒埴輪や朝顔形埴輪が 巡り、段築平坦面にも埴輪が列状に並べられていました。 斜面には葺石が見られますが多くは流出していま す。
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また、平坦な墳頂部には二つの埋葬施設があり、第1主体部と第2主体部が並んで います。 調査の結果、墳丘の規模や中心主体の内容がほぼ 判明し、中央政権(ヤマト政権)と強く結びついた 首長の墓であることが確認されています。
 
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【茶すり山古墳】

名称: 茶すり山古

種別: 史跡

都道府県: 兵庫県

市区町村: 朝来郡和田山町

国史跡指定年月日: 2004.02.27(平成16.02.27)

茶すり山古墳は、但馬南部に広がる和田山盆地を望む細い尾根の先端に造営された大型の円墳である。
この地は播磨と但馬をつなぐ交通の要衝で、古代山陰道の郡部 駅の推定地に当たっている。
平成13年度、北近畿豊岡自動車道建設予定地を兵庫県教育委員会が発掘調査を行ったところ、規模が大きく重要な内容をもつ古墳であ ることが判明したため、協議を行い、道路計画を変更し現状保存することとなった。
古墳は長径90m、短径78m、高さ18mを測る二段築成の円墳で、近畿地方では最大、全国でも4番目の規模である。
墳頂平坦面は長径36m、短径27mの 楕円形を呈し、墳丘全体の規模からするとかなり広く、この地域の墳丘形態の特徴を示している。
墳丘は大部分が削り出しによって造られ、斜面の一部には葺き石が 遺存していた。
また、墳頂平坦面及びテラス部からは円筒埴輪や朝顔形埴輪が、墳頂からは家形埴輪等も確認されている。
墳頂平坦面では2基の埋葬施設を検出した。
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中央南寄りにある第1主体部は、墓坑が東西13.7m、南北10.5mで、その中央に長さ8.7mの組合式箱形木 棺が埋設されていた。
棺内は粘土を敷き詰めて棺床とし、さらに小礫を敷き詰めた遺体埋葬部と、粘土敷きのままの副葬品埋納部とに分かれる。
第2主体部は、第1 主体部の北側にあり、東西7.5m、南北3.7mの墓坑内に、長さ4.8mの木棺痕跡が確認されている。
副葬品は非常に豊富で、二つの主体部の副葬品を合わせ ると、青銅鏡4点、勾玉・管玉などの玉類2,000点、武具類では甲冑2組と盾7点、武器類では鉄刀・鉄剣・鉄矛など85点と鉄鏃400点、農工具類では刀子 ・斧・鎌など80点余りに達する。
これらの中で注目されるのは、畿内地域以外では初めての出土となる三角板革綴襟付短甲や一つの棺からの出土数が最多である鉄 矛など、多量の武器・武具類が副葬されたことである。
また、漆の遺存状況が良好であり、刀剣類の装具の構造や盾の文様構成が確認された。さらには、畿内地域を 中心に分布する鉄柄付手斧が出土したことも貴重である。
茶すり山古墳は古墳時代中期前半の近畿地方最大の円墳であり、武器・武具をはじめとする副葬品は豊富である。
墳丘の構築方法などに地域色は認められるものの 、三角板革綴襟付短甲や鉄柄付手斧の出土は畿内地域と密接に関わりがあったことを示し、刀剣類の装具や盾における漆の遺存状況が良好であるなど、傑出した内容 となっている。
茶すり山古墳は古墳時代の社会や政治動向、とりわけ畿内の中央政権と地域の首長の関わりを知る上で重要である。
よって、史跡に指定し、保護を図 ろうとするものである。

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<国指定文化財ベースより>
プロフィール

南方系海人

Author:南方系海人
ブログへようこそ!
古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
間違えた認識もあるかと思います。
自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

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