スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

日本三景天橋立の謎

《日本三景の謎》という本が書店に並んでいたので、パラパラと立ち読みし、内容の素晴らしさと興味から、即購入した。
宮元健次さんという方が執筆され、祥伝社黄金文庫から出ています。
この本は現地の事もかなり調査されているようで、丹後人の私が読んでも大変面白い。

rps20111023_155033.jpg

日本三景とは、宮城県の松島、丹後の天橋立、広島県の宮島をいうが、
驚いた事に日本三景は、江戸初期1643年には《三所奇観》として規定されたのだそうです。
この三ヶ所の共通点は、古代からの軍事的重要拠点だったという事が詳しく解説されています。
天橋立については古代からの朝鮮半島と結ばれた国際的防衛拠点であった事や、
丹後に多くの渡来人の古代遺跡や地名、伝承が残されていることが書かれています。
丹後の古墳は、家長クラスの古墳でも必ず鉄剣が出土している事などが大きな特徴で、他の地域ではみられないそうです。
詳しい内容は、是非この本を購入される事をお勧めしますが、何より驚いたのは、この日本三景は、地図上、一直線上に並んでいるという事実。
天橋立を中心として、この直線は、夏至の日の出の方位と冬至の日没の方位を結んだものであると指摘されています。
この天橋立には元伊勢丹後一の宮籠神社があり、籠神社国宝系図にある日女命=卑弥呼の事、籠神社から天橋立を通り一直線上に元伊勢内宮皇大神社、元伊勢外宮豊受大神社が並んでいる事まで詳細に解説されています。
その他古代丹後の謎が沢山書かれていますので、是非読んでみてください。

rps20111023_160252.jpg

rps20111023_161851.jpg



日本三景の一つとして名高い 天橋 立 は、もともと 籠神社の参道 として 発祥したもので、古来より天と地、 神と人とを結ぶ架け橋として信じら れていた。 『古事記』に登場する神 伊邪那 岐 (いざなぎ)、 伊邪那美 (いざな み)二柱の神が降り立った「 天浮 橋 (あめのうきはし)」は、この天 橋立であると云われ、古伝に 海橋 立 (あまのはしだて)、 海浮橋 (あ まのうきはし)ともある。つまり、 日本の国生み神話の重要な舞台がこ こ 天橋立 であったことが窺える。

その聖なる天橋立の北方に鎮座す るのが 元伊勢 籠神社 である。 元伊勢とは 天照大神 (あまてらす おおみかみ)が倭(やまと)の国笠 縫邑(かさぬいのむら)[奈良県桜 井市]を出られて 伊勢神宮 にお鎮ま りになるまで巡幸された地を指す。

籠神社は 天照大神 が最初に巡幸された神社で、第十代崇神天皇の御代にお遷りに なった。 もともと丹後国の総氏神である籠神社のご祭神 豊受大神 (とようけのおお かみ)と共に四年間祀られた。

その後、天照大神は、第十一代垂仁天皇の御代に、豊受大神は、第二十一代雄略天 皇の御代にそれぞれ伊勢神宮へ遷られた。それに依り 内宮外宮唯一の元伊勢 (伊勢 根本の社)として全国より崇敬を集めている。二十数社ある元伊勢の中でも随一の社 格と由緒を持つ所以がここにある。その証として 伊勢神宮 と 籠神社 にしか許されな い 五色の座玉 (ごしきのすえたま)が高欄に据えられ、厳かな神秘の光を放ってい る。

また、本殿の造りも伊勢神宮と同じ 唯一神明造り となっている。天照豊受両大神 がご遷座の後は、 天孫彦火明命 (てんそんひこほあかりのみこと)を主祭神とし て、その系譜に連なる宮司家海部(あまべ)氏が古代より籠神社に奉仕し、現宮司で 八十二代を算(かぞ)え、その家系図は国宝に指定されている。
《天橋立観光協会HPより》
111023_0950~01
スポンサーサイト

天の岩戸神社 元伊勢参拝第十四番その弐

皇大神社から奥手に入ると、天照大神がお隠れになられたという天岩戸がある。
とても神秘的で、静かな聖地である。

rps20111021_145117.jpg
「天の岩戸神社」

《社内案内板》

岩戸山 京都府歴史的自然環境保全地域 昭和59年3月13 日指定(京都府加佐郡大江町) 天岩戸神社は大江町の元伊勢三社[皇大神社(内宮)・豊 受大神社(外宮)・天岩戸神社]の一つで、伊勢の皇大神 宮の元宮として、古くからこの地方の象徴的存在として 崇敬されてきました。

天岩戸神社の祭神である櫛岩窓戸命・豊岩窓戸命は門を 守る岩石の神であり、岩戸渓谷の幽玄の地を天岩戸に比 定し、古事記の大神の門番神を配祀していると伝えられ ています。

<img src="http://blog-imgs-46.fc2.com/z/a/r/zarameya/rps20111021_145237.jpg" alt="rps20111021_145237.jpg" border="0" width="480" height="360" />

《案内板》

岩戸山 京都府歴史的自然環境保全地域。 指定地域は、元伊勢三社の一つ天岩戸神社の神域として古 くから守られてきた府内でも数少ない原生的な森林です。 ウラジロガシ、アラカシ、あかがしなどの常緑カシ林が主 体となっていますが、岩戸山頂上付近には、ブナーイヌブ ナ林も見られます。確認されただけでも380種もの植物が 自生しており、なかには貴重な植物も含まれています。ま た、岩戸渓谷には、天岩戸神社の本殿やいわれのある御座 石、神楽岩などが点在し、両岸を覆う森林とともに神秘的 な雰囲気をかもし出しています。このすぐれた歴史的な自 然環境をわたしたちの子孫に守り伝えていきましょう。特 別区域では、土地の形質の変更、土石の採取等の行為は許 可なくできません。野生動植物保護地区では貴重な植物の 採取はできません。昭和59年3月13日指定 京都府。
rps20111021_182950.jpg

岩戸神社の記 偉大な祖神である天照大御神は速須佐之男 命の乱暴な行いに堪え忍んでおられたが と うと う我慢しきれずに天の岩戸に閉じ籠りに なられた。 それで この世の中は真暗くなってしまい 悪い事ばかりが連続して起こり拾収がつかな く なってしまったので 八百万神々は天安河 原に集まられ相談された。 そこで 天の岩戸の前で長鳴鳥を鳴かせ 真榊の木に勾玉を飾り御神鏡をかかげ 御幣 を持 ち神饌物を捧げて 賑やかに歌い踊り音 楽し祝詞を申し上げた。 この時 尊い天照大御神は外の様子を不思 議に思われ 天の岩戸を細めに開いて見られ たの で 御神鏡をさし出し申した。畏い天照 大御神はますます変だと思われすこし天の岩 戸から出 られたところをお引出し申したので 世の中は明るくなり救われたのである。 さて この由緒ある御神鏡が神宝と信じら れ 救世平和神とされている。

rps20111021_145145.jpg
天岩戸と呼ばれる場所 について

天岩戸説話は天照大神が、弟の素戔嗚尊の乱暴な振る舞いにたまりかねて岩戸の中に閉じこもり、世の中が暗黒の世界となったという天上界の話である。
しかし、日本神話を現実的に存在する岩戸があり、見える形で解釈 したいという要求から、全国各地に「天岩戸伝説」とする場所やそれに関連する場所 が存在する。
しかし、記紀によると天照大神が蘆原中津国を平定し、子の「天のオシホミミ」にその後の平定を任せるが、「オシホミミ」に子が出来、それが出来なくなる。オシホミミの子である、ニニギの命とニギハヤヒの命がそれぞれ高千穂とヤマトに天孫降臨するので、高千穂に天照大神は降臨していない。ニニギの命である。
また、元伊勢伝説に九州や沖縄は無いことから、この元伊勢内宮皇大神社の天岩戸神社が有力である。


天の岩戸 (Wikipediaより)

京都府福知山市大江町 皇大神宮(元伊勢内宮)、岩戸神社。
宮崎県西臼杵郡高千穂町大字岩戸 天岩戸神社の神域にある。
沖縄県島尻郡伊平屋村 「クマヤ洞窟」
岡山県真庭市蒜山 茅部神社の山の上方。
滋賀県高島市 白鬚神社 岩戸社。
三重県伊勢市 伊勢神宮外宮 「高倉山古墳」。
三重県伊勢市二見町 二見興玉神社 「天の岩屋」 の神域にある。


rps20111021_145208.jpg


rps20111021_145028.jpg
日室岳
日本三大ピラミッドと言われている信仰の山である。
『大江町誌』

天の岩戸神社の川向こうの原生林に続く急斜面の山が「日 うらが岳」で、日陰ケ岳とも日室岳とも表記され、神の降 臨を伝える神体山であり、禁足の神聖が守られている。内 宮社境内の遥拝所を一願さんと呼ぶ。日裏岳・城山(じょう やま)(岩戸・日室岳・日浦岳などとも呼ばれている)。

岩戸の渓谷 内宮発電所ダムの下流は岩戸の渓谷である。 二○メートル以上にも及ぶ断崖絶壁が両岸にそそり立っ て、その底を渓流がはしる。この渓流にのぞむ岩上に天ノ 岩戸神社が鎮座している。 渓谷の右岸は、日浦ヶ岳(城山)でカシの自然林であ る。左岸は宮山で、シイの古木が茂る自然林が皇大神社に 続いている。 岩戸神社本殿上手には、神が天下ったという御坐石があ り、本殿左手の川の中に神楽岩と呼ばれるものがある。こ こから約五○メートル下流の岩に数個のくぼみがある。甌 穴(おうけつ)であろうが、神が産湯を使った「産だらい」 といい伝え、神々の伝承がここにも息づいている。


rps20111021_182736.jpg
天の岩戸神社より暫く古道を行けば、真奈井の清水がある。

地の伝承によれば、第10代崇神天皇の39年、大和笠 縫邑から天照大神の護神体である八咫鏡を4年間お祀り した丹波吉佐宮の旧跡といわれ、その後全国を転々と移 動した後、54年後に今の伊勢神宮の所に正式に鎮座さ れたとされることから、古来より元伊勢内宮皇大神社と して西日本各地の崇敬を集めて来た。また元々丹後地方 に天下った神様である豊受大神をお祀りしたのが外宮 で、雄略天皇の22年に天照大神の夢告によって、三重 県の現在地に移転されたとされております。

元伊勢内宮皇大神社 【元伊勢参拝第十四番】

元伊勢内宮皇大神社  【歴史家は語る、ここに卑弥呼がいた?!】

外宮から更にニキロ程普甲峠に向けて走ると左手に【元伊勢皇大神社】の石碑がある。
街道を淡々と走ると昔の旅籠と思える民家が並び、とても情緒がある。
少し進むと元伊勢皇大神社の石段が見える。
rps20111019_062358.jpg

所 在 地 京都府加佐郡大江町字内宮
祭 神 天照皇大神(あまてらすおおみかみ)
摂社 左殿 天手力雄命(あめのたぢからをのみこと)
右殿 栲機千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)
奥 宮 天岩戸神社 末 社 熊野神社、三女神社以下80社
祝 部 朝暉(あさひ)氏
昭和初期に断絶 諸 事 60年に一度の立替を伝えるが、現在の建物は平成23年に建て替え完成した。


御由緒

伝承によれば、第十代崇神天皇三十九年(西暦紀元前五十九年)に、「別に大 宮地を求め鎮め祀れ」との皇大神の御教えに従い、永久にお祀りする聖地を 求め、それまで奉斎されていた倭の笠縫邑(現奈良県桜井市)を出御されたの が、いまを去る二千数十年前の遥かな昔であった。そして、まず但波(丹波) へ御遷幸、その御由緒により当社が創建されたと伝えられている。

皇大神は、四年ののち、御神蹟をおとどめなされて再び倭へおかえりにな り、諸所を経て、崇神天皇二十六年(西暦紀元前四年)に、伊勢の五十鈴川上 の聖地(いまの伊勢の神宮)に常永遠にお鎮まりになった。しかし、天照皇大 神の御神得を仰ぎ慕う遠近の崇敬者は、引き続いて当社を内宮の元の宮とし て「元伊勢内宮」あるいは「元伊勢皇大神宮」「大神宮さん」などと呼び親 しみ、今に至るも庶民の篤い信仰が続いている。



rps20111019_062428.jpg

元伊勢皇大神社へは、この旧街道が良い。
江戸期、明治には、多くの参拝客で賑わい、どの宿もいっぱいだったそうだ。
旅籠らしき家屋は、とても情緒的だ。

明治大正の頃、元伊勢参りが盛んで、この辺りの参道には土産物屋、旅館が立ち並んでいた。
山陰・若狭地方の 「伊勢参り」は、この元伊勢外宮内宮の事を言う。
現在も昔を伝える雰囲気が残ってい る。

rps20111019_062452.jpgrps20111019_062606.jpg

「伊勢」と丹後「元伊勢」を結ぶ直線ラインは、すでに二千年前から完成していた。その中心に平安京が位置している。

地の伝承によれば、第10代崇神天皇の39年、大和笠 縫邑から天照大神の護神体である八咫鏡を4年間お祀り した丹波吉佐宮の旧跡といわれ、その後全国を転々と移 動した後、54年後に今の伊勢神宮の所に正式に鎮座さ れたとされることから、古来より元伊勢内宮皇大神社と して西日本各地の崇敬を集めて来た。また元々丹後地方 に天下った神様である豊受大神をお祀りしたのが外宮 で、雄略天皇の22年に天照大神の夢告によって、三重 県の現在地に移転されたとされております。


鳥居は桧の黒木で、全国で、ここ内宮皇大神社と外宮豊受大神社だけである。


rps20111019_062545.jpg

伊勢神宮は、天照大神が安住の地を求めて、大和の笠縫邑を出発し、次に丹後与佐宮に四年間仮鎮座し、その後全国24カ所 を転々として、最後に落ち着いた社である。
天照大神が、伊勢に鎮座する以前の場所を元伊勢という。
ここ皇大神社は、崇神天皇の頃、天照大神の御神体である「神鏡」が祀ら れたといわれる。
本殿の両側には脇宮2社が建てられ、それを取り囲むように83社の小宮が並んでいる。

rps20111019_062519.jpg

rps20111019_062742.jpg

元伊勢外宮豊受大神社、元伊勢内宮皇大神社、天の岩戸神社を元伊勢三社という。
rps20111019_062323.jpg


rps20111019_062629.jpg

樹齢2000年、有名な大江山の鬼退治に丹後へ派遣された麻呂子親王(聖徳太子の異母兄弟)が自ら 植えた杉だといわれる。
しかし、麻呂子親王は6世紀頃の人なので、植え替えたのだろうか‥‥。

元伊勢外宮豊受大神社 元伊勢参拝第十三番

【神秘なる社 元伊勢外宮豊受大神社】

福知山から大江町に入り、普甲峠に向かって国道を走ると、 右手に元伊勢外宮豊受大神社がある。 当然福知山市であるから現在は丹波だが、元々は与謝地方であり、丹後だった。 まあ、丹後と丹波、但馬は七世紀までは同じ丹波国であり、大丹波王国だったのであろう。 この普甲峠は、丹波と丹後を結ぶ重要な街道で、今でも石畳の古道が残っている。 高速道が開通し た現在はひっそりとしているが、それはそれで情緒的で心地良い道である。 さて、この元伊勢外宮豊受大神社であるが、境内はとても神秘的で、歴史を感じとれる雰囲気があ る。 社のあるこの船岡山は、全長200mもある丘で、上から見ると前方後円墳の形なのだという。 調査されていないので何ともいえないが、古墳であった可能性があるそうだ。 神社については古文書などはあまり無く、江戸期の頃の資料からだという。 天橋立にある丹後一の宮籠神社等は、とてつもなく古い資料や秘宝なる物品があるので、 対照的で もある。

rps20111013_102142.jpg



豊受大神社

名 所 在 地 京都府福知山市大江町字天田内船岡山
主 祭 神 豊受大神 相 殿 日子番能邇々杵命(ひこほのににぎのみこと) 天児屋根命・天太玉命 奥 宮
摂 社 多賀神社・土之神社・月読宮・風之神社(四社を以て四所別宮 と称す)
末 社 三十七社


rps20111013_101914.jpg
神明造りの社は、明治に改修され、現在に至る。


《大江町誌》

豊受大神社は、天田内の舟岡山に鎮座、外宮ともよばれ る。祭神は豊受大神、日子番能迩々杵命、天児屋根命、天 太王命を相殿に合祀し、廻りに末社三七社が並び、内宮と 大体同じ形に祀られている。昔はこの森全体に大木が茂っ ていたが、たびたびの台風で古木が倒れ、今はややまばら になったとはいうやはり大社の様相を留めている。 天照 大神は、吉佐宮において豊受大神から真名井の水による御 饌の奉仕をうけられた。伊勢に鎮座ののち雄略天皇の21 年、倭姫命に天照大神の神教があり、丹波から豊受大神を 御饌津神として伊勢の山田原に迎えたのが伊勢外宮のはじ まりであるが、ここ豊受大神社はその元つ宮だと伝えられ ている。近世の地誌書「丹後風土記」には、「此地を与謝 の比沼ノ魚井原といへり真井とも。与謝宮と云。祭神豊受 太神宮鎮座初の地にして、雄略帝21年神託有て翌年勢州 山田原に遷座なし奉ると云。」と記し、「丹後旧語集」に は、「豊受宮ハ国常立尊也 左瓊瓊杵命 右天児屋根命、 雄略天皇ノ御宇建立、養老五年九月初奉宮幣 人王三十三 代推古女帝二十一丁巳年外宮遷座於伊勢国」とある。神社 明細帳には、雄略天皇の二十二年、天皇が神悔を受け、丹 波国丹波郡比沼の麻奈為に座す豊受大神を伊勢国度会の外 宮に移した時、しばらく舟岡山に鎮座したのに始まるとし ている。

豊受大神社社殿 所在地 大江町字天田内小字東平一七八ノー 規模形式 本殿、三間社神明造、茅葺き。 神楽殿、桁行一九・八メートル 梁間五・ ○メートル 寄棟造、柿葺(こけら)(銅板仮葺) 当社は、外宮(げくう)ともよばれ、集落にほど近い舟岡 山の上にある。鎌倉時代ごろから伊勢神道では伊勢の外宮 を丹波与佐宮から移したとしたが、当社の社伝ではこの与 佐宮が当社にあたるとする。そこで元伊勢とも称してい る。境内は、本殿とこれに接する拝殿を中心に、四方に別 宮として多賀・月読・士・風の各神社があり、これらを囲 むように小さな末社三七社が配される。神楽殿はこの一廓 より少し低く、表側参道沿いに建ち、後側に囃子方席、横 側には花道や楽屋が付属する。三七の末社は、御師的な役 割をはたす三七の社家が祀っており、社家の活動により広 い信仰圏がつくられたらしい。 本殿は、棟札からみると、明暦二年(一六五六)上葺 き、寛保二年(一七四二)と文化四年(一八○七)に造替 があり、現在のは明治七年(一八七四)の建立になる。外 観は神明造の特徴をよく備えているが、平面に外陣側面と 内陣境に片扉を設け、外陣機能の発達がみられる。神楽殿 は、もとは栗材のくれ板葺きであったと伝え、江戸時代末 期ごろの建立かとみられる。境内は全体に旧形が保たれて いる。

豊受大神社は、天田内の舟岡山に鎮座、外宮ともよばれ る。祭神は豊受大神、日子番能邇々杵命、天児屋根命、天 太王命を相殿に合祀し、廻りに末社三七社が並び、内宮と 大体同じ形に祀られている。昔はこの森全体に大木が茂っ ていたが、たびたびの台風で古木が倒れ、今はややまばら になったとはいえやはり大社の様相を留めている。 天照大神は、吉佐宮において豊受大神から真名井の水に よる御饌(みけ)の奉仕をうけられた。伊勢に鎮座ののち雄 略天皇の二十一年、倭姫命に天照大神の神教があり、丹波 から豊受大神を御饌都神として伊勢の山田原に迎えたのが 伊勢外宮のはじまりであるが、ここ豊受大神社はその元つ 宮だと伝えている。 近世の地誌書「丹後風土記」には、「此地を与謝の比沼 ノ魚井原といへり真井とも。与謝宮と云。祭神豊受大神宮 鎮座初の地にして、雄略帝廿一年神託有て翌年勢州山田原 に遷座なし奉ると云。」と記し、「丹後旧語集」には、 「豊受宮ハ国常立尊也 左瓊々杵命 右天児屋根命、雄略 天皇ノ御宇建立、養老五年九月初奉宮幣 人王三十三代推 古女帝二十一丁巳年外宮遷座於伊勢国」とある。神社明細 帳には、雄略天皇の二十二年、天皇が神誨を受け、丹波国 丹波郡比沼の麻奈為に座す豊受大神を伊勢国度会の外宮に 移した時、しばらく当国舟岡山に鎮座したのに始まるとし ている。



rps20111013_101839.jpg



rps20111013_102114.jpg

《御由緒》

当社は旧号を与佐宮と称へ豊受大神を御主神として仰奉り、境内末社には 全国の名神大社の神々が奉斎されています。大神は人類生存上一日も欠くこ との出来ない衣食住の三大元を始め広く産業の守護神であり、国民に篤い御 加護を垂れさせ給ふ大神に座します。皇祖天照大御神は天孫降臨以来皇居に 奉斎されていましたが、人皇第十代崇神天皇の代に至りまして天皇のお住ま いと同じ皇居にお祭りしているのは誠に畏れ多いと思召され、即位六年に倭 国笠縫邑に御遷座になりまして、皇女豊鋤入姫命が祭事を掌っていられまし た。この地に三十三年間御鎮座になりましたが、別に大宮地を求めて鎮め祭 れとの天照大御神の御神勅がありましたので、同三十九年に当地を大宮地と 定め給いて大和国笠縫邑より遷御されたのであります。 当地で初めて宮殿を建立され大御神を奉斎されたのであります。此の時同 時に豊受大神を合わせ祀られたのが当社の創始であります。 境内を比沼の真名井ヶ原と称へ孤立した一丘陵を形成し、御神霊の静まり 座すに相応しい神秘な霊域で一萬余坪の御山であります。天照大御神は四年 間御鎮座になりましたが、更に大宮地を求めて当地を出御されます。豊鋤入 姫命は各地に大宮地を求めて御遷幸中既に老齢に向かわれましたので、途中 第十一代垂仁天皇の皇女倭姫命が御引き継ぎになられ、垂仁天皇二十五年に 現在の伊勢の五十鈴川上を悠久の大宮地と定められ御鎮座にになったのであ ります。笠縫邑を出御されてより五十年間の歳月を経ております。然しなが ら豊受大神は御鎮座以来御移動がなく、此の真名井ヶ原に鎮まり給いて万民 を恵み守護されてきました。ところが五百三十六年後の第二十一代雄略天皇 二十二年に、皇祖天照大御神の御神勅が天皇にありました。その御神勅は 「吾れ既に五十鈴川上に鎮まり居ると雖も一人にては楽しからず神饌をも安 く聞食すこと能わずと宣して丹波の比沼の真名井に坐豊受大神を吾がもとに 呼び寄せよ」との御告でありました。同様の御告が皇大神宮々司大佐々命に もありましたので、天皇に奏上されたところ非常に驚き恐れ給いて直ちに伊 勢国度会の山田ヶ原に外宮を建立され、大佐々命をして豊受大神を御遷座に なったのであります。然しながら豊受大神の御神徳を仰ぎ慕う遠近の信者は 引き継ぎ大神の御分霊を奉斎して元伊勢豊受大神宮と尊称し、現在に及んで いるのであります。



rps20111013_102221.jpg



rps20111013_102049.jpg


《大江町風土記2》

出船入船 外宮さんの山はふねになっているので、ふなおか山といい ます。この山は舟のようにういているので、流れないよう に、たて石というとがった石につないであると言われてい ます。たて石は二俣の田の中にあり、お正月にはおかざり をするそうです。前に若い人たちがその石をほろうとした が深くてほれなかったそうです。
内宮は入船のかたちをしているといいます。ここにもつ なぎ岩というのがあって、その田には牛を入れず、まやご えなどもやらないそうです。
rps20111013_185610.jpg
樹齢千五百年の御神木

赤坂今井墳墓

 赤坂今井墳墓  【日本最大級の大型方形墳丘墓】

《 ガラス勾玉の出土点数は現在知られている弥生 墳墓の中で全国最多の出土 数!》
《頭飾りと国内二例目の中国の人工顔料「漢青」を発掘!》


古代丹後には日本最古最大の水晶ガラス工房があり、大陸との貿易に使用されていました。全国の10分の1の生産量を誇った丹後。
丹後で作られた水晶ガラス製品は、海を渡り、鉄製品等と交換されていた。


★赤坂今井墳墓は中郡盆地から福田川の河口へ通じる谷筋に面した丘 陵の先端に造られた弥生時代後 期末(二世紀末~三世紀初め)の大型方形墳丘墓です。 16世紀ごろに山城が築かれた為、一部削られていますが、造られた当時は東西36m、南北39 m、高さ3.5mの長方形の墳丘と四方に巡る幅5~ 9mの平らな面からできており、墓域は南北5 1m、東西45mにわたる、当時では日本有数の規模となります。

rps20111008_101202.jpg

rps20111008_101230.jpg


墳丘築造に際しては、南北34m、東西22m、高さ9mにわたって丘陵を切断して墳丘や周辺の 平らな面が造成され、より大きく見せるための工夫がなされています。 中心的埋葬施設である第一埋葬は、墳丘上面の奥よりに位置し、長さ14m、幅10.5mの規模で す。 中央上面からこぶし大の石約300個による集石と割られた土器群が出土し、更に西側には南北に 並ぶ一列の柱穴列が見つかっていることから、独特な祭祀を行う場があったと考えられています。

rps20111008_102542.jpg




第一埋葬を一部切り込んで造成された第四埋葬は、長さ7m、幅4.2mの規模です。
舟底状木棺(長さ4.4m、幅1.3m)の棺内から、頭飾り・耳飾り一式、鉄剣1点、ヤリガンナ1 点が出土しました。 頭飾りは、被葬者の頭の部分に管玉・勾玉が規則正しく三連になるもので、 布などに編み込んでい たものと考えられます。
使用された玉類は確認できたものだけで勾玉22点、ガラス管玉57点、碧玉製管玉39点を数 え、ガラス管玉の中には、古代中国で兵馬にも使用されていた顔料「 漢青」の主成分であるケイ酸 銅バリウムが含まれていました。
赤坂今井墳墓は、その規模、立地、墓上での祭祀のあり方を知ることができる丹後を代表する大型 墳丘墓であり、丹後地域の弥生社会の発展を理解する上で大変重要なものです。

《京丹後市教育委員会》

有子山城 山名氏最期の居城

rps20111004_211913.jpg
本丸からの素晴らしい展望。



有子山城 【戦国時代の古城】

有子山城(321m) は、城下町出石を眼下に見渡せる素晴らしい戦国時代の古城である。

天正2年(1574年)山名祐豊によって築かれた。
山名氏は此隅山城を 本城としていたが、永禄12年(1569年)山名祐豊の時、羽柴秀吉の第一次但馬征伐によって、それまでの居城であった此隅山城が落城し、祐豊は泉州堺に逃亡し た。
しかし、祐豊は、織田信長に従属することを条件に旧領の但馬を回 復する。
但馬を回復した祐豊は、尼子勝久・山中鹿 之助等とともに毛利氏と武力衝突を繰り返していたが、天正2(157 4)年に織田信長との約定を破り、毛利氏と同盟を結んだ。
天正二年(1574)山名祐豊は、起死回生を狙い巨額の軍資金と残存兵 力を結集して有子山城を築城した。

rps20111004_211510.jpg

天正8年(1580年)織田勢、羽柴秀長を将とした第2次但 馬征伐軍が有子山城を攻撃、山名祐豊は病死。子の氏政は因幡に逃れた。
これにより、但馬山名氏は没落した。
/天正13年(1585年)前野長康が、五万石で出石に入封したが、豊臣秀吉による、関白豊臣秀次の処刑に連座して殺害された。
文禄4年(1595年)播磨国龍野から小出吉政が五万三千石で出石に入封、子吉英が麓に出石城を築城し、有子山城は、廃 城となった。

rps20111004_211320.jpg



rps20111004_212031.jpg

有子城への登城は、出石城跡の稲荷口からの石段を登り切ったところにある城址の碑 が目印となる。
急坂なので、登り応えがある。ハイキングのようで、楽しい。
曲輪・堀切・土橋・石垣など、見応え十分で、素晴らしい古城である。


rps20111004_211544.jpg


rps20111004_211709.jpg

rps20111004_211626.jpg

rps20111004_211825.jpg

主郭周囲には「野面積」の石垣が残されており、実際に戦った城を感じ取れる。

此隅山城 【応仁の乱、山名氏の本城】

此隅山城 【応仁の乱、山名氏出陣の本城】
此隅山城(このすみやまじょう)は、兵庫県豊岡市出 石にある山 城。
別名は子盗城、此隅城。「山名氏城跡」として国の史跡に指定 されている。
応安5 年(1372年)頃、出石神社の北にある標高140mの此隅山に山名時義が築城。
以後山名氏の居城とな る。
応仁元年(1467年)、応仁の乱が始まると、此隅山城には山名の各領国から計2万6000騎の軍勢が 集まり、山名持豊(宗全)は当城から京都へ出陣した。
永禄12年(1569年)、山名祐豊の時、羽柴秀吉に攻められ落城。祐豊は、 より高所にある有子山城 に居城を移し、城は廃城となった。
山全体が要塞と化した、まさに戦国の山城である。
rps20111003_221919.jpg


応仁の乱で西軍の総大将として細川勝元の率いる東軍と戦った山名宗全は、(元の名前は持豊という。後に出家して宗全とした。) 勇猛果敢な武将で、《赤入道》と呼ばれた。

宗全は1404(応永11)年5月29日に但馬国出石の此隅山城で誕生した。
出石は新羅の アメノヒボコの開拓した土地で、その歴史は古い。
近くに但馬国一宮出石神社があり古くから開けた土地であった。
室町時代、山名氏が但馬守護となった。
出石は但 馬守護の居城の地として発展する。


此隅山城は、文中年間(1372年~1374年)ころ山名時義によって築かれたといわれている。
山麓には宗教寺、願成寺、大手門、御屋敷、などの地名が残り、かつて城下町が存在したことを伝 えている。 また出石神社や総持寺にも山名に関する書状などが残っている。
しかし永禄12年(1569)と天正8年(1580)に天下統一を狙う木下秀吉らの織田軍が但馬に侵攻 し、此隅山城は落城した。 《出石町教育委員会》


rps20111003_222353.jpg


プロフィール

南方系海人

Author:南方系海人
ブログへようこそ!
古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
間違えた認識もあるかと思います。
自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。