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網野銚子山古墳 日本海側最大の古墳

銚子山古墳 網野銚子山古墳

【日本海側最大の前方後円墳】

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「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」が出典。


京丹後市網野南小学校の北、久美浜方面から来た国道178号線が経ヶ岬方面へ右折する三叉路に案内板があり、それに沿って上がっていくと、本覚 寺と一般の墓地があり、そのまま細道を歩くと、右手の背後にあるこんもりと茂った森が、国史跡の銚子山古墳である。
日本海側最大の前方後円墳で、 全長198m、後円部径116m、高さ16m、前方部幅 75m、高さ12mもある。
丹後町の神明山古墳(全長190m)・与謝野町の蛭子山古墳(全長145m)とともに丹後の三大前方後円墳といわれている。
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古墳時代前期後半(5世紀初め)に築造された古墳で、 墳丘は三段に築成 され、それぞれの斜面には葺石が敷かれ、各段のテラスには丹後地方特有の円筒埴輪が設置されていたそうである。
この古墳は、大和朝廷実質の初代天皇である崇神天皇の時代、四道将軍の一人としてこの地に遣わされた丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の墓と伝わるが、丹波道主命の墓は、弥栄町の黒部銚子山古墳にも伝承が残っているので、どちらの銚子山古墳なのか不明だ。

丹波道主命とは、記紀における皇族で、『古事記』では旦波比古多多須美知能宇斯王。
四道将軍のひ とりで、丹波に派遣されたとされる。
崇神天皇の弟、日子坐王(ひこいますのみこと)の子で、開化天皇の孫(景行天皇の外祖父)に当たる。母は息長水依比売娘(おきながのみず よりひめ。天之御影神の女)。
妻は、久美浜の王家の谷の川上之摩須郎女(かわかみのますのいらつめ)。
丹波道主命と川上之摩須郎女との 子は、日葉酢媛命(垂仁天皇皇 后)、渟葉田瓊入媛(同妃)、真砥野媛(同妃)、薊瓊入媛(同妃)、竹野媛、朝廷別王(三川穂別の 祖)等がおり、大和朝廷創世記において、丹後豪族と天皇家とが、深い繋がりであった事がわかる。
大和朝廷初期の天皇は、丹後の妃が多く、古代丹後の勢力の大きさを物語る。

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古墳最上部からの見晴らしはとても良く、日本海の青さが心を豊かにしてくれる。

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《京丹後市公式ホームページ》
京丹後市網野町網野には、丹後町の神明山古墳(全長190m)と加悦町の蛭子山(えびすやま)古墳(全長145m)とともに丹後地方の三大前方後円墳の一つとされて いる銚子山古墳である。
古墳時代前期後半(5世紀初め)に築造された古墳で、全長198mの規模は、日本海沿岸部では最大の規模を誇る。
隣りの弥栄町にも黒部銚子山古墳(全長 1 00m) という古墳があり、これと区別するために網野銚子山古墳と呼ばれることが多い。この古墳は、崇神天皇の時代、四道将軍の一人としてこの地に遣わされた丹波道主命の墓とも いわれている。
しかし、丹波道主命の墓は、弥栄町の黒部銚子山古墳にも伝承が残っている。
全長は上記のように198m、後円部は径が115m、高さが16m、前方部は幅80m、 高さ12mの前方後円墳である。
墳丘は三段に築成され、それぞれの斜面には葺石が敷かれ、各段のテラスには丹後地方特有の円筒埴輪の列が巡らされていた。
墳丘に築かれている内 部主体はまだ調査されていないが、おそらく竪穴式石室だろうと推定されている。
築造 時期は、古墳時代前期末~中期初頭(4世紀末~5世紀初)と推定されている。
この古墳は、前 と後ろに小銚子古墳と寛平法王陵古墳の2基の陪塚(いずれも国の指定史跡)を従え、悠然と網野町の市街地と丹後半島の浅茂川潟を見下す丘陵の上に位置している。


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日吉ヶ丘遺跡 方形貼石墓

日吉ヶ丘方形貼石墓

【全国最多の勾玉を出土した日吉ヶ丘方形貼石墓】

平成13年5月、与謝野町の日吉ヶ丘遺跡から、弥生時代中期後半(紀元前2世紀~紀元前1世紀頃)の大きな墳丘墓が発掘され大騒ぎになった。
まだ僅か10年前の事である。(平成23年現在)
この墳墓は、加悦谷盆地の日本海三大古墳(すべて丹後)である蛭子山古墳の少し北側に位置している丘で、国道バイパスからもよくみえる。
遺跡は、当 時の墳墓としては異例の大きさで、長辺は約32m、短辺は それぞれ17mと22m、高さは約2.7m。
墳丘の裾に平たい石が貼り付けたこの地方独特 の方形貼石墓(ほうぎょうはりいしぼ)と呼 ばれるものだ。
日吉ケ丘墳墓跡と名付けられたこの墳墓は、同時期の墳墓としては佐賀の吉野ヶ里遺跡についで、全国2番目の規模である。
墓のなかには大量の水銀朱がまかれ、頭飾りと見られる管玉は、全国最多の677個も発掘された。
水銀朱は当時としては大変貴重なもので、魔除けや腐敗防止の為に使用された。
これだけの大量の管玉は当時の丹後の栄光の象徴でもあり、王墓と呼ぶにふさわしい。
吉野ヶ里遺跡の墳丘墓とほぼ同じ時 代で、墓の大きさも、全国最大級。
吉野ヶ里 の墳丘墓には十数体が埋葬されていたが、日吉ヶ丘遺跡の場合、一人の ための墓である。
勾玉の数、一人の埋葬者から、【王の墓】という性格が考えられるという。

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国指定文化財【史跡】

日吉ヶ丘・明石墳墓群

日吉ヶ丘墳墓は、弥生時代の中頃(紀元前2~1世紀)に造られた大型の方形貼石墓です。 墳形は、少しいびつな長方形で、大きさは長辺約32m、短辺約20m、高さは最大約2.7mです。 同じ 時代では全国二番目の大きさです。 埋葬部は墳丘の中央南寄りに一基だけ確認され、槽状木棺に埋葬されたと思われます。 棺の中からは真っ赤な朱と緑色の勾玉677個以上が出土しました。 これらは葬られた豪族の顔の上か、頭の下に副葬されたと思われます。 古墳公園の蛭子山古墳など日本海三大古墳が造られた4~5世紀の古代丹後の繁栄が、日吉ヶ丘墳 墓の発見によって、さらに400年以上も遡ることがわかりました。 平成18年3月 与謝野町教育委員会



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方形貼石墓は、現状では石 見・出雲地域と丹後地域で発掘されているが、これまで発見され た中では最大規模である。丹後では、11もの方形貼石墓が発掘されている。

下の地図でもわかるが、この辺りは古墳、墳墓の過密地帯であり、600もの墳墓、古墳が発掘されている。

加悦谷平野は、丹後地域では最大の平野であり、野田川から阿蘇海まで古代の遺跡の宝庫である。
与謝野町全域でも3000以上の古墳地帯だ。
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丹後の戦国時代 その八

【戦火相次ぐ混乱の丹後】

石川直経を支持する越前守護朝倉孝景は、若狭国境まで進撃し、 陣を取る延永氏征伐にいよいよ軍 勢を出発させた。この時、武田元信は6月19日に若狭明通寺に対して、 陣僧を軍勢に加わるように命 じた。

一色義清・石川直経の軍と、越前を出発し若狭、加佐郡へと向かう朝倉軍と武田元信軍・朽木種広軍は合流し、若狭和田に着陣していた一色九郎・延永春信の勢力との戦が始まろうとしていた。

朝倉一族の景職や武 田氏家臣の逸見・本郷氏らが大飯郡高浜城の防備を固める一方、丹後では白井清胤らの軍勢が加佐郡余戸里に展開す るなど、攻勢を強めていた。
6月29日、 加佐郡余戸 里にてついに合戦が開始された。
激しい戦闘が続き、劣勢となった延永氏の軍勢は、加佐郡倉橋城に篭城したが、朝倉氏の軍勢は更に 激しく攻撃し、ついに倉橋城は落城し、一色九郎・延永氏は降伏し、城を出た。
この戦に勝利した朝倉孝景の仲介で、敗れた延永春信・一色九郎と武田元信との間で和睦が結ばれ、その条件と して、武田元信に加佐郡が与えられた。 この合戦で敗北した延永春信と一色九郎は死亡した訳ではなく、宮津の府中に退散したようであ る。

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しかし、混乱が続いた丹後に平和は戻らず、今度は加佐郡で反武田の動きがあったようで、 先の合戦での 和睦は翌月の7月には破られてしまい、再び対戦となった。
武田元信は再度、越前朝倉孝景と近江国の朽木種広に援軍を求めた。
朝倉勢は再び加佐郡に進出し、8月8日までに倉橋城を再占領した。
そのあと、丹後加佐郡の延永与党が9月初旬ごろ国境を越えて若狭に 侵入したものの、それも本郷氏らに討たれた。
この頃、加悦安良山城を追われて加佐郡にいた石川直経・一色義清の軍勢は由良川を越えて延永氏 の本拠地府中まで侵攻しており、武田・朝倉勢と合流した。
9月12日、再びついに石川直経・武田・朝倉の軍勢と延永春信の軍勢による合戦が開始され、 激しい戦闘 となった。
今度も石川勢が勝利し、その結果、武田・朝倉の助力を得た石川氏は永遠のライバルであった延永春信を没落させる事に成 功した。
この合戦でも多くの死者を出し、永世12年から続く2年間の争いで、二千数百人以上が死亡した。


武田氏の侵攻は更に奥丹後まで伸びた。
9月22日に竹野郡の堤篭屋城、10月11日に吉沢城を攻撃している。
しかし、熊野郡、竹野郡を本拠地とする伊賀氏の抵抗によって撃退されたといわれる。 またこの頃、武田勢の背後で加佐郡一揆が勃発し、若狭国まで乱入するなど、加佐郡の混乱は続い ていた。

11月、将軍足利義種の要請で、近江国朽木氏・越前朝倉氏らが再度丹後国へ出陣し、合戦があった。
その後の交戦記録は無いようだが、武 田氏はこの出兵で、加佐郡については一部地域の実質的支配 権を獲得したとみられる。
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永く続いた丹後の混乱も漸く一定の決着が着き、 合戦に勝利した石川直経は、一色義清に家督を継 がせた。敗北した一色九郎は、伊賀氏を頼り、竹野郡成願寺に逃れ、 居を移した。 その後、一色義清は、若狭武田元光の娘を嫁にし、できた子に一色氏当主として国府である宮津の 府中に住ませた。 一色義清は与謝野町石川城、石川直経は同じ一族で、幾地、滝、金屋、亀山などに城を築城し、防 御を固めているので、与謝野町加悦に戻っていたとみて間違いないだろう。

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丹後の戦国時代 その七

【一色氏の家督争いと石川直経vs延永春信】


石川直経の活躍などで、武田氏が若狭へ逃げ帰り、危機を乗り越えたその後の丹後は、何事もなく平和な日々を送っていた。
丹後守護には一色義有が再度復帰していた。
しかし、義有は、1512年、26歳の若さで病死してしまった。

これを期に、一色義清と一色九郎との間で家督争いの状態となり、義清の守護代が石川直経、九郎の守護代が延永某となり、守護が二人もいるというような並立状態となっていた。

しかし1515年永正12年からついに内乱状態となった。すなわち、守護一色義清の実権が失 われるなか、一色義清を擁立する重臣石川直経と、一色九郎を擁立する守護代延永春信の 両派が全面衝突したのである。
この争いで、数百人の死者がでている。
一色九郎というのは、一色義有に子がなかった為、延永春信が三河国の一色家から丹後の呼び、家督を継がせようとした人物である。

この戦いでは、延永春信が石川直経に勝利し、直経を加悦の安良山城から追い落とし、直経は加佐郡まで退散してしまった。
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しかし石川直経は、勢力を温存し、反撃のチャンスを伺っていた。
1516年石川直経が桂林寺に禁制を出しているので、戦火は加佐郡にも及んでいたようである。

※「禁制(きんぜい)」とは、支配者 が寺社や民衆に対して、禁止する事柄 を広く知らせるために作成した文書     で、別 に禁札、制札とも呼んでいま す。また、「禁制」は文書として記し てあるだけではなく、木札に墨書して 人目につきやすいところに掲げ、のち には駒形の木板に書いて提示される高 札などによって示されるようにもなった。


1517年永正14年3月ごろになると、若狭守護武田元 信は、若狭に不穏な噂があるとの情報を得た。

5月ごろ延永勢が若狭に侵入し、大飯郡和田まで進撃してきた。
その一方で、高浜の逸見河内守が、武田元信に背き、延永春信に寝返りをした。
しかし元信は、娘婿の越前の朝倉孝景に救援を依頼する一方、丹後勢で加佐郡にいる石川直経・一色義清と連携し、幕府の細川高国に運動した結果、幕府からは、武田への支援を命じる 御内書が出される事となった。
高国は、近江国高島郡の朽木種広にも合力を求め、石川直経・一色義清と一緒に戦う事を命令した。
当時の将軍、足利義種は、朝倉孝景に対し、武田元信とともに延永春信を攻撃するように命じた。
これにより、石川直経・一色義清は、武田元信・朝倉孝景の軍と連合し、将軍家による討伐の形をとって反撃を開始した。




【参考文献】 加悦町誌  宮津市誌  竹野郡誌  福井県誌  舞鶴の山城  中世の加悦

丹後の戦国時代 その六

【武田氏と幕府軍の丹後侵攻】

1506(永正3)年、細川澄元の後見として三好之長が上洛。 澄之は丹波国守護、澄元は摂津国守護となる。三好之長は摂津西半国守護代となった。
一方、若狭武田氏は、元信の代になって丹後侵攻を本格的に開始した。
丹 後ではこの年3月ごろ武田氏出兵がささやかれていた。4月に は元信が若狭国中山寺に丹後平定の願文を納め、戦勝を祈願し、6月には管領細川政 元の協力で出兵容認の御内書が出された。
政元は一色義有の丹後守護職を解任して、養子の澄之を一色征伐の大将として派遣した。
一色義有は、京都に使いを出し、政元に赦免を願ったが受け入れられず、5月には、更にもう一人の養子の澄元も出陣した。

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武田軍の行動開始時期は未詳 ながら、武田氏の武将粟屋親栄は7月28日には由良川を越えて天橋立近くに着陣している。
一色勢と武田勢の合戦は8月3日に始まり、激しい戦いとなった。その日の戦いで武 田方は大敗し数百人が討たれたという。
しかし9月 24日には援軍として入った細川澄之勢と武田元信勢が協力して、宮津如願寺付近の一色方小倉氏の山城を夜襲し、攻め落とした。
その後の戦闘 は確認されないが、武田勢は丹後占拠を続けていたものと思わ れる。

1507年4月、細川政元は丹波で軍勢を整え、澄之、澄元、重臣赤沢朝経、香西元長、三好之長らが 大挙して武田氏支援のため丹後に侵攻した。
まさに、【幕府軍対丹後軍】の戦であった。
この非常事態に直面して、一色家臣団は、内戦どころではなくなった。延永春信と石川直経は休戦し、延永春信は府中の阿弥陀ヶ峰城に、石川直経は加悦の安良山城(現与謝野町)に、一色義有は府中の今熊野城に籠もり、防戦につとめた。
府中町の寺や民家は一色方によって焼かれ、灰と化した。
これは敵方が侵攻し、寺などの建物を占領するからである。

これに対し、細川澄之、香西元長の軍は石川直経の安良山城を攻撃、武田元信、赤沢朝経軍は府中の成相寺に陣を取り、延永春信と一色義有への攻撃を開始した。
5月11日、合戦の火蓋が切られたが、寄せ手の武田軍は多くの死者を出し、なかなか丹後勢は落ちなかった。
5月18日、合戦でまたも武田方が敗北し、 同25日には細川政元が京都に帰ってしまった。
さらに加悦城を攻めていた細川澄之の率い る丹波勢も城将石川直経と申し合わせて帰陣した。ただ府中(宮津)では、今熊野城 の一色義有軍、および阿弥陀ケ峰城の延永勢と両城を囲む武田・赤沢勢とが対峙した状態 のままであった。

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ところが、6月24日、細川政元が京都で養子の澄之、薬師寺長忠らに暗殺されると いう大事件が起きた。
この知らせが6月25日には丹後在陣中の細川勢にもたらされたため、赤沢朝経は一色義有と和睦し、 翌日宮津城まで退いたところ、27日、政元の死を知った石川直経らは挙兵し、普甲谷で再 び合戦となった。
勢いついた石川直経は、赤沢朝経、古市丹後公ら、細川軍の諸将に勝利し、ここで粟屋親栄や赤沢以下数百人の戦死者を出した武田・細川軍は、若 狭・丹波へ退却せざるをえなかった。
このように、武田、細川勢の丹後侵攻は失敗に終わり、また、幕府の最高権力者である細川政元が死亡するという、とんでもない一大政変を引き起こした。
これにより、室町幕府は更に衰退化していった。
丹後の合戦が、日本の歴史に大きな影響をおよぼすことになったのである。

丹後の戦国時代 その五

【石川氏と延永氏の合戦、武田氏の乱入】

武田氏と一色氏は、武田信栄が一色義貫を大和陣中で暗殺してその若狭守護職を得た。
また、応仁の乱では、一色氏が西軍、武田氏が東軍に分かれて戦い、その上、一色義直から没収された丹後守護職を一時武 田信賢に与えられたが、のち一色氏に返付されたなどの経緯があり、一色氏と武田氏は、互いに 強い不信感を抱く宿怨関係にあった。
さらに丹後と若狭は境を接しているため、両 氏の間には常に緊迫した情勢が続いており、何かきっかけがあるとただちに武力衝突につながっ た。
こうした事情があり、武田氏の丹後出兵は幾度となく繰り返されていった。

1503(文亀3)年、幕府の実質的支配者、細川政元には実子がなく、前関白九条政元の子、澄之を養子としたが、のちに前阿 波守護細川成之の孫の澄元を養子に迎えた。更に、同じ細川一門の細川政春の子、高国を養子とし、それが因となって、家中は 澄元派と澄之派に分かれて対立するようになっていった。
いよいよ官僚細川家でも家督争いが始まった。

一方丹後では、守護一色氏の権力は完全に失墜し、守護一色義有は、丹後の国人衆を統制できなくなっていた。
丹後守護被官伊賀又次郎が竹野郡で反乱を起こした。
同年、もともと仲の悪かった丹後守護代の延永春信(府中)と丹後守護被官石川直経(加悦谷)が対立し合戦となった。
一色氏家臣同士の戦闘である。
更に、この内紛に便乗して、若狭の武田元信の軍が丹後に侵入し、丹後国は「国錯乱」と呼ばれほど激しい戦火が繰り返され、本格的な戦国時代に入った。

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※石川氏は、加悦の安良山城を本拠地とする国衆で、元々荘園をもっていた。
幾地、滝、石川、亀山、金屋等、加悦谷一円に一族の城を持ち、支配域を広げていた。
丹後国初代守護満範からの有力被官として、在京奉行人や、若狭今富名代官、伊勢国守護代を出している。
守護勢力が弱体化した当時は、加悦谷の石川氏、宮津の小倉氏、久美浜の伊賀氏が、国の奉行として、丹後を三分割していた。

一方の延永氏は、国府、宮津の府中を本拠地とし、丹後守護一色氏の守護代を務めてきた。
丹後国で守護代として地位を保持しながら、次第に勢力を広げ、主家をも凌ぐほどに成長した。
天橋立智恩寺の多宝塔は、延永氏の残した遺産である。
しかし、1497年、一色五郎を殺害し、内乱を起こしていたようだ。
また丹後水軍を率いて、若狭国を攻撃している。



丹後の戦国時代 その四 

【戦乱の丹後と一色氏】


1467年に始まった応仁の乱、若狭守護武田信賢(のぶたか) は、細川方の東軍につき、丹後守護 一色義直(よしただ)は山名氏の西軍に組した為、一色氏は義政の弟、義視側(東軍細川方) の反撃 を受けることになった。
細川氏は、丹後に隣接する丹波を領国としていた。
応仁の乱により、一色義直は、細川勝元側の東軍を支持の義政により丹後及び伊勢の守護職も解かれた。
1469年、幕府の実権は官僚細川勝元が握っていたので、若狭の武田信賢に丹後守護職を与え た。
これを契機にここぞとばかり、武田氏は丹後侵攻を開始した。

丹後では新守 護武田信賢と一色氏守護代延永氏の激戦が続き、宮津の普甲峠での一色方と武田方での合戦では、一色氏守護代延永氏が奮戦し、但馬守護 山名氏の援軍も手伝って、武田氏を撃退した。
また伊勢でも新守護土岐政康と一色氏守護代石川道悟と の合戦が続いた。
更に細川成之の領国三河には、弟の一色義遠が率いる軍勢が尾張知多郡から侵攻、ここ でも激しい合戦が続いた。


京都は燃えつくし灰と化した。やがて応仁の乱も10年を過ぎたが、細川勝元、山名宗全が続けて病死し、これを期に、 東 軍と西軍の和議が成立した。 将軍足利義政は、丹後守護職を一色義直の子、義春とし、一色氏五代目となった。
勢いづいた丹後の一色勢は同国に駐屯していた武田勢を破り、 旧領回復に一応成功する。
しかし、応仁の乱で一時的といえど、丹後守護となった武田信賢の弟の武田国信は、 容易に 丹後から引き下がらず、加佐郡(今の舞鶴市あたり)は、戦乱の中に巻き込まれてゆく。
丹後には各地に山城が造られ、戦火に見舞われた。特に加佐郡には大小150以上もの山城 が発見されており、武田氏と一色氏、後の細川氏などが攻防を繰り広げていたようである。
三河では1476年、一色勢が細川成之の守護 代東条国氏を自害に追い込み優勢であったが、成之は幕府出 仕を拒否、結局、1478年2月、義直が三河を放棄し、三河の一色軍は撤退した伊勢では義春に半国守護職が与えられた。
しかし、これに反撥する北畠 氏との戦いに敗れた。

丹後の戦国時代は、この頃より約百年間にも渡り、戦乱の渦の中に巻き込まれていく。
1484年、一色義春が、19才という若さで早死。 父親の一色義直が再び丹後守護及び北伊勢守護に復帰した。
1486年9月、丹波の細川政之の兵が丹後に入り、戦況は泥沼化してゆく。





丹後年表(主な出来事)1451年~1500年

1451年  丹後守護一色義直
1453年  一色義直、山城長福寺領丹後河上荘の課役を免除する。
1457年10月、京都で、徳政を求めて土一揆が蜂起し、一色義直等、鎮圧の為、発向する。
1459年  中郡三重郷の国富兵庫助が、「丹後国田数帳」を写す。
1460年 南禅寺端雲院の訴訟を壇那の一色義直が仲介する。
    松田丹後守秀興、奉行となる。
1462年 京都において、土一揆が蜂起、一色義直等、鎮圧に向かう。
1463年 若狭守護武田信賢の被官と、丹後守護一色義直の被官、舟荷物のことで、相論する。
1467年1月 応仁の乱勃発、一色義直、西軍山名宗全に組みする。丹後国守護に武田信賢とな る。
   4月 山名方の分国から京進される年貢を、細川方が丹波、丹後国で没収する。
1468年8月丹後勢、嵯峨に陣を取る。
   9月、丹波国の東軍が侵入し、丹後国軍等の西軍を破る。
   12月、足利義政、御料所与謝郡を摂津之親に預ける。
      竹野郡間人の門四郎家国、朝鮮に遣使する。 
1469年  丹後国が、東軍の武田信賢に与えられ、武田勢と細川勢が、丹後国に討ち入る。
   8月、細川方の天竺賢実らと、山名方の延永らが、普甲寺山で合戦。
1471年 丹後守護に武田国信
1474年、足利義政、一色義春に旧領を返し、丹後守護に一色氏復帰。武田、細川勢はこれに抵抗する。
1477年、一色義直に伊勢国北方が与えられ、伊勢国司北畠政郷と合戦。
    一色氏守護代に石川氏。
1480年、細川氏被官内藤某、丹後国を攻撃。
1484年 7月 伊賀次郎有康と河島安秀、西大寺領加佐郡志楽庄の代官となる。
    9月 一色義春死亡、一色義直が丹後守護に復帰。
1486年7月 鹿王院、寺領加佐郡余部庄の守護一色義直による横領を幕府に訴える。
   8月 幕府、若狭国小浜を一色義直より奪い、武田国信に預ける。義直、丹後に下向する。
   11月 等持院、寺領宮津保に対する一色義直の半済実施の停止を幕府に訴える。
1487年  丹後守護に一色義秀就任。義秀、足利義尚による六角氏討伐に参陣する。
1489年 丹波郡丹波郷が一色政具の所領となる。
    丹波国で、国一揆が起き、丹後国勢と摂津国勢によって鎮圧される。
1491年 丹後守護一色義直、丹後より上洛。
    足利義材による六角高頼討伐の軍勢に一色義直、松田長秀らが参陣する。
1493年 久美浜の伊賀次郎左衛門が丹後で反乱を起こす。一色義直、鎮圧の為下向する。(一色義直が次郎左衛門の弟に目 を賭けた為とされる) 一色義直、その後の消息不明。
1497年 府中の一色五郎、守護代延永氏により殺害される。
1498年 一色義秀、宮津普甲峠にて国人衆に攻められ自殺。
1500年 守護代延永春信が天橋立文殊の千恩寺の多宝塔を寄進する。


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丹後の戦国時代 その参

【応仁の乱勃発】

文正2年(1467)1月18日、家督争いから畠山義就が京都上御霊社にいた畠山政長を攻めて、 これが発端に「応仁の乱」が始まった。


また、嘉吉の乱で、将軍足利義教が殺害された為、 義教の嫡子である義勝が第七代将軍になったが、僅か 9歳の為、政治能力などなく、官僚細川持之が実権を掌握した。 しかし、僅か在任8ヶ月で義勝は死亡。 後任の第八代将軍に、弟で八歳の義政が選出された。 しかし、同じように政治能力などあるはずもなく、朝廷や、生母の日野重子、官僚の細川氏、 有力 守護大名の山名氏や畠山氏などの政治関与が続き、将軍の権威は一気に失墜していった。

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足利義勝



【応仁の乱】 将軍義政は、政治能力が全く無く、趣味に没頭する日々に明け暮れていた。 正妻である日野富子との間に男子が無く、次の後継者に弟の義視を養子とし、家督を継がせる事にし た。
義視は後見人に官僚細川勝元を頼んだ。 しかし、日野富子との間に子が出来、義尚を出産した。 当然、富子は、我が子義尚に家督を相続させ、次の将軍にしたく思い、官僚山名宗全に後押しを頼 んだ。 この家督争いのゴタゴタが元となり、以前から仲の悪かった細川勝元と山名宗全が中心となり、 東 軍と西軍に分かれて戦闘を繰り返す事になった。
若狭守護武田信賢は細川(東軍)に、 丹後と伊勢の守護一色義直は山名宗全の孫婿の関係で、山名(西軍)に組した。 また守護大名畠山家や斯波家も家督争いが勃発し、東軍と西軍に分かれて戦った。 『応仁記』によると、東軍細川方16万人、西軍山名方11万人が衝突し、京都の町は、灰と化してゆ く。 1467年5月の事である。


応仁の乱=(東軍細川勝元と西軍山名宗全)


【畠山家】
1448(文安5)年、畠山持国は、畠山政長(持国の弟の持富の子)を養子にして、次の家督に指名していた が、自分に子供が生まれたので、自分の子畠山義就を跡目とした。
1455(享徳4)年、畠山持国死去。
1460(長禄4)年、反畠山義就派は、細川勝元の支援を受け、持富の子政長を かついで巻き返しを図りる為、家督を政長に譲った。
1464(寛正5)年、畠山政長は、細川勝元に代わり管領に就任。一方、畠山義 就は幕府の攻撃を受ける。
1464(寛正5)年11月、男子のいない将軍足利義政は、弟の義視に将軍継嗣を約束し 12月、足利義政の養子になり、細川勝元は、その後見人になる。


【細川氏】
細川勝元は、幕政の実権を握り、畿内・四国・山陽に8カ国の守護分国 を保持していた。

【山名氏】
山名氏の本拠地は、丹後の隣、但馬で、嘉古の乱で播磨など3カ国を加え、8カ国の守護分国を持つ有力守護となってい た。
次第に、細川勝元と幕政の主導権を 争うようになった。
宗全は養女を細川勝元と結婚させる一方、畠山氏の内紛では義就派についた。



【斯波氏】
1452(享徳元)年、斯波義健の死後、斯波義敏と斯波義廉の家督争いがおこる。

1466(寛正7)年、将軍足利義政は、側近の伊勢貞親らの意見により、斯波家の家督を 義廉から義敏に変更し、足利義視の暗殺を画策したが、足利義視は細川勝元邸に逃れ、斯波 義廉を支持した山名宗全は勝元と一致して伊勢貞親ら側近の排除を義政に申し入れ、そ の結果、伊勢貞親は逃亡した。
12月、山名宗全は、斯波義就軍を京都に招聘。

1467(応仁元)年1月、山名宗全の策略で、足利義政は、管 領に斯波義廉を任命。
畠山政長は自邸を焼き払い、上御霊社の森に布陣した。 畠山義就と斯波義廉の被官である朝倉孝景の軍勢が畠山政長軍を打ち破る。
応仁の乱の火蓋が切っておとされた。

【将軍家】
1464(寛正5)年11月、男子のいない将軍足利義政は、弟の義視に将軍継嗣を約束し 12月、足利義政の養子になり、細川勝元は、その後見人になる。

1465(寛正6)年11月、足利義政の妻の日野富子は、足利義尚を産むと、足利義視を 排斥しようとし、細川勝元と対立する山名宗全に後押しを依頼。

1466(文正元)年9月、足利義尚の養い親の伊勢貞親は、相国寺の季瓊真蘂(幕政の実力者)と共に、足利義視の悪口を足利義政に告げ口し、果ては殺害まで 計画。
義視の後見人である細川勝元と、伊勢貞親と対立する山名宗全らは、伊勢貞親を近江に追放。

【 東軍】
細川勝元、畠山政長・赤松政則・武田信賢・京極持清・富樫政親・斯波義敏

【 西軍】
山名宗全、畠山義就・斯波義廉・六角高頼・一色義直・土岐成頼・河野通春・大 内政弘・朝倉孝景

1473(文明5)年、山名宗全、細川勝元が相次いで病死し、和平の動きが活発化した。
1477(文明9)年、山名政豊は、細川政元と和睦し、さらに幕府へ降伏を申し入れた。
政豊は、新将軍足利義尚に謁見して山名氏の所領が安堵された。
ここに応仁の乱は、京都を荒廃させ終結し、戦国時代の幕があける。


応仁の乱が終わり、
・幕府や公家・社寺の権威・権力が崩壊した。
・社寺などの由緒なる建物が放火され、宝物が消失した。
・地方では、守護代や国人が台頭し、下剋上の時代が始まった。
・戦乱で灰と化した京都を離れた公家や芸術家や技術者が、地方に移住した。
・また、守護大名は、自分の領国に住むようになり、一色氏も京都から丹後府中に居を移した。

丹後の戦国時代 その弐

【将軍足利義教謀殺事件】

独裁者、足利義教による諸大名弾圧に、都では「次は赤松の番だ」と噂が広まっていた。 「薄氷をふむの儀、恐怖千万。世上も物言い有り。赤松の身の上云々」 (看聞御記)

嘉吉元年六月二十四日

雨風降って、うすら寒い日だった。 守護大名赤松満祐の舘は宴が開かれ、宴たけなわとなっていた。 将軍義教はじめ、側近の諸大名を招き、大いに盛り上がった。大杯は何度も座敷を回り、能舞台が 開かれ、「鵜飼」を演じていた。 その時、邸の奥から物音が響き渡り、雷鳴かとも思われた。

「荒馬を外に出すな!門を閉めろ!」 それは、たずなを切られた荒馬が暴れまくる音だった。
荒馬は宴席が設置された庭に駆け込んできた。 その一瞬、障子が一気に引き裂かれ、数十人の侍がどっと乱入し、将軍義教を斬り倒した。 独裁者の最期だった。 義教側近の大名の三人もどっと倒れた。 場は一気に血の海となった。
山名持豊、細川持之など生き残った大名は、一目散に自分の屋敷に逃げ帰ったという。
1441年第六代将軍足利義教没。


四職のうち唯一生き残っていた赤松満祐 による将軍殺害事件である。 この事件により、赤松家は没落することになったが、赤松がやらなくても、誰かがやったのだろ う。 この事件をきっかけに、世は果てしない戦乱の日を送る事になる。


満祐はその背丈の低さから三尺入道などと呼ばれていたという。低身長症(軟骨無形成症・身長が120cm程)だったようで、そのコンプレックスゆえ に、将軍に反抗したのではないかとの説もある。


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足利義教肖像画




※赤松氏は、播磨を中心とする一族で、守護大名の中でも一色氏と肩を並べる程の勢力を持ってい た。 「播磨は赤松の血」と言われるほどで、播磨、備前、美作、摂津にかけて分流し、赤松氏からの氏 姓は、二百数十にも及ぶという名家である。 そういえば、和田山の竹田城主も赤松の時代があったし、与謝野町にも赤松姓の人達がいる。 元々 は播磨からの流れなのだそうだ。 現在でも「赤松一族の会」が開かれ、全国から集結すると聞く。


丹後年表(主な出来事) 1400年~1450年まで

1402 足利義満、義持と共に三度天橋立文殊堂参拝。

1405 足利義満、四度目の天橋立文殊堂参拝。

1409 丹後守護一色満範から義貫となる。(守護代伊賀入道)

1420 木津中館城主松本正勝、妙見社建立

1440 一色義貫、大和陣中にて暗殺され、甥の教親が守護を継ぐ。(守護代、三方範忠~延永益信 ~延永益幸~堅海若狭入道)

1443 丹後大雨大洪水、加佐郡田辺は泥海と化す。波浪は天橋立を越す。竹野川沿岸被害甚大。一村 残らず流出の所あり。現峰山町杉谷まで船9隻が流れ着いた。 一色義範は年貢を免じ大災害に対処 とある。

1449 坂根修理亮が加佐郡中筋村字伊佐津左武ヶ嶽の西頂に砦を築く。のち、一色氏に従い竹野郡島 村に城を移す。

丹後の戦国時代 その壱

戦国時代といえば、どこから書き出せばいいのか。 一般論としていえば、織田信長の頃と思われがちだが、そうでは無い。応仁の乱の頃からである。
応仁の乱から室町幕府が完全に失墜する16世紀末までの、約100年間である。
さて、この応仁の乱であるが、どうもあまり人気の無い戦国期なのだそうだ。 人間関係が大変複雑で、織田信長のような圧倒的支配者がいなかったのが原因かもしれない 。 しかし、この乱を知らずして戦国期を語る事は出来ない程、重大な意味を持っている。 詳細は数ある歴史資料を読めば理解できるので、ここでは、大まかな史実を書きます。


1336年、足利尊氏が南朝を破り、征夷大将軍になり、室町幕府(足利幕府)がスタートした。
三代将軍義満の時には足利家の絶頂期を迎え、武力だけでなく、和歌、連歌、能などの北山文化を花咲かせ、金閣寺建立など、文化の面でも 華々しい時代であったという。
南北朝の合体を実現し、貿易も始める等、室町幕府は全盛期を迎えた。

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室町幕府は、日本の各地(各国)に守護(守護大名ともいう)を配置し、それぞれが支配してい た。
丹後国は、足利一族の一色氏の領国であったが、守護一色氏は、実質丹後にはおらず、自分の家臣 を守護代に置き、治安などを任せていた状態であった。
一色氏は若狭国、三河国、山城国も領国としており、足利一族として隆盛を誇っていた。

しかし、足利家も五代義持の頃になると、将軍の権威は低下し、各地の守護大名が独立性を強め、重大な問題を抱えていた。
なかなか将軍が決まらず、結局、くじ引きにより義 教が、六代将軍となった。 この六代義教がくせ者で、気に入らない者は全て処分するといった残酷非情な将軍であった。

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朝廷で、くしゃみをした程度で、追放したり、正当な理由が無くても、処分、処刑した。
この為、周りの大名なども、震えあがっていたという。

その時代、一色氏は三代目の義貫が守護に任命され、丹後国、山城国、三河国、若狭国の4国を 領国としていた。
一色氏は、守護大名の中でも格が高かった。
三官四職といわれるように、幕府の官僚は、斯波、細川、畠山の三家、侍所頭人に、赤松、一色、 山名、京極の四家で交替されていた。

しかし、将軍足利義教は、力のついた守護大名と次第に対立し、細川氏以外の守護大名を弾圧す る。
1440年、永享十二年五月二十四日、一色義貫は、大和国人の反乱討伐戦に出陣中に、義教が命 令し、味方であるはずの武田信栄と細川持常の手によって暗殺されてしまった。
領国の多い一色氏を恐れたからであろう。
この時から、武田氏が小浜を中心とする若狭国の守護になり、細川氏が三河国の守護になった。この事件から、一色氏と武田氏は、丹後と若狭で、戦い続けることになる。

若狭国と三河国を取られた一色氏は、義貫の甥、教親が継いだが、領国は、丹後国と伊勢国の二カ 国になってしまった。


※一色義貫の後継者は、義貫の甥の教親が継いだが、実は義貫とは対立が続いていたのである。
教親は、父の持信と同様に、将軍義教の側近として重用された。そのため、義貫 との対立は続き、
義貫が大和で誅殺されると、翌日早朝、京の義貫邸を襲撃、放火した。
この騒動で義貫の家臣数十人が討死、自害している。
将軍足利義教が嫌っていた義貫邸襲撃、 この功績により、教親は、一色氏の家督を継ぎ丹後・伊勢北半国の守護となった
翌年6月24日の赤松満祐の義教謀殺事件(嘉吉の乱)の際は義教に供奉していたが、隙をついて逃げ出し難を逃れている。しかし1451年、教親は32歳の若さで急死する。
教親の後、義貫の子、義直(よしただ)が、守護職を継ぐ。
このような話が残っている。

義貫は、幕府の命令により、越智氏らを討伐するため大和に出陣していた。 同じく大和に布陣していた武田信栄が訪れて来た。 信栄は、義貫に翌朝、武田陣所で、一緒に食事をしないかと誘った。

武田信栄は将軍義教から一色義貫暗殺の密命を受けていたのである。

義貫の家臣は、「罠ではないか」として引きとめたのだが、翌日、約束とおり朝食の招待に応じ、 武田の陣所に出向き、 襲われ自害し果てたという。
義貫の家臣、三方若狭守・同弾正らは激しく応戦したが、討死した 。 陣所は血の海と化し、信栄自身も負傷したという。 その頃、伊勢守護土岐持頼も、細川持常に討たれている。

同年5月15日、武田氏に腹背を斬られ、大和信貴山の竜門寺で一族と共に自害した説もある。


“くじ引き将軍”足利義教が将軍になり、実現したい政策は、 公家風に軟弱になった武家の風潮を厳し く引き締め、幕府や朝廷を初代将軍足利尊氏の頃のように戻す事だった。

義教に反抗的な態度を取る者や気に入らない大名は次々と消され、延暦寺の高僧である弁澄、円 明、兼覚の三人までも、斬首されてしまった。これを聞いた延暦寺の僧二十余名は抗議の為に根本 中堂に籠り、火を放って全員切腹してしまった。

「万人恐怖」「恐怖千万」と恐れられた義教は、どんどん強硬路線を歩み続けていった。

奈具神社 元伊勢参拝第十二番

豊受大神宮外宮の元伊勢は、丹後にあります。

第二番目は、京丹後市弥栄町の、奈具神社。

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所在地 京都府京丹後市弥栄町船木奈具273

「奈具の社。」は、現在船木にあるが、もとあった奈具村、旧船木村は、嘉吉年間の 洪水で消失した。

御祭神 主祭神 豊宇賀能賣神(とようかのめのかみ)

末社祭神 素盞鳴命(すさのおのみこと) 若宮神社 可遇土神(かぐつちのかみ)

」社日 むかし、丹波の郡比冶の真奈井に天下った天女が、和奈佐の老夫婦に懇願されて比 冶の里にとどまり、万病に効くという酒を醸して、老夫婦は莫大な富を得ました。し かし、悪念を抱いた老夫婦はやがて天女に、汝は吾が子で
はないと追い出してしまい ました。

天の原ひりさけみれば霞立ち 家路まどいて行方しらずも

と詠って、比冶の里を退き村々を遍歴の果てに、舟木の里の奈具の村にやってきまし た。そして「此処にして我が心なぐしく成りぬ」(わたしの心は安らかになりました)と云っ てこの村を安住の地としました。此処で終焉を迎えた天女は村人たちによって、豊宇 賀能売命(とようかのめのみこと)として祀られました。これが竹野の郡の奈具の社で す。 以上が奈良時代に編纂されたとされる「丹後の国風土記(逸文)」が伝える奈具の社の延 喜です。

境内の案内板より

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「丹後風土記」(715年)の中に、日本最古の羽衣伝説の記述があり、
「丹後の比治の山(磯砂山の頂上に真奈井という池(女池)がある。 この池に八人の天女が舞い降りて水浴びをしていると、里人の和奈佐という老夫が一人の天女 の衣を隠し、無理に連れて帰ってきた。 一緒に暮らして十年あまり、万病にきくという酒を天女が上手に作り、和奈佐の家は栄えて いった。 しかしだんだん天女が邪魔になり、とうとうおいだした。
天女は泣く泣く荒塩の村(荒山)にたどりつき、のち哭木(なきき)の村(内記)から舟木の里の 奈具の村(弥栄町奈具)に落ち着いた。」
ここに奈具神社がある

御祭神 主祭神 豊宇賀能賣神(とようかのめのかみ) 本社

末社祭神 素盞鳴命(すさのおのみこと) 若宮神社 可遇土神(かぐつちのかみ)


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丹後の国の風土記に曰く、丹後の国丹波の郡、郡家の西北の隅の方に比治の里あり。此の山の比治山の頂に井あり、そ の名を間奈井(まない)と云う。
今はすでに沼と成れり。この井に天女八人 降り来て、水浴みき。

時に老夫婦あり。 其の名を和奈佐の老父(おきな)、和奈佐の老女(おみな)と曰う。
此の老達(おきなら)、此の井に至りて、竊(ひそか)に天女一人の 衣装を取り蔵(かく)しき。

やがて衣裳(きもの)ある者は皆天に飛び上りき。
但(ただ)、衣裳なき女娘(おとめ)一人 留まりて、すなわち身は水に隠して、獨(ひとり)懐愧(は)ぢ居りき。 爰(ここ)に、老 夫(おきな)、天女に謂ひけらく、「吾は兒なし。請ふらくは、天女娘(あ まつむすめ)、汝、兒と爲りませ」といひき。

天女、答えけらく、「妾(われ)獨(ひとり)人間(ひとのよ)に留まり つ。 何ぞ敢へて従わざらむ。請うらくは衣裳を許したまへ。」といひき。

老夫(おきな)、「天女娘、何ぞ欺(あざむ)かむと存(おも) ふや。」 と曰えば、天女の云ひけらく、「凡て天人の志は、信を以ちて本と爲す。何 ぞ疑心多くして、衣裳ゆるさざる?」といひき。

老夫答へけらく、「疑多く信なきは卒土(ひとのよ)の常なり。 故、此の心を持ちて、許さ じと爲(おも)ひしのみ。」といひて、遂に許して、すなわち相副(あいたぐ)へて宅(い え)に往き、すなわち相住むこと十餘歳(ととせあまり)なりき。

爰(ここ)に、天女、善く酒を噛み爲りき。
一坏飲めば、吉 (よ)く万の病除(い)ゆ。その一坏の直(あたひ)ほ財は車に積みて 送りき。時に、其の家豊かに、土形富めりき。 故(かれ)、土形 の里と云ひき。此を中間より今時に至りて、便ち比治の里と云ふ。

後、老夫婦等、天女に謂ひけらく、「汝は吾が兒にあら ず。 しまらく借に住めるのみ。 早く出(い)で去(ゆ)きね。」といひき。

ここに、天女、天を仰ぎて哭慟(なげ)き、土に俯(うつぶ)して哀吟しみ、やがて老夫達に謂ひけらく。「妾(あ)は私意(わがこころ)から來つるにあら ず。 是(こ)は老夫達(おきなら)が願へるなり。 何ぞ厭惡(いと)ふ心發(おこ)し て、忽(たちまち)に出(いだ)し去(す)つる痛きことを存(おも)ふや。」といひき。

老夫、ますます發瞋(いか)りて去(ゆ)かむことを願む。
天女、涙を流して、微(すこ)しく門の外に退き、郷人(さと びと)に謂ひけらく、「久しく人間(ひとのよ)に沈みて天(あめ)に還(かえ)ることを得 ず。復(また)、親故(したしきもの)もなく、居(を)らむ由(すべ)を知らず。吾(わ れ)、何(いか)にせむ、何にせむ。」といひて、涙を拭ひて、嗟歎(なげ)き、天 を仰ぎて哥(うた)ひしく、

天の原 ふり放(さ)け見れば、 霞立ち 家路まどひて 行方知らずも。

ついに退き去きて荒鹽(あらしお)の村に至り、すなわち村人達に謂ひけらく、「老父老婦 (おきなおみな)の意(こころ)を思えば、我が心、荒鹽(あらしお)に異なる事なし。」と いへり。仍りて比治の里の荒鹽(あらしお)の村といふ。

亦、丹波の里の哭木の村に至り、槻の木に據りて哭きき。故、哭木(なき き)の村と云ふ。

復、竹野郡船木の里の奈具の村に至り、すなわち 村人達に謂ひけらく、「此處にして、我が心なぐしく成りぬ。」といひて、乃(すなわち)此 の村に留まり居りき。斯(こ)は、謂はゆる竹野郡の奈具の社に座 す 豐宇賀能賣命なり。

丹後風土記

青葉山 part2

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西峰山頂からの内浦湾、
若狭の海もなかなかです。
この景色は、途中の登山道からは見えません。

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こちらからの登山道は急なつづら折れの細い道です。

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山頂には、笠津彦と、笠津姫を祀る神社がある。


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巨大な岩穴には、丹後風土記に登場する、土蜘蛛がすんでいたのだろうか。

青葉山の土蜘蛛伝説
崇神天皇の弟、日子坐王(ひこいますのきみ)、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を殺す
古事記にはこのように書かれている。
「又日子坐王をば、旦波国に遣はして、玖賀耳之御笠を殺さしめたまひき」
日本書紀には、崇神天皇が、丹波に丹波道主命を派遣したとあります。
「日本書紀」に記述のある四道将軍「丹 波道主命」の伝承は、丹後一円に広く残って いるが、記紀系譜の上からみると日子坐王の子となる。 この陸耳御笠の伝説は、在地対抗勢力対大和国家の対立の構図 がその背後にある。
玖賀耳之御笠は、丹後の原住民の首領とおもわれる。

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青葉山 丹後と若狭に跨がる霊峰

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霊峰青葉山は、丹後と若狭に跨がる若狭湾で一番人気の高い山です。 標高は699mと、決して高い山ではありません。 登山口は、若狭高浜側から中山寺、高野、今寺の三カ所、それと東舞鶴の松尾寺からとの四カ所が あり、今回は高野からと今寺からの登山口 の二カ所 から登山しました。 つまり、二回往復した事になります。 車で、松尾寺側からの登頂を目指していましたが、道路が土砂崩れの為、通行止め。 若狭高浜側か らの登山口を目指しました。
写真は、福井県高浜から。
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こちらの写真は、舞鶴側です。
二つ峰があるのがわかります。
左側が青葉神社西権現のある西峰、右側の峰が東権現のある東峰。
真ん中が県境です。
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登山口からの登りは、比較的楽で、静かな森の中を淡々とのぼります。
途中、展望台からの若狭湾が美しい。

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結構な岩場があり、その下は絶壁。


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東峰山頂には、青葉神社東権現があり、ここから少し下ると、岩場に出る。
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こんなロープの岩場の下は落ちたらお陀仏です。
続きは明日。

登頂日 2011年9月8日

青葉山にはこんな伝説があります。

青葉山の土蜘蛛伝説

崇 神 天 皇 の ころ、その青葉山には土蜘蛛が住んでいた。
頭は、 “陸耳の御笠”といい、それはそれは恐ろしい形相 をしていた。
その頭を先頭に、土蜘蛛たちは山か ら降りては田畑を荒らしたり、家に入っては物を 盗んだりと、村人たちを困らせていた。
このことを知った天皇は、弟の日子坐王を呼ん でいった。
「青葉山の土蜘蛛が村で悪さをしていることは、 そなたも知っておろう。
何とか討ち捕らえてはく れぬか」 土蜘蛛退治を命じられた王は、すぐさま青葉山へ と向かっていった。
するとどうであろう。王が山のふもとに着くと すぐに、あたりには異変が起こりだした。
地面や 山はごうごうと音をたてて揺れ、天からは神聖で 荘厳な光がさし始めた。
「ま、まぶしい…」 あまりのまぶしさに、土蜘蛛たちは目も開けてい られない。
頭の陸耳は驚き、ころげるように山を 下り逃げだした。
それからどのくらいたったろう か。後を追いまわした王は、ついに陸耳を退治し た。 それ以来、青葉山のふもとの人々は穏やかに暮 らしたそうだ。
『若狭高浜むかしばなし』

比沼麻奈為神社 元伊勢参拝第十一番

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今回は、伊勢神宮外宮の元宮である比沼麻奈為神社のご紹介。
豊受大神のお膝元といえる元伊勢伝承地で、
鳥居は神明鳥居。すなわち伊勢鳥居です。

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由緒等

遠き神代の昔、此の真名井原の地にて田畑を耕し、米・麦・豆等の五穀を作り、又、蚕を飼って、 衣食の糧とする技をはじめられた豊受大神を主神として、古代よりお祀り申しています。
豊受大神は、伊勢外宮の御祭神で、元は此のお社に御鎮座せられていたのです。
即ち此のお社は、 伊勢の豊受大神宮(外宮)の一番元のお社であります。
多くの古い書物の伝えるところによれば、崇神天皇の御代、皇女豊鋤入姫命、 天照大神の御神霊 を奉じて大宮処を御選定すべく、丹波国(現在の丹後国)吉佐宮に御遷幸になった時、 此処にお 鎮りになっていた豊受大神が、天の真名井の清水にて作られた御饌を、大神に捧げられたと、伝え られています。
その後、天照大神は、吉佐宮を離れて各地を巡られ、現在の伊勢の五十鈴の宮(内宮)に御鎮座に なりました。 その後、五百六十余年過ぎた頃、雄略天皇の御夢の中に、天照大神が現れ給うて、 吾は此処に鎮座しているが、 自分一所のみ居てはいと苦しく、其の上御饌も安く聞召されぬ、 つ いては丹波国比沼の真名井原に坐す吾が御饌の神豊受大神をば、吾許に呼寄せたい、と言う趣の御 告げがあった。
そこで天皇は、大佐々命を丹波国に遣わし、現在の伊勢国度会郡山田原の大宮 (外宮)に御鎮座あらせられたのが、 雄略天皇二十二年(西暦四百七十八年)九月のことであ り、跡に御分霊を留めておまつりしているのが此の比沼麻奈為神社であります。
古書の記録によりますと、崇神天皇の御代、山陰道に派遣された四道将軍の丹波道主命は、 その 御子、八乎止女を斎女として厚く奉斎されており、延喜年間(西暦九百年)制定せられた延喜式の 神祇巻に、 丹波郡(現在の中郡)九座の中に、比沼麻奈為神社と載せられている古いお社で、此 の地方では昔、 「真名井大神宮」とか「豊受大神宮」と呼ばれていたようで、古い棟札や、鳥居 の扁額などにそれらの社名が記されて居り、 丹後五社の中の一社として地方の崇敬厚く、神領三 千八百石あったとも伝えられています。
尚、藩主京極家は懇篤な崇敬を寄せられ、奉幣や社費の 供進をせられた事が、記録に見えています。 社殿は、伊勢神宮と同じ様式の神明造りで、内本殿は文政九年の建立、外本殿及び拝殿は、 大正 九年から同十一年の長期に亘り、氏子はもとより、数百名の崇敬者の浄財により完成したもので、 棟の千木、勝男木の金色は、春の青葉、秋の紅葉を眼下に亭々と聳える老杉の中に燦然と輝き、 自から襟を正さしめる幽邃な神域であります。



※豊受大神(とようけおおかみ)、=豊宇気毘売神

豊受大神の「ウケ」「ウカ」は、食物の意味で、豊受とは、豊かな食物の神様という意味だと考え られる。 丹後、羽衣天女伝説の豊宇気毘売神は、イザナギ神とイザナミ神の生前に生まれた十二番目番目の 神である和久産霊神(わくむすびの神)の御子として誕生した神である。

ある日、雄略天皇の夢枕に天照大御神が現れ、「私は一人なので、 毎日の食事に困っている。 丹波 比沼麻奈井にいる豊宇気毘売神を自分のそばに呼びなさい」と言った。 天照大御神の願いを叶える為に、天皇は慌てて伊勢の山田原に社を建て、丹波(丹後)の【マナ イ】から豊受大神を伊勢神宮外宮に移したのである。 これが伊勢神宮外宮の始まりで、現在でも外宮では毎日の朝と夕の二回、「おおみけ祭」が行わ れ、天照大御神に食事が供されている。

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神明鳥居からの参道は、いつも大変美しく清掃され、素晴らしいの一言。
丹後、豊受大神という女神様に出逢えそうな気持ちになる。
パワースポットを感じる神域である。

神明造りの本殿と拝殿。
本殿のほうが少し大きく造られている。
狛犬も可愛くてユニークだ。

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御祭神
本社
豊受大神(とようけのおおかみ)
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
天太玉命(あめのふとたまのみこと)
末社
稲荷神社 倉稲魂大神(うかのみたまのおおかみ)
佐田神社 猿田彦命(さるたひこのみこと) 祖霊社 氏子の祖霊

丹後八姫 羽衣天女伝説

伊勢神宮外宮にお祀りされる羽衣天女、豊受大神のお話。

伊勢神宮外宮にお祀りされている豊受大神は、丹後の祭神、豊受大神(とようけおおみかみ)の事である。
天照大神が、伊勢神宮に鎮座され、「丹波(古代丹後、丹波、但馬の三国の事)にいる豊受大神を呼びなさい」と、言い、丹後から伊勢神宮に祀られた神が豊受大神である。
古代史を知る上で、大変重要な神であり、日本建国、大和朝廷成立について深い意味を持つ。
尚、伊勢神宮、外宮の神職である 度会家行 が起こした 伊勢神道 では、豊受大神は 天之御中主神 ・国常立神 と同神であっ て、この世に最初に現れた始源神であり、豊受大神を祀る外宮は天照大神の内宮よりも立場、神格が上であるとされている。
つまり、古代において、天皇家の皇祖神より、丹後の神のほうが神格が上とされている。
大和朝廷成立時の丹後の位置づけの重要なキーワードになる。
この事を念頭に入れて読んで下さい。


磯砂山661mの羽衣伝説。


「丹後風土記」(715年)に、 日本最古の羽衣伝説の話がある。これは、豊受大神の話でもある。

「丹後の比治の山(磯砂山(いさなごさん))の頂上に真奈井(まない)という池(女池)がある。
この池に八人の天女が舞い降りて水浴びをしていると、里人の和奈佐という老夫が一人の天女の 衣を隠し、無理に連れて帰ってきた。 一緒に暮らして十年あまり、万病にきくという酒を天女が上手に作り、 和奈佐の家は栄えていっ た。
しかしだんだん天女が邪魔になり、家から追い出した。
天女は泣く泣く荒塩の村(荒山)にたどりつき、のち哭木(なきき)の村(内記)から舟木の里の奈具 の村(弥栄町奈具)に落ち着いた。」 この天女とは豊宇賀能売命(とようがのめのみこと)つまり、豊受大 神(とようけのおおみかみ)のことである。
弥栄町の奈具神社、峰山町の 比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)で祀られる。
その後、伊勢神宮の外宮に移し祀られる事になったが、分霊は残されている。


伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)では、 雄略天皇 の夢枕に 天照大神 が現 れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬまの まない)にいる御饌の神、豊受大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せな さい」と言われたので、丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたとされている。即 ち、元々は丹波(丹後)の神なのである。
※713年、丹波国が分国されて、丹後国となった。それまでの丹波国の中心部は、丹後であった。
峰山に丹波という地名があり、古代の中心部と言われている。


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日本最古の羽衣伝説  丹後風土記  原文

比治の真奈井 奈具の社 (丹後の国の風土記に曰ふ) 丹後の国。 丹波の郡。 郡家の西北の隅の方に比治の里あり。
この里の比治の山の頂に井あり。その名を麻奈井と云ふ。今は既に沼と成 れり。
この井に天つ女八人降り来て浴水む。時に老夫婦あり。その名を和奈佐 老夫・和奈佐老婦と曰ふ。この老らこの井に至り、窃かに天つ女一人の衣 と裳を取蔵しつ。即ち衣と裳あるは皆天に飛び上がり、ただ衣も裳もなき 女娘一人留まりぬ。身を水に隠して独懐愧ぢ居り。 ここに老夫、天つ女に謂りて曰はく「吾に児なし、請はくは天つ女娘、 汝、児とならむや」といふ。天つ女、答へて曰はく「妾独人間に留まり ぬ。何か従はずあらむ。請はくは衣と裳を許したまへ」といふ。老夫、曰 はく「天つ女娘、何にそ欺く心を存てる」といふ。
天つ女、云はく「そ れ、天つ人の志は信を以ちてもととせり。何そ疑ひの心多くして衣と裳を 許さざる」といふ。老夫、答へて曰はく「疑多く信なきは率土の常なり。 故、この心を以ちて許さずあり」といひ遂に許せり。
即ち相副ひて宅に往 き、即ち相住むこと十余歳になりき。
ここに天つ女、善く酒を醸せり。一坏飲めば吉く万の病除かる。その一 坏の直の財、車に積みて送れり。
時にその家豊かにして土形も富みき。 故、土形の里と云ふ。
これ中間より今時に至るまで便ち比治の里と云へ り。 後に老夫婦ら、天つ女に謂りて曰はく「汝は吾が児に非ず、暫く借りて 住めり。宜早く出で去きね」といふ。
ここに天つ女、天を仰ぎて哭慟き、 地に俯して哀吟き、即ち老夫らに謂りて曰はく「妾は私意を以ちて来れる には非らじ。
こは老夫らが願へるなり。何にそ厭悪の心を発し忽に出去之 痛あらむ」といふ。
老夫、増発瞋りて去くことを願ふ。
天つ女涙を流し微門の外に退きぬ。郷人に謂りて曰はく「久しく人間に 沈みしに天にえ還らず。
また親もなき故、由る所知らず。吾や何哉、何 哉」といふ。
涙を拭ひて嗟歎き、天を仰ぎて歌ひて曰ふ、 天の原 振り放け見れば 霞立ち 家路惑ひて 行方知らずも 遂に退り去きて荒塩の村に至りぬ。即ち村人らに謂りて云はく「老夫老 婦の意を思ふに、我が心は荒塩に異なることなし」といふ。仍ち比治の里 なる荒塩の村と云ふ。
また丹波の里なる哭木の村に至り、槻の木に拠りて 哭きき。故、哭木の村と云ふ。
また竹野の郡船木の里なる奈具の村に至りぬ。即ち村人らに謂りて云は く「此処に我が心なぐしく成りぬ。古事に平けく善きことを奈具志と曰 ふ」といふ。乃ちこの村に留まりつ。こは謂ゆる竹野の郡の奈具の社に坐 す豊宇加能売の命そ。


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磯砂山山頂の羽衣天女である。
丹後の羽衣天女は、朝鮮の民族衣装、チョゴリである。
朝鮮半島からの、稲作と酒造りの話のようにも見える。
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磯砂山山頂までの登山口は、峰山町鱒留側からと
大宮町常吉からとがあるが、どちらからも約1000段の階段を登る。
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磯砂山の近くに、天女が水浴びした女池がある。
神秘的な沼で、正に天女の池といえる。


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乙女神社と天女の里

丹後には、日本最古の羽衣伝説がある。
《丹後風土記》の羽衣伝説と、ここに紹介する伝説。。
まずは峰山町大路の羽衣伝説です。

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乙女神社



御祭神: 本社 豊宇賀能賣神(とようかのめのかみ)
末社 八柱神社 豊受大神(とようけのおおかみ) 御伴神(おともがみ) 吉野神社 大山祇神(おおやまつみのかみ) 火産霊命(ほむすびのみこと)

由緒等: むかし、比治の里に三右衛門(さんねも)という狩人が住んでいました。 ある日、三右衛門はいさなご山の頂の池で水浴する八人の天女を見かけ、その羽衣の一つをかく しました。 三右衛門は羽衣を隠された天女を連れて帰って妻とし三人の娘をもうけました。 天女は農業や養蚕、機織り、酒づくりが上手で、この家はもとより比治の里はたいそう豊かにな りました。 しかし、天恋しさにたえかねた天女は、三右衛門の留守に娘たちからかくし場所を聞き出し、 大黒柱の穴にあった羽衣を身につけると、外からかけ戻った三右衛門「七日七日に会いましょう。 」と再開を約して大空に舞い上がっていきました。 乙女神社は、天女の娘の一人が祀られており、御参りすると美女が授かると言われています。 ≪案内板「羽衣伝説と乙女神社」より≫

《中郡誌稿》

乙女神社 (丹哥府志)乙女大明神、風土記に所謂天女八人の一なり (五箇村誌草稿)乙女神社、大路、田畑(たなばた)神の姉天女八人の内の一人 熊野郡より来る内殿は名工岡田藤四郎の作なり (五箇村誌草稿)岡田藤四郎氏 大路の名工乙女神社の奥殿を作る結構緻密行 人の此社を過ぐるもの皆之を賞すといふ死後家に社殿の雛形を見る今ありや なしや五箇校の成るや六ケ敷合せ口など皆氏の力によるといふ

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遠くに見えるのが磯砂山(いさなごさん)
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羽衣天女

伝承地 峰山町大路

昔む かし、 大呂に 三ネモ という 若い猟 師がい た。あ る夏の 暑い日に、足占山(磯砂山)に登った。その頂 上付近には池があって、その近くの木の枝に、 見たこともない、きれいな着物がかけてあっ た。三ネモは正直者で、他人の物など盗んだこ とはなかったが、あまりきれいなので、持って 帰りたくなった。そこで、手で取るのは悪いと 思い、鉄砲の先に引っかかったようにして取 り、大急ぎでわが家に帰って、その着物を隠し た。 その池で泳いでいたのは天女であったが、水 から上がって着物を着ようとすると、着物がな かった。そこで、三ネモを調べてみようと思っ て、きれいな娘に化け、彼の家にやって来て、 「家に置いてくれ」と頼んだ。三ネモは一人暮 らしてあったし、きれいな娘でもあったので、 彼女を家に置くことにし、嫁になってもらっ た。天女は家の中を調べてみたが、羽衣は見当 らない。そのうちに子供ができて、三歳にも なった。 ある日、天女が子 供に「お父さんは毎朝 どこを拝んでいるの か」と尋ねると、子供 は床の柱だと教えた。 そこで、天女は、三ネ モが出かけた後で床の柱をよく調べてみると、 柱の下のところに埋め木がしてあった。不審に 思い、それを外してみると、中には羽衣が入れ られていた。天女は、これさえあれば天に帰れ る、と喜んで「もしわたしに会いたいなら、千 荷の堆肥の上にこの種を播き、蔓が伸びたら、 それを伝って来てほしい」と書き置きをして、 羽衣を着て天に帰っていった。 仕事から帰ってきた三ネモは、天女だったら なおのこと別れてなるものか、と、村人たちに 頼んで千荷の堆肥を積み重ね、天女が残した種 を播いた。すると、ほどなく芽が出て伸びてゆ き、雲よりも高くなった。そこで、三ネモがそ の蔓を何日も何日も上って行くと、とうとう天 上に着き、天人たちに迎えられた。彼は、「瓜 畑の番をしてほしい。しかし、いく ら瓜が赤くなっても食べてはいけない」と言わ れ、毎日瓜の番をしていた。すると、たく さんの瓜があまりにおいしそうに成っているの で、彼がとって食べていたら、にわかに大 洪水が起こって流されてしまった。それを見 て、天女は「七日、七日に会おう」と叫んだ が、悪魔が「七月七日に会おう」と取り次い だ。 それ以来、天女は、年に一度、七月七日の夜 に三ネモと会うことになった。また、三ネモの 流された川は、天の川として、今も天に残って いる。大呂の家には、残された子供の子孫が今 も続いている。 (『丹後の民話』第二集)

この子孫のお宅は今でも続いており、
大呂の安達家で、安達家の家紋は、丸に七夕という、珍しい家紋だそうです。

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四辻の八幡宮(よっつじの八幡さん)

四辻(地元ではヨッツジと発音する)の八幡さんは、 与謝野町市場地区最大の神社である。 宝泉寺横の長い石段を上っていくと、境内が一気に開け、地元の氏神様としてはスケールの大きさに驚く。参道正面に拝殿があり、その後ろに本宮が鎮座する。 左側の恵比寿神社が一番古いそうなので、出雲の神が祀られていたのだろう。 この恵比寿神社の狛犬ならぬ狛鯛が何ともユニークだ。 恵比寿神は大きな鯛を抱えたふくよかな神様で、大漁守護、商売繁盛、家運隆盛の福の神として人 気が高い。 イザナミの神とイザナギの神が最初に生んだ神である。 しかし、その身体には骨が無かったので、船に乗せて流してしまった。なので、水蛭子神(ひるこ のかみ)ともいう。 《源平盛衰記》によると、流された水蛭子神は、摂津国の西宮に流れ着き、漁師の戎三郎と名乗 り、神となったという。

本殿は当然八幡宮なので、応神天皇、神功皇后、武内宿禰(たけうちのすくね)である。 神功皇后と仲哀天皇の子供が応神天皇であるはずなのだが、神功皇后と武内宿禰の不倫の子と いわれる。

八幡宮は、元々は、主に中世の武士に信仰された神で、応神天皇を祀る。 《後三年の役》という戦に勝利して、清和源氏を発展させた源義家が、石清水八幡宮の社前で元服 して「八幡太郎」と名乗った。 これにより、八幡神が武士の源氏の守り神として信仰され、やがて武士全体の守護神となった。

9月のお祭りは 何故か雨の日が多く、「雨の八幡さん」といった。
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御祭神: 本社 誉田別命(ほむたわけのみこと=応神天皇) 神功皇后(じんぐうこうごう) 武内宿禰(たけのうちのすくね)
末社 恵比須神社 事代主神(ことしろぬしのかみ)
五社 天満大神(てんまんおおかみ) 春日大神(かすがのかみ) 天照皇大神宮(あまてらすこうたいじんぐう)
明治神宮(めいじじんぐう) 保食大神(うけもちのおおかみ)
愛宕神社 火産霊神(ほむすびのかみ)
岩国稲荷神社 保食神(うけもちのかみ)

由緒等:創祀年代不詳。弘仁六年四月十五日嵯峨天皇御自作の御神像を奉勧請せりとて例祭には「さが踊 り」の奉納が明治初期まであった。 神徳 武運長久 定産 家業繁栄 家内安全 神紋 竝矢 社宝 石燈篭 永和四年奉献(南北朝時代) 八幡山は里の中央に押し出された独立した典型的な丘状である。そして氏子の住居で鎮守の森を周 囲万遍なく 取り巻き護っていると云う環境である。四辻特有の一種美の材料で氏子総がかり各 町内に「造り物」“だしもの”を造り参詣者を楽しませたが、 昭和三十年頃より中座している。 ≪平成祭データより≫

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《丹後府志》1761年によれば、戦国時代、 四辻亀山城に荻野悪右衛門景光が居りて幾地に石川左衛門尉及其の 子文吾 秀澄、次男五右衛門が城砦を構え、当四辻八幡山の陣館には赤井五郎之に拠る、 叉は荻野の臣赤井 平治とも云ふ。

註、古文書によると荻野家は始め丹波の大名であったが、戦国となって、赤井家と確執、 同地方大 名波多野氏が和解につとめその後共に織田氏の先鋒明智氏に追われ、一色に依りて、此城を領有し た同記に「女子、波多野右衛門輝秀室亀山城主遠江守秀尚也、景直母方之叔父於殺、 呼号悪右衛 門」とあり。 このように四辻郷土史によると、戦国期、元々丹波の赤井一族が丹後に入国し、 八幡山の境内付近 に陣館を構えたとあるので、八幡山が四辻城であった可能性もある。 または背後の山が四辻城で、 住んでいたのが八幡山だったのかもしれない。 因みに赤井一族の末裔が、この付近の安田家であるとされ、数件の安田家には由緒書や系図があ る。
四辻亀山城はどこにあるのか不明だが、石川の亀山城は、城主石川浄春斉である。

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「室町時代の石灯籠」

四辻区にある八幡神社の長い階段を上がった右手に、石製の玉垣に囲 まれた古い石灯籠があります。 この石灯籠は、高さが248センチあり、材質は安山岩製で、灯籠の 頂部の高い請(うけ)花(ばな)と長い茎を持った大きな宝珠(ほうじゅ)がか たどられているのが特徴で、「丹後型灯籠」と呼ばれています。加悦の 天満神社にも丹後型の石灯籠がありますが、やや趣きが違うようです。 竿(さお)には刻銘(こくめい)があり、『八幡宮石燈爐』『永和22年戌 午/匡頓/卯月18日願主』と読め、永和4年(1378)に作られた ことがわかります。室町時代の貴重な工芸品です。 600年を超える長い年月の間、暗闇の中、明かりを灯してきたこと でしょう。

八幡神社 石灯籠【はちまんじんじゃ いしとうろう】 ■時代 室町時代 永和4年(1378) ■場所 与謝野町字四辻 (八幡神社境内) ■指定等の状況 国重要指定文化財/工芸品 (昭和38年7月1日指定)

与謝野町教育委員会

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享保年間(1720年頃)当四辻村の竹屋徳左ェ衛門夫妻は、 予て伏見稲荷の信奉者であった。 ある日夫妻は同じ夢を見た。 その中に白狐が現れ「私は中郡のものだが、伏見稲荷に使いに行き、その帰り道、 与謝峠で猛犬に 襲われて首に傷を負い此処まで逃げてきたが、この傷では生き延びられそうもない。 日頃信心深い貴方がたの屋敷の一隅を借りて死を迎えたい。 後々私の霊を供養してくれれば、その功徳に報いる為、人助けをしたい。 祠を建ててその回り に茶の木を植えて下さい。 その茶を飲めば、子宝に恵まれ安産できる他、万病に効くでしょう」と言って消えた。 夫婦が外に出てみると蔵の前に正に白狐が死んでいた。 夫婦は、夢と現実 の神秘に驚き早々にその所有地の《こてんじ》に葬り祠を建ててその回りに茶の木を植え大切に育 てた。 その約六十年経た寛政元年に伏見稲荷の摂社岩国稲荷の後分霊を勧請し、後、現地に移して今に及 んでいる。とある。

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八幡神社末社恵比須(えびす)神社の本殿」

四辻地区のほぼ中央に位置する八幡神社の境内に、恵比須神社の本殿 があります。境内社のうち、最も古い建物です。 恵比須神社の本殿の創建の由緒については分かっていませんが、一説 に、「現(八幡神社)本殿を明治20年(1821)に新築したとき、 旧本殿を曳き移して恵比須神社本殿とした」と地元で伝えられ、八幡神 社の本殿の前身ではないかという考えもあります。 本殿は、八幡神社境内の西、五社神社と並んで東を向いて建っていま す。構造形式上も隅木入(すみきいり)春日造(かすがづく)りという類例の 少ない神社建築で、形式細部の手法の質も高く、神社建造物として歴史 的文化的な価値が高く優れた建造物と評価されています。 本殿の建立年代は、江戸時代中期(17世紀後半)で、内陣(ないじ ん)の扉板の裏には文化9年(1812)新調との墨書きが残り、屋根葺 き替えが行われたとの記録があります。近年にも自然災害により被害を 受けていますが、復旧に当っては可能な限り古材を再利用して原型を保 持しており、貴重な文化財を後世に残そうとする地元住民の努力が伺え ます。 本殿前には、珍しい「鯛」の狛犬が置かれており、恐らく、縁起の良 い「七福神の恵比須さん」にちなんで、作られたようです。 例年、4月の最終日曜日には加悦谷祭りが行われ、ここ八幡神社で は、本殿前で神楽が奉納されています。

恵比須神社本殿【えびすじんじゃほんでん】 ■時代 江戸時代中期 ■場所 与謝野町字四辻1番地 (八幡神社境内) ■指定等の状況 与謝野町指定文化財/建造物 (平成8年4月23日指定)

与謝野町教育委員会


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伊久知城(幾地城)の調査 1 石川五右衛門伝説の城

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上の写真は、山頂本丸?からの大江山

伊久知城(幾地城)

・場所 与謝野町幾地城山
・築城 不明、1500年頃と言われている。 ・落城 天正10年10月1日(1582年)
・標高 110m ・占地 山頂
・城主 石川氏、のち坂根氏 ・遺構 曲輪、帯曲輪、切岸、堀切、大手道、虎口

下の写真は、幾地集落からの登山口。
そのまま真っ直ぐに直進する道が大手道である。
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伊久知城跡は、与謝野町幾地の北方にある城山に位置する。 臨済宗養源院の斜め裏になる。

城主は、郷土史によると、丹後一色氏の被官、「国の奉行」石川直経の嫡統系の石川氏である。 (石河氏とも書く)

天正期における城主は、《一色軍記》《丹後旧事記》《丹州三家物語》などによると、石川左衛門 慰秀門、赤井五郎となどの名前が見えるが、丹後の石川氏について、《 丹後国田数帳》に石川中務 の名前があるので、こちらとも関係があるかもしれない。 《百鳥講古文書》《坂根家古文書》によると、石川左衛門とある。

幾地、隣接する四辻地区は、古来より加悦谷地区の重要な要所であり、戦国時代、 但馬国との国境 でもあることから、加悦谷一帯を支配する石川氏一族の重要な城である。
石川氏については、「丹後の戦国時代」に詳しくかきました。

主郭部分には、稲荷神社が祀られている。
山城によく見られる光景である。
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約400坪ある城郭は、中規模ながら、西尾根側に曲輪が連結状に広がり、下の城下町に向かう二本の南東、南西の尾根筋にも 大小の曲輪が連結されている。 幾地は元々小さな集落と思っていたが、府史跡の中世地蔵山遺跡などもあり、 意外と発展していた のかもしれない。 加悦谷地域には、石川一族の城として、石川城、安良山城、亀山城、金屋城、滝城などがあった。 幾地城も、出城ながらこれだけの城郭が築けたのは、《国の奉行》石川氏の勢力の大きさ充分が 窺えるものである。

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大手道は、手入れがしていないため、かなり荒れてはいるが、
まだしっかりとのこっていた。
暫く登れば、右手に三連結された曲輪がある。

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曲輪は、倒木などでかなり荒れている。
今回紹介するのは、南東側の三連曲輪である。
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有名な細川幽斉、忠興による一色義俊謀殺事件により、石川左衛門、坂根伊津紀(斎)も同じ運命の道を 辿る。 石川氏家臣坂根道秀(二代目斎)が城主となっていたが、1582年(天正十年十月一日)、 細川 軍により攻められ落城したと伝わる。 城跡には城山主郭付近に幾浦稲荷が祀られている。 山城にある稲荷神社の場合、単なる農耕神ではなく、守護神として祀られていた可能性が高い。

機会を見て、伊久知城(幾地城)はもう少し調査を進めていく。

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曲輪から少し左側に登ると、稲荷神社の鳥居が見える。
この辺りが虎口である。
次回は、主郭から二の丸、三の丸、南西側の曲輪を調査したい。
プロフィール

南方系海人

Author:南方系海人
ブログへようこそ!
古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
間違えた認識もあるかと思います。
自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

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