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丹後一の宮籠神社 元伊勢参詣第十番

大和笠縫邑から移動し、丹後の元伊勢、興佐宮のご紹介です。
まずは丹後一の宮籠神社です。
丹後の古代史を知る上で、重要な神社であり、とても一回では書けません。
日本の古代史家で、知らない人はいないだろう。

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籠神社

伊勢神宮元宮(古称與佐宮) 延喜 式内 山陰道一之大社

丹後國一宮 籠神社

御祭神 彦火明命 (元伊勢一の宮) (天照御魂神)

相殿 天御中主神 天照大神 (豊受大神)

海神 天水分神 (豊玉姫命) (水神) 例祭 四月二十四日 葵祭ト称ス 摂社(奥宮)眞名井神社 御祭神 豊受大神 相殿 伊弉諾尊 例祭 十月十五日

境内神社 蛭子社 春日社 天照皇大神社 猿田彦命社 寶物古文書 一、 藤原佐理郷筆額面勅額 重要文化財 一、 小野道風筆 額面 勅額 一、 蘭陵王古面 文蔵主作 一、 丹後國一宮深秘 建武年中書写 一、 籠名神社祝部海部直氏系図 國寶 一、 石造狛犬二基 鎌倉時代建造 重要文化財

-境内案内より-

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元伊勢籠神社のしおり

神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮眞名井原に豊受大神をお祭りして来ましたが、その御縁 故によって人皇十代崇神天皇の御代に天照皇大神が大和国笠縫邑からおうつりになって、之を與 謝宮(吉佐宮)と申して一緒にお祭り致しました。その後天照皇大神は11代垂仁天皇の御代 に、また豊受大神は21代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢におうつりになりました。それに依っ て当社は元伊勢と云われております。両大神が伊勢にお遷りの後、天孫彦火明命を主祭神とし、 社名を籠宮(このみや)と改め、元伊勢の社として、又丹後国の一之宮として朝野の崇敬を集め て来ました。
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建築様式

籠神社の社殿は神明造りである。
鳥居も伊勢鳥居。
江戸期、神明造りの社は、は伊勢神 宮と籠神社以外には見られなかった。
本殿の勝男木は十本、千木は内そぎで、心御柱がある。
本殿高欄 には五色の座玉と呼ばれる宝玉がかざられており、これも伊勢神宮以外に は見られないものである。

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成相寺 撞かずの鐘

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成相寺の由来と伝説

真応上人が霊地を求め諸国を旅していたが、この地の風景に惹 かれて庵を結び修行していたところ、慶雲元年(704年)のある 日、老人が現れ観世音菩薩像を置いて立ち去った。上人はこの像 を安置するための堂を建てたのが寺の創始とされているようであ る。 大雪の続いた冬のある日、食べ物はなくなり上人は餓死寸前で あったが、そこに一頭の傷ついた鹿が現れた。肉を食べてはなら ないという戒律があったが、命には代えられず、その鹿の肉を煮 て食べた。上人は食べてから、鹿の肉と思ったのは本尊の腿の木 片であることに気付き、観世音菩薩が身代わりになり助けてくれたことを知った。 上人は喜び、木片を観世音菩薩の腿につけると像は元通りになったという。これが成相(合) 寺の寺名の由来とされている伝説である。

慶長十四年(1609年)、お寺で新しく鐘を作ることになり、 村人から寄付を募りました。 一回、二回と鋳造に失敗し、三回目の寄進を募ったとき、 ある長者の妻はお金の代わりに自分の子供を寄進すると言って、寄付を断りまし た。 やがて鋳造の日、人々が見物に集まりました。 その中に例の長者の妻も子供を抱えて見物をしていました。 ところが長者の妻は誤って 煮えたぎるルツボの中に我が子を落としてしまったのです。 このような悲劇もありましたが出来上がった鐘は美しい音色を響かせていまし た。 しかし耳を澄ますと子供の泣き声のように聞こえたそうです。 人々はあまりの哀れさに子供の成仏を願って一切この鐘を撞くことをやめ、 それ以来「撞かずの鐘」と呼ばれるようになりました。   --成相寺hp--

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成相寺の撞かずの鐘

400年の時を越え 伝説の鐘が響く 宮津・成相寺で「撞かずの鐘供養」

約400年ぶりに打ち鳴らされた「撞かずの鐘供養」(宮津市成相寺) 日本 三景・天橋立近くにある 宮津市成相寺の西国第28番札所・成相寺で11日、 「撞(つ)かずの鐘供養」が行われた。 鋳造時以来約400年間、突かれることがなかった伝説の鐘が1日だけ復活、 境内一帯に時を超えた音を響かせた。 寺伝によると、江戸時代の初めに新鐘を鋳造。 乳飲み子が銅湯のルツボに落ちたまま完成した鐘を鳴らすと、 子どもの泣き声が聞こえたため、その成仏を願って突かれなくなった、とされ る。 今回、開山1300年の記念行事の一環として、 供養と鐘本来の時を告げる役目を再現しようと鐘突きが実現した。 この日午後、石坪昭真住職ら11人が参道脇の鐘堂前で読経。 この後、板張り、密封された堂内の鐘を 僧侶らが中に入って交代で打ち鳴らした。 午後2時半に3回、3時に3回、4時に4回、5時に5回。 「ゴーン」という鐘の音が周囲の山間にこだまし、 詰めかけた多くの参拝者や観光客らも静かに手を合わせていた。 この鐘は12日から再び100年間封印され、「撞かずの鐘」に戻る。 (京都 新聞) -

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成相寺修行僧の古道2 中野道

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まずは雪舟の天橋立図の成相寺の部分である。
この天橋立図は、国宝で、現在、京都国立博物館に展示されている。
室町中期の作品である。
下の写真は、桃山時代の成相寺参詣曼荼羅である。
現在の成相寺より、格段に規模が大きく、沢山の建物がある。

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今回紹介する古道は、少し西寄りの中野道である。
この道も現在でも機能している奈良時代からの主要道である。
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成相寺は、成相寺古記によると、704年に建立されてから、精舎、舞台、鐘楼、五重塔、三重塔、多宝塔、阿弥陀堂、薬師堂、地蔵堂、惣門などがあった。
しかし、1400年に山が崩れ、本堂が倒壊し、再建されている。
参詣曼荼羅は、境内再建後の資料として、貴重である。
中野道は、本坂道ともいわれ、中世の、主要ルートである。
途中、お地蔵さんや、道しるべのような石仏、石造物を見かける。

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途中からは、道に草が茂り倒木もあり、道も荒れ放題であるが、バス道に辿り着ける。

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成相寺修行僧の古道 大谷道

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成相寺の古道の大谷道に向かう。
府中のお土産屋街の坂道を歩き、笠松公園行きのケーブル、リフト乗り場横に、
登山道がある。
笠松公園まで、綺麗な階段となっているが、よく滑るので、注意。

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整備された階段の大谷道は落ち葉が蓄積されてはいたが、 約1キロメートルも登れば、笠松公園に 到着する。 先程までの薄暗い階段状の歩道から一気に開ける。 流石に日本三景の一つだけあって、素晴らしいロケーションである。 運良く?大雨洪水警報の出た、嵐の翌日だったので、野田川の土砂が内海の阿蘇海に流れ込み、 内 海はかなり濁っていた。 外海からの潮の流れで、このような野田川から流れてきた土砂がぶち当たり、砂州が出来、 現在の ような天橋立が出来たのである
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天橋立を境に、水の色が違うのが解る。
いつもは、とても綺麗なので、貴重な一日であった。
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ここからさらにバス道を2km程度登れば
山門に出る。

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西国二十八番成相寺

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成相寺


西国二十八番成相寺は、天橋立を望む成相山の中腹にある。 元々は、日本古来の山岳宗教の修練場であった。
今でこそ、ケーブルやリフトに乗り、バスに乗り継げば簡単に本堂まで行くことが出来るのだが、 昔の修行僧は、海岸沿いにある寺院から毎日歩いて登った。
現在の本堂は、標高約350m付近にあるが、昔はもっと上部に位置していた。 日本全国にある五つの【聖の住む所】として信仰されてきた。
成相寺は、 慶雲元年(704年)に、真応上人が創建した。 元々は、高野山真言宗の寺院である。現在は橋立真言宗となっている。


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今回は昔、中世の修行僧が毎日登った道を自分でも歩いてみた。 八世紀には、海岸沿い(内海の阿蘇海)に国分寺をはじめ、沢山の寺院があったので、このあたりから登ったと思われ る。

当時は、西谷道、小松道、中野道、大谷道、真名井道の五つの道があったといわれるが、 真名井道 と小松道以外は、現在でも当時からの道しるべもあり、一応、機能しているようだ。
成相寺は、南北朝、戦国期において、激しい戦乱の場になっていた為、一時は 城として利用され ていた。 守護一色氏、守護代延永氏、若狭武田氏、国人石川氏などの有力武士が合戦をし、多くの武士が流血戦を繰り広げた。
今回は、大谷道から本堂まで登り、下りは阿弥陀ヶ峰城跡から右折し、中野道を下るルートをとっ た。 地図の他、スマートフォンのマイトラックというナビを使用したが、 予想以上に正確で、本格的な山岳以外であれば、もはやスマートフォン一台あれば、 地図もコンパスも不要と思われた。
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成相寺五重塔

平成12年(2000年)開基1300年を迎えるにあたり、五重塔が復元された。
平面は方三間,高さは百八尺(約33m)。
木造で、とても美しい。秋の紅葉シーズン、厳冬期の雪を被った時期にも訪れたい。
風や四天柱の突上げに耐えられるよう設計されて いる。
大災害をもたらした近年の台風のとき、周りの木々は倒れたが、五重塔は、しっかりと耐えた。
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成相寺に向かう中腹の笠松公園から、日本三景天橋立を望む。

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静御前 源義経の愛妾

静御前生誕の地、静神社 京丹後市網野町磯

NHKで放映中の大河ドラマ「義経」で網野町磯の漁村出身の静御前が、源義経の生涯の愛妾として登場した。
丹後八姫の一人として、観光のシンボルでもある。
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磯は、網野町浅茂川と浜詰を結ぶ細い峠道 の中間に位置する。
美しく青い海、昔ながらの田舎 の漁村は昔のままである。
そんな静かな 細い道の高台に 、英雄「義経」と共に歩む波乱の人生 牛若丸として有名な源義経との悲劇的な人生を送った静御前を祭る神社がある。
静神社には、静御前の木造が祀られている。
義経が磯豪族(惣太)にあてた手紙が残っていたという記録もあったが、こ の手紙の他、多くの遺品は、天明2年(西暦1782年)の大火で神社とともに焼失した。
現在 の静神社は、元の場所から西へ約200m離れた位置に建てられている。


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静御前は、源義経(幼名:あの牛若丸である)が生涯を通じて愛した女性である。
磯の小さな漁村より母(磯禅師)と共に上京した 静は白拍子を生業としていたが、義経と出逢い深 く愛しあうことで、英雄「義経」と共に、波乱の人生へと巻き込まれて いく。
網野町の磯で、禅師の娘として生を受けた静御前は、6歳で父を亡くしその まま母とともに京都へ上京し、京の地で、巧みな舞と美しさで静は指折りの白拍子に成長す る。

※白拍子とは平安時代末期から鎌倉時 代にかけての歌舞のことである。基 本的に漢詩や和歌に曲節をつけて歌 う「朗詠」に舞を合わせたもの。
白拍子の衣装は、水干(すいか ん)、立烏帽子(たてえぼし)、緋の長 袴(または水干袴)、単、懐刀(または 飾太刀)等を身にまとい、蝙蝠(かわほ り:扇子の一種)を手に持ったとされて いる。

静御前は、源義経(牛若丸)に舞姿を見そめられ、側室となった。
源義経は、 源義朝の末子で母は常盤。『平治の乱』で父を失い、母は 平清盛に身を委ねて乳飲み児の牛若 ら息子たちの助命を請う。父と慕っ た清盛が、実の父・義朝の敵だと 知る。

源平合戦で、異母兄の頼朝が挙 兵するとその軍に加わる。
兄の範頼 とともに東国武士を率いて上洛、木 曽義仲や平氏一門を追討した。
さらに当 時の合戦の作法を度外視した戦法に よって連戦連勝を収める。
しかし頼 朝の許可なく官位を受けた事により、頼 朝と不仲になり、一転、“悲劇のヒー ロー”となる。
兄の 源頼朝と対立した義経が京を落ちて 九州へ向かう際、静御前も同行する。
その時、義経の船団は嵐に遭難して岸へ戻されてしまう。壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした後、兄「源頼朝」に吉野に追われる。
静は義経の子を妊娠していて、頼朝は、女の子なら助けるが、男の子なら殺すと命じる。
静は男子を産んだ。安達清常 が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離さなかった。
磯 禅師が赤子を取り上げて清恒に渡し、赤子は由比ヶ浜 に沈められた。

吉 野で義経と別れ京へ戻るが、途中で従者に持ち物を奪われ山中をさまよって いた時に、山僧に捕らえられ京の北条時政 に引き渡され、 文治2年( 1186 年)3月に母の磯禅師とともに 鎌倉に送られる。

静御前は、鎌倉八幡宮にて時の権力者、源頼朝、政子夫妻の前で、歌を歌う。
義経への想いを、扇立烏帽子、太刀をはき、男装で舞ったのである 。

「吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき」
「しづやしづ賤のをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」

と義経への想いを詠んだ静御前の恋慕の歌を唄い、頼朝を激怒させたが、妻の 北条政子 が「私が御前の 立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けた。
『吾妻 鏡』では、静の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵(りょうじん)ほと んど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛している。


わが子を失っ た静御前は、禅尼となった母と共に、故郷の磯に帰された。
憐れんだ政子と 大姫が多くの重宝を持たせたという
生家跡に小さな庵を造り、こ の丹後の地から、
義経の無事と愛児の冥福を生涯祈り続けた。
静御前は、二十 余歳という若さでこの世を去った。

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丹波の名城 福知山城

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福知山城 


城の種別 平山城
築城時期 天正七(1579)年
築城者 明智光秀
主要城主 明智光秀、杉原氏、小野木氏、有馬氏、朽木氏
遺構 曲輪、石垣、井戸、移築現存番所、復原天守 と転用石の石垣


小笠原長清の後裔塩見大膳頼勝が横山城を築いた。
織田信長に丹波平定を命じられた明智光秀は、天正七( 1579)年六月、横山城の塩見大膳信房、八上城の波多野氏を降し丹波国を平定、 横山城を新たに福知山と命名し大改修した。
築城に当たっては、信長 の旧権力否定の表れといえる、付近の社寺の転用石( 墓石、五輪塔や宝篋印塔 など ) の多さに驚く。
山崎合戦で光秀とその一党は滅亡した。



光秀本人は主に亀山城を丹波での居城とし、 福知山城には甥の明智秀満を置いた。 光 秀は、娘の玉(ガラシャ夫人)を細川忠興にやり、細川氏の宮津城築城の際、大きく協力した。天橋立で遊興した記録もある。光秀は民政にも力を入れ、 地子銭免除や河川の改修などで、民衆の高い支持を得た。
江戸時代から御霊神社に祀られるなど敬慕され た。

天正十(1582)年六 月一日、
織田信長に羽柴秀吉の備中高松城攻めへの援軍を命じられた明智光 秀軍は、亀山城を進発した。光秀は 進路を京都に向かって取り、六月二日早暁に信長の居所である、本能寺に火を放ち襲撃、信長を自害に追い込んだ。
しかし、羽柴秀吉との山崎合戦で 光秀とその一党は 滅びた 。
山崎合戦後 、亀山城に羽柴秀勝 (信長四男秀吉の養子) が入り、福智山城は その支配下におかれた。
翌天正 十一年 杉原家次が 二万石で入った 。
家次が病死、天正十三年 ( 1585 ) 、秀吉の重臣 小野木重勝が三万石で入る。
慶長五年 ( 1600 ) 、 関ヶ原合戦に先立ち、小野木重勝 は 石田三成 )の 命により、徳川に味方した 細川氏の丹後田辺城攻めに 出陣した 。
ところが 、 関ヶ原の戦いで石田三成の軍は、大 敗 した。
福知山城にいた重 勝 は 、関ヶ原で 徳川方に属して戦った 細川忠興の軍勢に 城を囲まれ 降伏し、重勝は亀山城で切腹した。
関ヶ原の論功行賞で有馬豊氏が 福知山城主になった。米高 六万石である 。
有馬氏により、城下町が完成したと云われている 。
元和六年(1620) 、大坂の陣による戦功で有馬豊氏は 筑後 久留米に 転封 。
翌七年 に 岡部長盛 が 五万石で 藩主となった 。
三年後の寛永元年(1624)、稲葉紀通が四万五千七百石で藩主となる。
と こ ろ が 、 悪 政 者 で あ っ た為、民衆からの評判が悪く、隣の丹後宮津藩 京極家 ともいざこざを起こし、謀反の噂まで広がってしまった。
慶安元年 ( 1648 ) 八月二十日 、稲葉氏は、自殺 に追い込まれた。
慶安二年 ( 1649 ) 松平 忠房 が 四万五千九百石 で 藩主となる。
寛文九年 ( 1669 ) 忠房 が 肥前 島原 へ 移封 となり 常陸土浦藩主 朽木 稙昌 が 三万二千石 で 最後の藩主に赴任した。
以後 、 十三代 朽木氏 が 続き、明治維新を迎えた。
朽木さんは現在も続く名家である。


福知山城に並ぶ転用石。
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この墓石、五輪塔などの転用は、明智光秀の城のシンボルである。

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福知山城の井戸は、全国の中で、最も深いものである。
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平治峠のお地蔵さん 大宮町常吉

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与謝野町幾地と大宮町常吉の境界に、全高5,3メートル、京都府最大のお地蔵さんがある。
以前は、尼寺でもあった。

天保の頃、この地方に山賊が出没して、通行人や地域の人々を苦しめていた。天保三年、(1832年)当時の常林寺住職、月海龍吟は、衆生を救うため、多くの信者から浄財を求め、近くの谷より仏相をそなえた石を見つけ、樽留の石工、松助に依頼し、蓮華座の上に、一尺六寸の地蔵尊を建立した。
その功徳により、山賊は一人残らず退散した。
立像の石仏としては、京都府下有数のものであり、アザ取り地蔵としても、知られている。


この大きなお地蔵さんの少し横に安置されている女性?のお地蔵さん、お腹の上には赤ちゃんがいるし、いつ頃出来たのだろう。
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平地地蔵(京丹後市大宮町上常吉)―ふるさと昔語り(京都新聞2007-08-15)



◇一揆の首謀者慰霊

京丹後市大宮町上常吉の集落から少し外れた与謝野町との境目にかかる平地峠。

そのほぼ中央部の小高い山裾にある平智山地蔵院境内の一角に、穏やかな表情を称えて府内で最も背が高いといわれる「平地地蔵」が立ち、行き交う人々を温かく見守っている。

合掌する姿で、高さ5・3m。台座も含めると約7mもある。

文政5年(1822)冬、この地を支配していた宮津藩の重税などの圧政に耐えかねた農民が決起した「文政丹後一揆」が起きた。

「義を見てせざるは勇なきなり」と、3万人とも5万人ともいわれる農民たちを率いたとされ首謀者の一人、常吉村出身の吉田新兵衛は、その責めを受けて処刑された。一揆の11年後、新兵衛らの霊を慰めるた めに村などから集められた浄財で像は建立されたと伝わる。

それと共に、一揆の首謀者を弔う事ができなかった時代的な背景から、峠に出没する山賊を仏の功徳で退散させるとの名目で作られた、という説も地元には残る。

平地地蔵は当時、丹後一円に多くの作品を残した鱒留村(京丹後市峰山町鱒留)の石工、松助の代表作とされる。同市文化財保護課の橋本勝行技師は「立像の大きさと交通の要衝に建てられている事などから、信 望の厚かった人物像が浮かび上がる」と話す。

こうした村の歴史を伝え残す昔からの行事が、毎年7月23日夕方から営まれる「地蔵祭」。諸霊を慰める読経などで先人の苦労を偲ぶ。また、境内周辺には夜店が並び、静かな山里は今年も歌謡ショーなどが催 され、涼を求める参拝客らで賑わった。

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雪深い土地柄だけに毎年11月23日には、檀家世話人会が、藁で編んだ防寒用の頭巾と蓑を着せる。この「みの着せ行事」は、丹後の初冬の風物詩としても広く知られている。

世話人会代表の大木秋男さんは「先祖供養の意味もあり、大切な地域のシンボル。今は夏の盛りですが、今年も時期になれば春先までの約4か月間を温かく過ごしてもらえるように心を込めて蓑を着せたい」と語 る。

平地地蔵には口の右上に黒い斑点があり、「あざとり地蔵」とも呼ばれて親しまれている。転じて交通安全や安産など諸願成就の信仰を集め、近隣から参拝者も多い。また、世話人会が手編みで作る蓑と頭巾は計 約60㎏の重さ。約4か月間身に纏い、雪解けの春を待つ。



蓑着てぬくぬく 京丹後 平地地蔵が冬支度(京都新聞2007-11-23)

京都府京丹後市大宮町上常吉の平智山地蔵院で23日、府内一の高さで知られる「平地地蔵」に地元住民の手で、藁で編んだ防寒用の頭巾と蓑が着せられ、冬支度が整った。

与謝野町との境にあり、平地峠を見下ろす地蔵は、台座を含めて高さ5・3m。宮津藩の圧政に立ち上がった「文政丹後一揆」の中心人物で、処刑された地元出身の吉田新兵衛らの霊を慰めるため、天保3年(1 832)に村の浄財で建立されたと伝わる。安産とあざ取りの地蔵として信仰を集めている。

この日は、早朝から檀家世話人会(6人)が集合。地蔵に梯子をかけ、総重量約60㎏の頭巾と蓑を着せ付けた。大木秋男代表らは「これでお地蔵さんも安心して冬が越せます」と笑顔だった。

作業後は同院を管理する近くの常林寺で、地元児童が今秋出版された絵本『新兵衛じぞう』の朗読会を行い、郷土史への理解を深めた。

地蔵さんも防寒…京都・京丹後(読売新聞2007-12-13)

京都府京丹後市大宮町の常林寺末寺境内にある高さ5・3mの「平地地蔵」に巨大な蓑と頭巾が着せられた。「せめてもの防寒に」との住民の思いで百数十年前から続いている行事という。

蓑は高さ約3m、幅約3・5m。檀家で創る「世話人会」が糯米の藁を編んで数年に一度新調しており、今年は11月下旬に6人掛かりで蓑を着せた。

平地地蔵は江戸後期の一揆の首謀者2人を弔うため、天保3年(1832)に建立。世話人会代表の大木秋男さんは「地蔵さんも蓑を着て温かそう」と話していた。

京丹後の百姓一揆を発掘(京都民報2007-12-22)

京丹後市大宮町の平智峠の寺に聳え立ち、地域の住民らが大切に守っている地蔵にまつわる百姓一揆の歴史を発掘した資料集『平智地蔵の謎』と、絵本『新兵衛じぞう』がこの程、あまのはしだて出版(宮津市) から同時出版されました。

平智地蔵は、文政一揆で処刑された指導者吉田新兵衛の霊を慰めるため、村の浄財で立てられたと伝承されてきました。

郷土史家の安田正明さん(故人)と妻の千恵子さんが12年がかりで、寺に残る古文書を解読、分析。新兵衛を悼んで丹後地方はもとより、関西一円から7万5000人による寄付を集めて、高さ5mの巨大な地 蔵を建立した経過を突き止め、資料集となったものです。

絵本は、民衆の勇気と知恵が、絵本作家津田櫓冬さんの美しい絵と文で綴られ、全国学校図書館の協議会の推薦図書となっています。

資料集は税込み2100円。絵本は同1680円。問い合わせは、あまのはしだて出版へ。


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幾地の地蔵山 中世の庶民火葬墓地

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与謝野町幾地とは江戸初期から現在までの地名で、 与謝郡加悦谷地域の岩屋川沿いに位置する 地区である。
幕末の世帯数は約100軒程度の村であったが、現在は450軒ほどになっている。
中世は伊久地だったのであろう。室町期の伊久地城跡がある。 この幾地区の南西部の山沿いに、歴史家に有名な地蔵山と呼ばれる中世鎌倉時代から南北朝期、 江 戸期まで続いた庶民の火葬墓地があり、京都府の史跡として登録されている。

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地蔵山遺跡には結衆15人・文明28年の銘のある宝篋印塔の他、五輪塔50基・阿弥陀如来109 体・地蔵菩薩像11体などが当時の状態で段築に並べられている。 平成16年度の記録では、382体もの石造物が林立していたとの事である。

また骨蔵器として使用された陶器・須恵器や土師器が出土している。 陶器は丹波または越前なのだそうである。 この地蔵山は、集団墓地として様々な形の墓が見られ、中世丹後地域の墓地を研究する上で、大変 貴重である。 丹後古代資料館刊行誌によると、13世紀頃の火葬を導入する塚墓が造営され、 これがきっかけと なり造墓活動が始まったという。
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今でこそ地元の有志による保存会が出来て、大変綺麗に清掃されているが、以前は草木が茂り、 鬱 蒼としていた。 京都府内は他の地域より盛大に地蔵盆が行われてきたので、地域の住人、子供達が、 相当な数のお 地蔵さんをここから運び出したと思われる。

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毎年、裏盆になると、地元の保存会の人達が万灯で供養をおこなっている。
幾地の町は幻想的な竹灯籠のほのかな灯りに包まれる。

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※宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種である。五輪塔と ともに、石造の遺品が多い。 本来、宝篋印心咒経(ほうきょういんしんじゅきょう)を納めたことによる。ただし、納めたもの を問わず、同形のものは、すべて宝篋印塔と呼ぶ。本来的には、 基礎に宝篋印心咒経の文字を刻む そうだ。 五輪塔と同じく密教系の塔で、鎌倉期以降、造立されるようになった。

三輪山の大物主様 大神神社その弐

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大神神社、大物主神の続き。

大物主神が三輪山に鎮座されてからは、葦原中国(日本国)では平和な日が続いていた。

ある日、天上の高天原におられる天照大御神と高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)から大物主神 に対して、葦原中国を譲るようにお申し入れがあった。 天照大御神が、「この国は、天孫(天照大御神の子孫)が治めるべき土地である」と、 大国主神に 国譲りの交渉をされたのです。

天の神が地上に降り立つ事を天孫降臨という。

大国主神は、「天神の仰せは行き届いたものでございます。私が治める現世は、皇孫( 天照大御神 の子孫がお治めくださるのがいいでしょう」と、申し上げた。 そして「私は幽世から現世を見守りましょう」と言って、この世から永遠にお隠れになった。

そこで経津主神(ふつぬしの神)は、全国を周り、従わないものを平定した。従わないものは力で 従わせ、服従したものは誉め称えた。 この時、大国主神と事代主神は、服従したものを統率した。

日本書紀によると、大国主神は出雲大社に鎮座され、自分の魂(幸魂・奇魂)を倭大物主櫛甕魂命 と名を称えて、大和の守り神として三輪山へお祀りになったという。

大物主神とは、国譲りをした出雲の大国主神の魂なのであり、大国主神は出雲に帰り、出雲大社に祀 られていることになる。
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三輪山の大物主様 大神神社その壱





日本最古の神社、奈良県桜井市にある三輪山大神神社参拝(2011年8月19日)ご報告。

奈良盆地にある三輪山は、太古より神様の鎮まる聖なる山であり、三輪山自体が御神体である。
この三輪山の神様は、大物主神といい、以前から出雲の大国主神と聞いてはいたが、何故出雲なのか、もう一つ理解出来ていなかったのだが、奈良の神社を歩いて解ったのは、古い神社は、出雲の神様をお祀りしている神社が多く、天皇家の天照大神は摂社でお祀りされている事が多い。
奈良は、寺院と天皇陵のイメージしか湧いてこなかったのだが、どうやらここに来て、古代出雲がだんだん見えてきたようだ。

大神神社は、流石に大和国一の宮だけあって、とてつもなく広い。
参道や社もとても綺麗である。

大神神社で大変理解し易い本が販売されており、早速購入した。
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1 大物主神とは・・・。

天皇家は、天照大御神の子孫とされるが、天皇家以前の日本は、神代(かみよ)の時代という。
その時代、出雲国の大国主神がこの国の国作りをされていた頃、海の彼方遠くから、国作りを協力していた神がいた。
少名毘古那神(すくなびこ)という。
しかし、途中で常世の国(海の彼方)に渡ってしまわれた。
大国主神は困っていたが、海上を照らし輝いて来られる別の神がいた。
その神は、「私を、大和国を囲む青い垣根のように連なる山々の、東の山の上に祭りなさい」と言った。
ここが三輪山と思われる。《古事記》

大国主神は別名を大物主神、または大巳貴命(おおなむち)ともいう。
大巳貴神と少彦名命(すくなびこな)は、力を合わせ、この国の生活が成り立つように作り変えられた。
しかし少彦名命は、「よく出来た所もあるし、できなかった所もあるね」と言って、常世の国へ帰られた。《日本書紀》大国主神は、国の完成していない所を、一人で歩いてお造りになり、やっと出雲国に着かれた。
「この国を治める者は、私ただ一人である。私と一緒にこの世を治める者は、もしかしているのだろうか」
するとその時、神々しい光を海上に照らす神が近寄ってきた。
それは、大巳貴神自身の幸魂・奇魂だった。神は、「やまとの国の三諸山に住みたい」といい、すぐさま宮を三諸山に造り、お祀りした。これが大三輪の神である。《日本書紀》
このように、大巳貴神自身の霊魂を自ら三諸山(三輪山)にお鎮めになったという。


以上のように、古代出雲国が葦原中国(日本国)だったと思われる。

さて、少彦名命とはだれか、常世とはどこなのか・・・。
大国主の国造り に際し、波の彼方より 天乃羅摩船 (アメノカガミノフネ)に乗って来訪した 神と言われ、
遠く朝鮮半島が想像出来るのだが。
また、熊野から波の彼方の常世の国に帰られたというので、ナニカ深い意味があるのだろう。


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大神神社

遠い神代の昔、大己貴神(おおなむちのかみ)【大国主神(おおくにぬ しのかみ)に同じ】が、 自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみた ま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(おおもの ぬしのかみ) 【詳しくは (やまとのおおものぬしくしみか たまのみこ と)】の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります。 それ故に、本殿 は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、三輪山を拝 するという、原初の神祀りの様が伝えられて おり、我が国最古の神社 であります。 大三輪之神(おおみわのかみ)として世に知られ、大神をおおみわと申 し上げ、神様の中の大神様 として尊崇され、各時代を通じ、朝野の崇 敬殊に篤く、延喜式内社・二十二社・官幣大社として最 高の待遇に預 かり、無比のご神格がうかがわれます。(由緒書きより)

王家の谷 湯舟坂二号墳

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京都府最西北端の京丹後市久美浜町は、 古代から発展していた町である。 海士という地名があり、海部氏=海人族の本拠地でもあった。 箱石浜では西暦八年~二十三年の貸泉と呼ばれる中国の貨幣が二枚見つかっており( 全国でも数え る程しか見つかっていない)、その他色々な物的な遺産から、 大陸との交流が盛んに行われていた 土地である事がわかる。 場所は少し離れるが、蒲入遺跡の縄文時代の大型丸木船は、日本最古の船として各地の資料館に 引っ張りだこである。

この久美浜町のに、川上谷川という川が流れ、その川沿いに須田集落がある。 ここから南西に伸びる伯耆谷があり、山沿いに細い道路がある。
この伯耆とは鳥取県西部の伯耆と 何か関係があるのかもしれない。

この伯耆谷は【王家の谷】と呼ばれ、この入り組んだ山沿いに大小100もの古墳が発見されてい る。
その中にあるのが【湯舟坂二号墳】で、1981年の発掘調査で全長122センチの黄金に輝く環 頭大刀が発見された。
この大刀は、現存するものとして唯一の【親子双竜】の環頭大刀であり、全体の精巧な彫金技術は 全国でも極めて少ないもので、湯舟坂二号古墳の名は、一躍全国に知らされることになった。 またその他、石室の中には、足の踏み場もないほど大量の遺物が発掘された。 銀荘圭頭大刀などの大量の武器、金環、玉類、約200もの土器である。 これらは国の重要文化財として大切に保存されている。

湯舟坂二号古墳は、六世紀後半のものであることから、紀元前から発展していた栄光の丹後王国最 後の遺物として、埋められたのであろう。
この【王家の谷】、今は人家も少なく、緑の山々、静かなる谷に、美しい稲が夏の風になびいてい た。
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湯舟坂古墳群は、【王家の谷】と呼ばれ、川上谷川の支流伯き谷川の左岸の斜面に位置す る。今でも緑に囲まれた静かな田園風景である。何故【王家】なのか?あの丹後七姫である川上摩須邸のあった場所でもある。

川上摩須郎女 (かわかみのますのいらつめ) 【京丹後七姫伝説 川上摩須郎女】 往古、丹波の国王として君臨していた丹波道主命の妻である。。 同じ丹波国の豪族の娘として生まれ道主命の妻になり、 一男三女をもうけ、その息女ヒバスヒメは垂仁天皇の后 となり、景行天皇をはじめヤマト姫など四男一女をもう けた。
丹波道主命の親は、崇神天皇の弟、日子坐王であり、青葉山の土蜘蛛退治で活躍した。
ヤマト姫は、あの伊勢神宮斎宮の倭姫である。
簡単にいうと、川上摩須は、景行天皇のお祖母さんであり、古代日本の英雄日本武尊の高祖母である。
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このように、元伊勢伝説は丹後と大和の伝説でもあるのだ。
この一大勢力の遺跡が久美浜町須田伯耆谷(ほうきだ に)に無数に存在している。

古墳は6世紀後半に築造された横穴式石室墳で、全長10,6メートル、玄室の長さ5,7メートル。
早い時期に石室が埋もれたため、盗難をまぬがれたのだという。

発掘調査により黄金に輝く 金銅装環頭大刀を初めとする豊富な遺物が発見された。環頭大刀は全長122cm 前後と推定される長大な双竜式環頭大刀である。大小2対の竜 がそれぞれ向かい合って玉をかむ姿を表わした、大変珍しい装飾が施されていて、ここしか無いものである。
そのほか、銀装圭頭大刀、刀身、鉄鏃、馬具、金環、銅椀、土師器、200点を 越す須恵器等が出土し、出土遺物は一括して重要文化財に指定されたのである。

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丹後地方有数の群集墳の中の湯舟坂二号墳から出土した金銅装環頭大刀(こんどうそうかんとうたち)は珍しく、大型の環頭把頭型式は、双竜式環頭の内側に更に玉を銜む一対の「子竜」を鋳出した稀有なものであり、現存唯一の遺品である。
ともに伴出した大量の須恵器等と併わせ、 古墳時代の日本海沿岸の文化をみるうえで欠かせないものとして、その価値は特別高いものである。


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飛鳥坐神社 元伊勢参詣第九番

さて、元伊勢笠縫邑伝承候補地九社目は、桜井市から南部にすこし走った高市郡明日香村にある飛鳥坐神社である。
この地は、あの大化改新の場所であり、古代日本の中心部である。
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この神社は、どうやら出雲系のようで、鳥居が伊勢鳥居でなく、
また、案内板にも元伊勢伝承の記述が無い。
しかし、驚いた事に、ここの由緒書きには、出雲の国譲りそのものが書かれていた。
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飛鳥坐神社
所在地 奈良県高市郡明日香村大字飛鳥字神 奈備708
位置 北緯34度28分47秒 東経135度49分20秒
主祭神 事代主神 高皇産靈神 飛鳥神奈備三日女神 大物主神
社格等 式内社(名神大)・旧村社
創建 不明
この社・・・どうみても出雲であるが・・・。
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国のまほろば大和の国に古代より皇室の守護神と して鎮まります当神社の主神、事代主神は恵 美須神 の御名で世に広く知られております。大国主神の第 一子で父神とともに力を合わせ、こ の国土を拓き民 の衣、食、住は勿論、その他万物の生きるための基 礎作りをされた大神であり ます。 古典によりますと、神代の昔皇祖天照大神が皇国 の基を定めようとされ、大国主神のもとに国 土を天 の神に奉るよう御使を遣わされました。大国主神は その事を事代主神に相談され、その すすめによって 国土を捧げられました。そうして大国主神は、わが 子事代主神を数多くの神々 の先頭に立たせ皇祖に仕 えさせたならぱ、皇祖の国づくりに逆らう神は無い であろうと、皇室 の近き守護神として事代主神とそ の娘神、飛鳥神奈備三日女神(賀夜奈留美神)の神 霊を奉斎 なされたのが当神社の創建であって、実に 神代から続いている大社であります。 前述のごとく、この飛鳥の地に永く郡のあったことと神代に当社がこの地に創建されたとする 伝承とは決 して偶然ではなく、すでに神代の昔から大和の国は将来都と定めるべき美地なること を父神の大国主神は予 知されていたのであります。以来事代主神、飛鳥神奈備三日女神を始め四 柱の神々は協力して皇室の守護を はじめ、日本人に生活のあるべき道を教え、農業、工業、商業 など、産業振輿の神として、その由緒の顕著 なことは多くの古書に記述されているところであり ます。特に子宝、緑結ぴ、厄除、治病、製薬、交通安全、 商売繁昌、家内安全、夫婦和合等、専 ら国利民福の増進を図られ、その御神徳は著しいものであります。 当社は、天武天皇朱鳥元年七月に天皇の御病気の平癒を祈る奉幣があったことにも示されるよ うに、皇室 の近き守り神として奉祀され、天長六年に神託により神奈備山より現今の鳥形山へ遷 祀されました。延喜式 によれば名神大社に列し、祈年、月次、相嘗、新嘗、祈雨等の奉幣に預か り、祈年祭には特に馬一匹を加え られました。正平元年八月後村上天皇より金五十枚を賜わり中 ノ社が再建されております。このように朝廷 でも一般でも広く尊崇せられたことが察せられま す。 降って寛永十七年(一六四○)に植村家政が高取城主として封ぜられると、当社がその城の鬼 門にあたる ため、特に深く信仰されました。元緑頃には境内に末社五十余社が存したが、享保十 年(一七二五)に本社、 末社ともに火災に会い、社殿の大部分が焼失したので、安永十年(一七 八一)城主植村出羽守家利が再建し、 天明元年(一七八一)正遷宮が行なわれました。これが現存 の社殿であります。このように古代から数々の 変遷を経て今に至っています。 ※相嘗祭……朝廷の特別に尊崇された大社に新米を奉られる祭である。名神社三、一三二座中僅 に七一座に 限られている。

由緒書きによる

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境内を探したが、元伊勢らしき社が見つからず、半分諦めていたが、何やら
奥宮らしき道があり、歩くと・・・。金色に輝く鰹木と神明造りの小さな社が見えた。

間違い無く、天照皇大神と豊受大神である。
感激の瞬間。

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明日香村飛鳥に到着してまず感じるのは、 大化の改新の香りがするということだ。 蘇我氏の住居の あった甘樫丘から東にほぼ一直線上に蘇我入鹿の首塚があり、中臣鎌足、中大兄皇子と蘇我氏の戦 場と化した飛鳥寺、そして古い街並みがあり、 まるで映画のロケ地にでも来たような錯覚に陥る。 甘樫丘から飛鳥坐神社まで、僅か約七百メートル程度しかないのだ。 ここだけは車では通るべきではない。やはり徒歩か自転車で飛鳥の空気を吸い込みたいのである。 ほんの少し移動すれば、大友氏夫人の墓、蘇我山田倉石川麻呂の山田寺跡、天武天皇稜、 高松宮古 墳など見所が盛り沢山で、圧倒されてしまう。 やはり、大和は古代倭国の中心部なのである。

さて、肝心の元伊勢であるが、石段を上がり、境内を見渡すと、やはり、い・ず・もである。この 地の大物主は、大国主神なのであろう。 となれば、大国主の国譲りは、「ヤマトに国をどうぞ」 と譲った説も成り立つのかもしれない。 そして大国主を出雲に【封じ込めた…】 そして巨大な出雲大社を建立した。 このような仮説もあるのだ。 つまり、《記紀》によると、天照大神は葦原中国を鎮めたので、子のアメノオシホミミに次代を担 う。しかし、アメノオシホミミには二人の子供が出来たので、二人の子供、 ニギハヤヒとニニギに任 せる。ニニギは高千穂に降臨し、ニギハヤヒは大和に降臨した。 ニニギの曾孫にあたる神武が、東の国にいい土地があり、 そこにニギハヤヒという神がいる。私は そこに向かう」

ニギハヤヒはナガスネヒコの妹と結婚していた。 (つまり、大物主神を祀っていた大和にはナガスネヒコとニギハヤヒがいた。 )

神武の軍隊は瀬戸内をルートとし、河内から大和に侵攻したが、ナガスネヒコの軍団に激しく抵抗 され、再び熊野から廻る。 そして大和に侵攻した神武は再びナガスネヒコの抵抗に合うのだが、ニギハヤヒの息子のウマシマ ジが叔父のナガスネヒコを殺害し、あっさりと大和は神武のものになったのだ。 神武とニギハヤヒは元々先祖が同じ海人族なので、同じ血脈である。 海人族による制圧で、ここから大和がスタートする。 つまり、大物主を祀る出雲系を再度出雲 に封じ込めた。その後、大和朝廷の皇祖神天照大神が祀られる…。 の説である。

天照大神を皇祖神とする大和は、神の安住の地を求めて、遷宮の旅に出る。それが元伊勢伝説なの である。




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参拝日7月8日

元伊勢とは皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)が、 現在の伊勢神宮 に祀られる前に安住の地を 求めて旅をし、一時的に祀られた神社、場所 をいう。 天照皇大神は各地を遷宮され、 24箇所目が 伊勢神宮内宮皇 大神宮である。

外宮豊受大神宮は、天照皇大神が、丹波(丹後)の豊受大神を呼ば れ、丹波国(丹後国) 比治 真名井神社を出発され、伊勢神宮外宮豊受 大神宮に鎮座された。
※神格は、外宮豊受大神が上とされる。

倭国笠縫邑~丹後国与謝宮~倭国~紀ノ国~吉備国~倭国~ 伊賀国~近 江国~美濃国~尾張国~伊勢国~磯宮~渡偶宮(現伊勢神宮皇大神宮)

【倭国:笠縫邑伝承候補地】三十三年

檜原神社
巻向坐若御魂神社
桜井市茅原あたり
多神社境外末社笠縫神社
泰楽寺境内笠縫神社
志貴御県坐神社付近
笠山荒神宮
小夫天神社
飛鳥坐神社
以上、元伊勢笠縫邑三十三年間の伝承地候補地九社を参拝した。元伊勢笠縫邑とは・・・。

小夫天神社 元伊勢参詣第八番

ここも笠縫邑元伊勢伝承地である。天照大神は、笠縫邑で三十三年間鎮座し、丹後国与謝宮へと向かう。
笠縫邑の伝承地は、九カ所あるが、さてそのうちのどこを笠縫邑と断定できるのか、また数カ所なのかもわからない・・・。
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小夫天神社

天神社は、笠山荒神から数キロ下り、国道沿い左側に見える古社である。
参道は急な登りになっている。
元は、うしろの山が御神体のようである。


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社伝
倭笠縫縫邑・泊瀬斎宮 旧跡伝承地 往昔 小夫郷は倭笠縫邑と称せられ 当天神社 天照皇大神宮御鎮座は第十代崇神天皇即位六 年秋九月二十二日。神人分離の一大変革により、皇女豊鍬入姫命が皇祖を奉侍し給うた最初の霊 跡であり、当神社は斎宮山と称し、第四十台天武天皇即位二年夏四月大来皇女命が化粧川で禊さ れ、宮を泊瀬斎宮と為し、皇祖天照皇大神を奉斎せられ元伊勢として今日に伝えられている。 -社伝の石碑より-





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「往古、小夫郷は、笠縫邑と称せられ、当天神社天照皇大神官 御鎮座は、 第十代崇神天皇即位六年、秋九月二十三日、神人分離の一大 変革により、皇女豊鍬入姫命が皇祖を奉侍し給うた最初の霊 跡であり、当神社は笠宮山と称し、第四十代天武天皇即位二 年夏四月大来皇女命が化粧川で祓され、宮を泊瀬斎宮と為し、 皇祖天照皇大神を奉斎せられ、元伊勢として今日に伝えられ ている」 とあり、 平成祭礼データの小夫の天照皇大神社由緒略記によりますと、 「天照皇大神社は、桜井市大字小夫嵩方小字山ノ神に鎮座し、 祭神は天照皇大神、配祀神大山祗神を祀る。
社伝に、天照皇大神宮鎮座は、小夫天神社に座、天照皇大神 宮の御分靈を遷し奉りしと伝う。
小夫嵩方分離は元享年間の頃といい伝う。 天照皇大神社御由緒調査書、明治三十九年八月調によると、 元享元年(元享年間は四年)より明治三十九年まで604年 を経るとある。
当社の境内に杉一丈七尺廻りの大木あるを以て按に三百年以 後の神社たる事明らかなりと記録されている。
小夫嵩方は、真平山脈の頂上にあたる地勢により嵩方といい、 大和川の源で美わしい山紫水明の地である。
古代倭における磯城から山辺の境界線上にあたり、大倭郷と 呼ばれた高天原の聖地で、天照皇大神社の敷地山ノ神につづ く笠神は、倭笠縫邑の聖地にして小夫の笠神と並び元伊勢縁 の地である。
天照皇大神の鎮まる古代の小夫地方は元伊勢の発祥地であり、 御山と称せられし奥の鎮は中岳と並ぶ神山で、巨岩があり近 隣の割石神社とは古代の磐座である。
神の郷の故地として倭、大和の発祥地であることから近郷に はない社名であり、神聖なる地形から天照皇大神社として奉 斎されし所以である。
往時の神の郷は磯城峡谷の隠国とも称されてきた。
泊瀬川を逆り峠を越え小夫より寝地蔵、奥の鎮、笠神、割石、 真平山、中岳、貝ヶ平山に通じ、山岳信仰、太陽と水神の信 仰盛んなりし跡がうかがえるのである。 貝ヶ平山、真平山は大倭郷の線上に位置し、太陽神影向の山、 日の出の山と称されてきた。真平山脈より出づる細流は清き 流れの渓流となり、万葉の昔は聖なる山の聖水の流れで神の 河日の河と呼ばれた泊瀬川は、大和川となって豊富な水資源 は潅漑用水として、水穂国として農業に大きな役割を果し、 農林産物の宝庫となった。」



由緒 斎宮山鎮座 天神社略記から

倭笠縫の由緒 天神社社務所 大和の国原より望む、厳粛なる三諸の三輪山、美わしき山の辺の光景は、古代倭の 神々の鎮まり給う神山であり、東青垣の連峯は渓谷美優れ、その一円を大和日高見の 国と称せられる神の郷、一説に高天原ともいわれ、高貴尊崇の天つ神の 霊地であり、 聖地であります。

隠国(隠口ともいう。)の泊瀬の地を稜線に沿って、大和川の源流地帯を大和高原 に遡る、古は万葉で知られる泊瀬川で神の河、日の河とも呼ばれ、水源をなす秘境の 地にして、古代大和における倭笠縫邑という伝承があります。

往昔、神浅茅原と称せられし笠山より東方龍野、和田の山陵、小夫斎宮山、瀧倉山 の鬱蒼たる原始林を隔てて、眞平、 中岳、貝ヶ平三山と相対し、秋風落莫の頃となれ ば、太陽は中岳より昇陽、その陽光は雄大なる上之郷を、即ち神の郷の 里々谷々を照 し、置く霜を溶かして大和川の清流に黄金の波を湛える。

貝ヶ平山は大和における峻嶺にして、厳の如く天に聳え、眞平山は梢低く項き平に して、南北より中岳を挟みその山容 さながら伊勢二兄ヶ浦の夫帰岩に似ているのであ ります。

神の郷なる上之郷は伊勢の五十鈴川の上流に上之郷あり、大和川小夫の下流に釜ヶ 淵があって、同名称の釜ヶ淵が五十 鈴川の上流にある如く不思議に思える。

小夫郷は、往時、倭笠縫邑と称せられ幻の宮、泊瀬斎宮の斎王大來皇女御禊の伝承 地であって、小夫天神、笠山荒神、瀧蔵権現を斎奉り来れる古代倭にして、広大なる 上之郷には笠山、笠神の笠と称する地名が多く、また、笠の笠山より化粧 川、斎宮 山、小夫の笠神に至る地名は諸所に「神」「宮」「ロマンに満ちた字名」数多く、悠 久に神霊座します所、元伊勢発祥の地にふさわしく、遠い二千年余の古を想えば感慨 無量であります。

多くの史跡を御縁として、常世に伝承し、御神霊を拝し奉るよう希うものでありま す。
参拝日7月8日


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元伊勢とは皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)が、 現在の伊勢神宮に祀られる前に安住の地を 求めて旅をし、一時的に祀られた神社、場所をいう。 天照皇大神は各地を遷宮され、 24箇所目が 伊勢神宮内宮皇大神宮である。

外宮豊受大神宮は、天照皇大神が、丹波(丹後)にいる豊受大神を呼ばれ、丹波国(丹後国) 比治 真名井神社を出発され、伊勢神宮外宮豊受大神宮に鎮座された。 ※神格は、外宮豊受大神が上とされる。

倭国笠縫邑~丹後国与謝宮~倭国~紀ノ国~吉備国~倭国~ 伊賀国~近江国~美濃国~尾張国~伊勢国~磯宮~渡偶宮(現伊勢神宮皇大神宮)

【倭国:笠縫邑伝承候補地】三十三年

檜原神社
巻向坐若御魂神社
桜井市茅原あたり
多神社境外末社笠縫神社
泰楽寺境内笠縫神社
志貴御県坐神社付近
笠山荒神宮
小夫天神社
飛鳥坐神社

元伊勢遷宮の長い旅は続く。

笠山荒神 元伊勢参詣第七番

[笠山荒神社] :かさやま、笠山三宝荒神、。

住所:桜井市笠笠山(鷲峯山じゅぶさん)。

祭神:土祖神、興津彦神、興津姫神。 本殿:。 千木:。神紋:。

場所:巻向駅あたりより東へ。きつい登りあり。

由緒,伝承:笠縫の邑の伝説地、加佐の郷。

笠縫邑伝承地七番目の参詣は、笠山荒神である。
ここは笠そばの産地としても有名である。
三輪山を見ながら峠を上るが、自転車では結構きつい。
元伊勢伝承地とはいうものの、根拠にしているもののか解らず、元伊勢の雰囲気ではないように感じた。
笠山そばの産地であり、美味しいそばはお薦め。


笠山三宝荒神は、3千年の昔より笠山の鷲ヶ峯に奉祀て、7袖7 谷の峯谷(ぶこく)を神躰山として、人々は入山することなく、千古の昔よりの大木が生茂る。 山之辺道に散在する社寺の三宝を守る神、すなわち奥の院として栄える。

聖武天皇、東大寺大仏建立の時、土木工事で役夫百数十人の死傷者があり伽藍の建立不可能となり、良弁 (ろべん)僧正 正勅を受け笠山に登る。良弁、七夜の祈誓を行い南都に帰る、日本全土の女人より 髪毛ひとにぎりの奇進を受け、以って大綱をつくり大仏殿の上棟を無事成したという。

参拝日、7月8日。
笠山荒神で気になるのが、笠の文字である。笠は、加佐であり、丹後では笠をウケと読む。笠が加佐郡になった丹後の笠氏とも大いに関係が・・・。



長い参道は、歴史を感じる。

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笠蕎麦処からすぐに長い参道がある。日本第一の荒神さん。
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神社というより、寺院のような拝殿。


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裏参道はここから。山中にあり、山伏になった気分である。


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日本最古の浦嶋太郎 宇良神社その二

浦嶋太郎


丹後には、日本最古の浦島伝説があり、 日本書記や丹後風土記にも登場する、史実を基にした伝説 である。 元々日本海側は、大陸からの表玄関であり、多くの人々が往来していた記録がある。 それは丹後伊 根の浦島伝説より以前から、当時の中国、朝鮮との国交があり、大陸からの文化が伝わり、 時代の 変化と共に移り変わっていく社会情勢や過程が伝説として残されたものである。 当時は新聞やテレビなど無く、口から口へ、耳から耳へと語り継がれてきたのだ。親が子に、 語り 部から人々に伝わった伝説。この浦島伝説は、丹後の歴史が隠されたとてつもなく大きい財産であ る。 今では東南アジアなどまで伝わり、丹後から世界の浦島伝説まで拡大したのである。 丹後半島の海岸線にいけば良くわかるが、朝鮮半島から漂流してきたペットボトルや家具、 買い物 袋が多く漂着している。古くは、蒲入遺跡では、縄文前期時代の丸木舟なども発見され、 日本最古 の舟の遺跡である。 朝鮮半島から船を流せば、九州ではなく、対馬海流に乗って、丹後半島や若狭湾に漂着する。 丹後半島から福井県にかけては、朝鮮半島との交流があった証明となる地名や人名が多くあり、 そ れは数え切れない。また丹後の人は、朝鮮系の顔の人が多く、朝鮮との文化交流や軍事的交流が絶 えず行われていたのは間違いない事実である。 さて、この宇良神社に伝わる浦嶋伝説であるが、幾つかの説があり、これを真剣に研究、 議論して いる歴史家の人が相当いて、ましてや考古学の貴重な資料なのだというのだ。 宇良神社には宝物館という、一見、怪しげな資料館があり、 恐る恐る訪ねてみたのだが、ここの神 主さんから、宇良神社の由来から浦嶋子(浦嶋太郎)の話を聞き、 あまりの奥深さに感銘してし まった。多くは語られないのであるが、浦嶋太郎の伝説は、 とてつもなく深い領域のようである。

《三国志》に登場する新羅の王、脱解について「脱解本多多婆那国所生。其国在倭國東北一千里」 とある。つまり、脱解は、倭國=日本の多婆那国=丹波国(古代丹後) の生まれとある。 また丹後一の宮籠神社には、古代、この丹後から一人が新羅に渡り、 新羅王になった伝承が残され ている。 つまり籠神社海部氏の先祖が、新羅の国王になっている。ということである。 この事からも、古代丹後と朝鮮との密接な繋がりがあり、 多くの朝鮮系移民が、この地に亡命した り、定住し、古代丹後王国の基盤が出来たと考えられ、浦嶋子(浦嶋太郎) 伝説は、このような歴 史的背景から残された大きな遺産なのである。

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浦嶋伝説の作者は誰か? 当時の丹後国司である伊預部馬養連(658~703)により執筆された。七世紀末と言われる。 この人物は、大宝律令の選定にも参画している。 丹後国司として丹後に入国したのは、当時、西日本の要所であった日本海側での反律令勢力への牽 制と異国防衛の為だそうで、朝鮮半島の混乱期でもある。 日本へのスパイ行為やら拉致、また亡命など、日本海を挟んで慌ただしく揺れ動いていた。 国の定 義も定かでなく、朝鮮半島の百済、新羅などが、倭國=日本を植民地化したり、亡命、移民してい たのである。 このような国際情勢の中で登場するのが浦の嶋子でであり、現在まで国民の知らない者はいない日 本国家のヒーロー浦嶋太郎なのであるが、さて、この浦嶋伝説だが、 この伝説には幾つもの隠され た説があるといわれている。 この伝説から浮かんでくる嶋子像は、 ①美しい女性への憧れ ②まだ見たこともなかった異国、そこには丹後国に無かった宮殿があった。 ③拉致被害者 ④女性に夢中になり遊ぶ日々だったが、ある日突然故郷を思い帰郷した。 ⑤水平線はるか彼方の蓬莱山に亀=舟に乗って行った。 ⑥生還し、玉手箱を開けたとたんお爺さんになり、死に至る。 ⑦邪馬台国時代、港などの監視職の事を「シマコ」と言っており、現在の海上保安官のような職で ある。

《古事記》に丹後の田道間守(たじまのもり)が天皇の命により、不老不死の果実を探しに常世の 国に行って帰還したが、すでに天皇は死んでいたので自殺した話がある。

《新撰姓氏録》によれば、「三宅連は新羅の王子、天のひぼこの後裔である。」とあり、三宅連 (みやけのむらじ)の先祖が田道間守(たじまのもり)なのである。

《御伽草子》の浦島伝説では、乙姫は小舟に乗り一人で現れた。難船したので助けてと、浦島太郎 に願う。浦島は十日間舟を漕ぎ続けて乙姫を故郷=新羅に帰した。 そして手厚くもてなされ、三年 間滞在した。

これらを総括すると、容姿端麗な浦の嶋子は、三日三晩、魚が釣れず、途方に暮れていたのだが、 突然、あまりにも美しい乙姫が小舟で現れ、 十日間かけて新羅の国まで行く。 向こうの国は、見たことも無かった宮殿があり、美しい女性が沢山いて、大層なもてなしを受け た。そこでいい思いをし、日本に生還したら、 お爺さんになっていたと想像出来るのだが、 帰還後 三百年もの年月が経っていて、伊根の水ノ江の生家は無く、途方に暮れて死んでしまうのだが、 雄 略天皇の時代から三百年後となると、丁度七百年代の八世紀であることから、浦の嶋子の末裔が、 日本に帰化したととれる。

また、美しい女性を小舟に浮かべ、一目惚れした嶋子が乙姫に近づき、そのまま拉致され、 新羅に 連行された。拉致された後は、当時の倭国=日本の情勢を調査する。何年間か監視体制の下へ置か れ、嶋子は恐怖と不安から白髪の老人になってしまう。 このような説が考えられるのだ。

宇良神社(浦島神社) 日本最古、本家本物の浦嶋太郎

丹後には、日本最古の浦嶋伝説がある。
詳しくは伝説のカテゴリーに書くので、まずは、宇良神社のことからどうぞ。
日本最古の建築工法、神明造りの由緒ある神社。
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淳和天皇は浦嶋子の話を聞 き,小野篁を勅使として天長2年(825年)に 浦嶋神社を創建し「筒川大明神」として嶋子 を祀っている。
別名 宇良神社 浦島大明神 筒川大明神
鎮座地 京都府与謝郡伊根町本庄
祭神 浦嶋子(浦嶋太郎) 相殿神 月読神 祓戸大神

浦嶋神社は延喜式神名帳所載による と、「宇良神社」と記されている。創 祀年代は淳和天皇の天長二年(八二 五)浦嶋子を筒川大明神として祀る。 浦嶋子は日下部首等の祖先に当り、開 化天皇の後裔氏族である。その太祖は月読命の子孫で当地の領主である。浦嶋 子は人皇二十一代雄略天皇の御宇二十二年(四七八)七月七日に、美婦に誘わ れ常世の国に行き、その後三百有年を経て五三代淳和天皇天長二年(八二五) に帰って来た。 この話を聞き浦嶋子を筒川大明 神と名付け小野篁を勅使とし宮 殿を御造営された。この神社に 伝わる浦嶋物語は起源が最も古 く、八世紀初頭にできた丹後風 土記更に日本書紀万葉集などに 記載されている。又、古代より 崇敬の念は厚く誠に顕著なもの がある。 浦嶋子縁の地名 水之江里・筒川・曾布谷・今 田・雲龍山・布引滝・龍穴・白 鷺岬・かんこ川・舟繋岩 御神徳 縁結神・長寿神・農業神・漁業神・航海神・牛馬神・養蚕神 御祭日 祈年祭・延年祭 三月十六日夕宵宮・十七日午前九時より 例大祭 八月六日宵宮・七日午前九時より 御宝物 浦嶋明神絵巻(重文) 玉手箱(玉櫛笥) 乙姫小袖(重文)


丹後国風土記逸文による浦島太郎伝説

筒川の嶼子(水江の浦の嶼子) (丹後の国の風土記に曰ふ) 与謝の郡。 日置の里。

こ の 里 に 筒 川 村 が あ る。ここの民で、日下部の首らの先祖である、 名を筒川の嶼子という者がいた。生まれつき容 姿がすぐれて優雅なことはこの上なかった。こ れは、世間でいう水江の浦の嶼子という者であ る。以下の話は前任の国守である伊預部の連馬 養様が記している内容と矛盾するところはな い。よってこの昔話の概略をここに記すことと する。 長谷の朝倉の宮で天下を治められた天皇(雄 略)の御世のこと。嶼子は、一人で小船に乗っ て大海に漕ぎ出して釣りをしていた。三日三夜 が経過したが、一匹の魚も釣れず、ただ五色 (青・赤・黄・白・黒)に輝く亀を釣り上げ た。おかしなこともあるものだと思ってその亀 を船の中に置いたまま、まどろんだところ、そ の亀は突然女性に身を変えた。その顔は美しく て他と比べようもなかった。 嶼子は「人里から遠く離れ、この海上に人は 誰もいないのに、どうしてあなたはここへやっ て来たのか」と尋ねた。乙女はほほえんで「い い男がただ一人海に浮かんでいたので、親しく したいと思って、風と雲に乗ってやって来たの よ」と応えた。嶼子はまた尋ねた。「その風と 雲はどこから来たのか」。乙女は「天上に住む 仙人ですわ。お願いだから疑わないで。親密な 情愛をかけてください」と応えた。彼女が神の 娘であるとわかり、ここで嶼子は恐れや疑いの 気持ちをおさえることができたのであった。乙 女は「私の思いは、無窮の天地、永遠の日月と 共に、永遠に添い続けようと思っています。し かし、あなたはどう思っているのですか、諾否 の気持ちをまず聞きたいもの」と語った。嶼子 は「改めて言うことは何もない。どうして躊躇 しようか」と応えたのであった。乙女は「あな たが船を漕ぎなさい、常世の蓬莱山へ行きま しょう」と言った。嶼子はこれに従って船を漕 いだ。 乙女は(この世と常世との境界で嶼子を)眠 らせ、一瞬の内に海上の大きな島に到着した。 その島の様子は宝玉を敷きつめているように美 しいものであった。門外の高殿も門内の高殿も 全て照り輝いていた。この情景はこれまで見た こともなければ聞いたこともなかった。

手を取りあってゆっくりと歩みを進めて行く と、一軒の立派な家の門に到着した。乙女が 「あなたは少しの間ここで待っててね」と言っ て、門を開け内に入って行った。そこへ七人の 童子が来て「あっ、亀比売のつれあいだ」と語 り合った。また八人の童子が来て「あっ、亀比 売のつれあいだ」と語り合った。そこで乙女の 名が亀比売であるとわかった。そうこうするう ちに乙女が戻って来た。嶼子は童子たちの話を した。乙女は「その七人の童子はスバル星。そ の八人の童子はアメフリ星よ。別に不思議に思 わなくてよいわ」と言った。乙女は嶼子の前に 立って案内し、内へと進み入った。 乙女の父母がともに嶼子を迎え挨拶を交わし て座についた。乙女の父母は人の世と仙人世界 との違いを説明するとともに、人と神との奇遇 の喜びを語った。そうして数々の馳走を勧め た。兄弟姉妹たちも酒を酌み交わした。隣村の 幼女たちも血色のよい顔をして一座に加わっ た。仙界の歌は遠くまでよく響き、仙女の舞姿 はなまめかしいものであった。華やかな宴の様 子は人の世とは格段の違いであった。仙界では 日が暮れるということもわからなかった。た だ、たそがれ時には多くの仙人たちが徐々に退 散し、留まるのは乙女一人であった。ここに肩 を並べ袖を接して、夫婦となるのであった。 こうして嶼子は、元の世を忘れ仙人世界に遊 んで三年はうち過ぎてしまった。急に望郷の念 が起こり、ただ父母に恋い焦がれた。溜息はし きりに起こり嘆きは日々につのっていった。乙 女は「最近、あなたの様子を見るとただごとで はないわ。一体どうなっているのかしら、その 気持ちを聞かせてください」と声をかけた。嶼 子は「昔の人の言葉に、凡人は故郷を偲ぶと言 い、狐は故郷の山に頭を向けて死ぬとある。私 は作り話だと思っていたが、これが本来の姿だ と今になってわかってきた」と故事を踏まえて 応えるのであった。乙女は「あなたは帰りたい のね」と念を押した。嶼子は「私は親族から離 れ、遠い神仙世界に入ってきた。この人恋しさ にこらえきれず、あさはかなことを口走ってし まった。でもできることなら、暫くの間故郷に 帰り父母に会いたいものだ」と応えた。乙女は 涙を拭って嘆いて、「二人の思いは金属や石ほ どに固いと永遠を約束したのに、古里を懐かし むあまりに私を棄て去るということがどうして このようにあっけなくもやって来るのか」と言 うのであった。二人は手を取りあって思案に暮 れ、話し合っては嘆き悲しんだ。 とうとう二人は訣を翻して別れ、嶼子は故郷 への道に向かおうとした。乙女もその父母も親 族も皆一様に悲しんで見送った。その時、乙女 は愛用の美しい化粧の箱を取り出し、嶼子に与 えて、「あなたが最後まで私を棄てず、またこ こへ戻って来ようと思うなら、この化粧箱を固 く封じて絶対開けて見ないでね」と語るので あった。そこで二隻の船に分乗し、(乙女は境 界で嶼子を)眠らせ、一瞬の内に故郷の筒川の 郷に戻ってきた。さて村里を見回したが、人も 物も全てが移り変わり、とりつく島もなかっ た。 そこで里の人に「水江の浦の嶼子の家族は今 どこにいるのか」と尋ねた。里人は「あなたは 一体どこの人なのか。大昔の人を尋ねているの か。私が古老たちから聞いた話だが、『前代に 水江の浦の嶼子という者がいた。その男はただ 一人海原に漕ぎ出して二度と戻って来ることは なかった』という。既に三百年余がたつのに、 何で急にこんな話を持ち出すのか」というので あった。そこで茫然とした虚ろな心で故郷を探 し回ったけれども片親にさえ会うことができ ず、早くも一か月余が過ぎてしまった。嶼子は 美しい化粧の箱を愛撫して神の乙女に思いを馳 せるばかりであった。とうとう嶼子は以前の約 束を忘れ、発作的に化粧の箱を開けてしまっ た。すると突如かぐわしい香の匂いが風雲と共 に翻って、天上に昇って行った。ここで嶼子は 約束に反したことに気付き、乙女に会うことは もう難しいのだと悟った。後ろを振り返っては 佇み、涙に咽んで歩き回った。 そこで涙を拭って次の歌をうたった、その歌 は、 常世辺に……(常世のある方角に向かって雲が 棚引いている。水江の浦嶋の子の言葉を持って 雪が棚引いている) 神の乙女が雲の彼方を飛びながら、 長い声で歌っていった、その歌は、 倭辺に……(大和の方角に向かって風が吹き上 げ、その雲と共にあなたと離れて別れてしまっ ても、あなたは私を忘れないでね) 嶼子はまた恋しさに我慢できず歌をうたった、 その歌は、 子等に……(あなたに心ひかれて朝の戸を開け て私が物思いに沈んでいると、あなたがいる常 世の浜の波の音がここまで聞こえて来る) 後世の人が右の歌に続けて歌った、その歌は、 水江の……(水江の浦嶋の子の美しい化粧の箱。 もし開けなかったならもう一度会えたものを) 常世辺に……(常世のある方角に向かって雲が棚 引いている。(多由女)雲は次々と引き続いて あらわれるが、それだけでは乙女に逢うことも できず、私は悲しくなってくることだ)
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『丹哥府志』より

【浦島社】 本社(五間、三間)社の中央五 社を合せ祭る(五社は何の宮 を集めて五社とする審なら ず、俗に浦島太郎、曾布谷次 郎、伊満太三郎、島子、亀姫 の五人なりといふ未だ実否を しらず)其左右に随神各一座(冠服の制並に年歴を歴たる模様千年以下のものに あらず)社の下に狛犬一対、社の右に末社二社、右は豊受皇左は八幡宮なり、社 の正面に華表二基、華表の前に楼門あり、楼門の前に鞨鼓橋あり(長一間半横五 尺、擬法師あり、銘に寛文二巳年とあり、足音の?たる鞨鼓に似たり、よって 名とすといふ)門内右の方に手洗鉢一箇、手洗鉢の右に絵馬堂一宇、絵馬堂の右 に篭堂一宇、楼門の前右の方に二重の塔あり(元は三重なるよし)塔の前に皺ゑ の木あり、島子玉手箱を開きし所といふ。本社東の方に並びて寺の本堂あり、 本堂の東に客殿庫裏櫓を並ぶ、本堂の正面に鐘楼門あり、鐘楼門の右に宝蔵あ り、鐘楼門の左に惣門あり、門の続きに長屋を建つ、門の内に池あり、池の内 に弁財天を安置す、池の辺に石灯篭一柱銘に至徳二年己丑二月とあり。 神社考曰。丹後与謝郡 阿佐茂川明神者浦島子 也云。(阿佐茂川非与 謝郡也) 神社啓蒙曰。網野神社 在丹後国竹野郡阿佐茂 川之東網野村所祭之神 一座其下に引日本紀及 丹後風土記以為浦島 子。 愚按ずるに、以上二 書浦島の社を与謝郡筒 川の庄本庄村にありと せず、蓋神社啓蒙は神 社考の誤を受けて斯い ふなるべし。丹後風土記曰。与謝郡日置里に筒川村あり、筒川の島子といふも の姿容美秀風流たぐひなし、所謂水江の浦島子なりと云。丹後旧事記に其日置 といふに就て碇峠(本庄の南菅野谷より竹野郡宇川の庄へ越す峠なり)の名を引 き延喜式に所載の倭文の神社を此宮に当つ、少し率合するに近し。阿部公の撰 する新撰島子伝には此社を延喜式にある宇良の神社とす、宇良音韻も近ければ 穏なるに似たり、今これに従ふ。

社記曰。浦島明神は島子を祭る なり、島子は元いづれの人なる 事をしらず。偶然として筒川の 庄水江に来りて其長浦島太郎の 義子となる、浦島太郎は蓋月読 尊の苗裔にして日下部の祖な り。風土記履仲天皇四年始て国 史を置き尽く言事を記さしむ、 此時に当りて丹波国与謝郡筒川 の庄日置里に浦島太郎といふも のあり、月読尊の苗裔なり、故 を以てこれを長者とし国事をしるさしむ。其弟を曾布谷次郎といふ、次を今田 の三郎といふ、浦島曾布谷今田は地名なり、太郎、次郎、三郎は伯叔の次な り、太郎は履仲天皇反正天皇に二代に仕ふ、次郎は允恭天皇に仕ふ、三郎は安 康天皇に仕へて武術の聞えあり、安康天皇即位四年眉輪王帝を弑する時三郎こ れを防戦す、其功すくなからず(国史に日下部使臣其子吾田彦億計弘計の二皇孫 を奉じて難を丹波與佐に避るといふ恐らくは此人ならん)。 始め浦島太郎に子なし毎に之を 憂へて祷ること久し、一夜夢に 天帝より太郎を召して告げて曰 く、汝に天然の嗣子を与ふ謹而 嗟嘆することなかれ、翌日太郎 其妻と海浜に遊びて山水を弄 ぶ、偶一童子の姿容秀美なるを 見るよって問ふて曰、汝は誰家 の児ぞ、児の曰、我に親なく又 住する處もなし只天地の間のも のなり、於是太郎其妻と昨夜の 夢を語りて天の与ふる所の児は 誠に此児なりとて、遂に携へて 家に帰り養ふて以て子とす所謂島子なり。島子の人となり毎に山水を愛して高 くは山に遊び遠くは水に泛ぶ、一日釣を垂れて五色の亀を得たり、恍惚の間に 其亀化して淑女となり、五色の衣裳を垂れて玉笄象櫛悉く美を尽し従容として 島子に謂て曰、我は竜宮の乙姫なり願はくは君の為に枕席をすすめん、固より 一世二世の宿縁にあらずといふ、島子心にこれを異むといへども遂に乙姫と同 じく竜宮に至る。 始め竜宮に至る時七竪子門外に 跪きて島子を迎ふ、曰、我は昴 星なり、又竪子島子に向ひて我 は畢星なりといふて手をこまね き、島子を引て黄金閣より水晶 殿を経て真珠宮に入る。於是舅 姑恭しく出て島子を見る、曰、 我は乙姫の父母なりよく避る心 あることなく、永く先は偕に老 いよ、其言のおわる頃ほひ窈窕 たる一女子玉觴を捧げて舅姑の 前に置く、又一女子甘露羮を奉 じて其次に置く、舅姑其觴をとりてまづ少し喫みて島子に酬す、島子これをう けて又舅姑に献ず、其献酬の間伶人仙楽を奏す其冠服の制皆人間の見る所に異 なる、島子乙姫に問ふて曰、今楽をを奏する者は誰とかする、いわく、上位に ありて玉篇を吹く者は角星とす、次に金管をもつ者は元星とす、次を昏星と す、次を房星とす次を心星とす、次を尾星とす、各鐘鼓管籥を奏す。 既にして日々夜々の歓 楽人の得てする所にあ らず、荏苒として両三 年を過ぎたり、一日乙 姫と同じく鳳凰台に登 りて千里の外に眼を遊 ばしむ。於是島子愁然 として偶故郷を思ふ、 始め乙姫と同じく故郷 を廃せし日は釣を垂る とて家を出るなり、然 して遂に竜宮に来り荏 苒として既に三年斗も 過ぎたり、父母は定て 江魚の腹中に葬るると も思ふべし、おのれ独栄華を受るとも不孝の名を蒙りては天地の間に立つべか らず。ひとたび斯思ひしより種々の念慮心頭に上り遂に几に憑りて臥しぬ。乙 姫其不豫の色あるが如きを見て慇懃に其よしを問ふ、島子審に情の発する所以 を語る。乙姫其ゆゑんを聞て敢て留める事能はず、遂に島子を帰省せしむ。別 に臨て島子に玉手箱を与ふ、かたく戒めて曰、再び竜宮へ帰らんと欲せば必ず 此箱を開く事なかれと、よくかれに教へて島子を送る。島子将に帰らんとして 猶別を惜しみ涙を垂れて遂に臥しぬ、島子の心にしばし眠るかと思へば既に水 の江に着ける。 於是陸に上り其故郷を 見るに桑碧相変りて一 もしる所なし、偶一老 婆の衣を洗ふを見る (此處所謂鞨鼓橋なり) これに就いて浦島の所 在をを尋ぬ、老婆の 曰、我事既に一百七歳 我祖母の話に昔浦島太 郎といふものの子に島 子といふものあり一日 釣に出て遂に帰らずと いふむかし語りはあれ ども浦島太郎といふも のをしらずといふ。島 子自ら謂はく僅に三年斗と思ひしが今幾星霜を経たるをしらずみづから心を傷 ましむ、又浦島太郎の墓ありやと尋ぬれば、老婆大樹を指して此樹に浦島太郎 の墓に植ゑし樹なりと申伝ふ(所謂一本杉是なり)於是島子其樹の下に至りて久 しく哭泣すれども悶を遣るによしなく、彷徨して又老樹の下に至り、乙姫の与 へし玉手箱を出して如何なる物ぞとひそかに開けば、其中より紫雲出て其身忽 ち皺となり遂に其樹の下に死す(所謂皺ゑの木是なり)抑雄略帝廿二年秋八月海 に入り淳和帝天長二年に帰る、其間凡三百四十二年。

愚按ずるに、丹後風 土記又阿部公の撰する 新撰島子伝、社記と大 同小異あれども大意略 天長二年に帰るとあ り、天長二年は養老四 年より相後るる凡一百 六年、其養老四年に成 る日本紀及び聖武帝の 御宇に撰びし万葉集に 浦島子の事あり、天長 二年に帰るとするは杜 撰の甚しきなり。 日本書紀曰。大泊瀬幼 武天皇(雄略天皇)廿二年秋七月…略… 愚按ずるに、扶桑略記並近世水戸公の撰する日本史に載する所も此文と略相似 たり、皆島子釣る處の亀化して女となる島子其女と同じく蓬莱に至るといふ、 実に是事あり哉審ならず。又浦島子伝、続浦島子伝を見るに皆大意は相似た り、続浦島子伝始に島子の事を記し次に古風一篇をのせて次に七言絶句並和歌 各十四首を題す、始にのする所の文、古詩の序の如くに見ゆれども序文にもあ らず固より島子の伝にもあらず、まづ浦島の賦なり証とするに足らず。三才図 会には島子の至る竜宮を今の琉球ならんといふ、風土記の如きは徐福のいれま ぜたるに似たり。 或曰。億計、弘計の二 皇孫は市辺押磐の子な り、市辺押磐は履仲天 皇の皇子なり、始め安 康天皇市辺押磐は履仲 天皇の皇子なるを以て 立てて太子とせんと す、安康天皇眉輪王に 弑せらるる(安康天皇 の皇后は元大草香の妻 なり、根使主の讒によ りて大草香を殺し遂に 其妻を納れて皇后と す、大草香の子眉輪王 は皇后の生む所なれば宮中に養はる、眉輪王父の為に仇を復するとて帝を弑 す、皇弟其変を聞くより兵を率ゐて眉輪王を攻む、眉輪王遁れて大臣円の家に かくる、皇弟其家を焼く、眉輪王及円皆焼死、皇弟は則雄略帝なり)に及びて安 康天皇の皇弟市辺押磐を殺し遂に位に即く、是を雄略天皇とす、是時に当りて 市辺押磐の臣日下部使臣、億計、弘計の二皇孫を奉じて難を丹波與佐に避け、 後廿六年を経て播磨の国司来目部小楯其よしを以聞するによって億計、弘計の 二皇孫初て帰る、実に清寧天皇の三年なり。始め難を避けて丹波與佐にかく る、弘計年甫十歳、億計年十八歳、立て天子となる弘計卅八歳来目の稚子と称 す、位に在る僅に三年、年四十にして崩ず(顕宗天皇)皇兄億計王立て天子とな る、年四十九歳嶋郎と称す、位に在る凡十一年、年五十九歳にして崩ず(仁賢天 皇)。事は続日本紀に詳なり。蓋島子の蓬莱に詣りて数百年を経て帰るといふは 実は仁賢天皇雄略帝の難を避けて丹波與佐に詣り、数十年を経て都に帰り立て 天子となる、年四十九歳猶島郎と称す、於是知るべきなり、実に島子の事ある にあらずといふ。

愚按ずるに、仁賢天皇の即位よ り日本紀の成る養老四年に至る 凡二百卅三年、世の相距ること 未遠からず、斯の如きは皆世の 知る所なり、况や舎人親王日本 紀を撰するに豈其事を知らざら んや、然るに島子竜宮の事をの せて実は仁賢天皇の事なりと日 本紀にいはざるは何ぞ哉、抑当 時の事を言はざるは史の習ひな れば舎人親王万言に帰して其事 を露に言はざるか明に知る事能 はず、姑く録して後の撰物の参考に備ふ。 宝蔵目録 一、描金彩匣 一、滝金手箱 一、盥 五 一、點脂筆 十巻 一、櫛 十枚 一、円鏡 以上七品何人の寄 付なる事をしらず、俗に乙姫の 備具なりといふ。櫛十枚の内三 枚古代の物と覚ゆ、よって図を 以て別に示す。 一、玉篋(玉の周三寸斗)鈿匣に蔵 む、俗に乙姫島子に与ふ玉手箱 なりといふ。 一、小袖…略… 一、白磁…略… 一、仮面…略… 一、横笛 一管 一、鼓…略… 一、能登守教経矢柄…略…

箸墓古墳の埋葬者はだれか? 

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箸墓古墳と大市について

箸墓古墳(はしはかこふん)は奈良県桜井市纒向遺 跡の箸中に所在する全長282mの大型前方後円墳である。箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中で も最古級と考えられている。卑弥呼が死亡したのが248年であり、 建造時期や大きさなどから卑弥呼の墓ではないかといわれている。
さて、写真にあるように、【大市墓】が、誰を指すのか?であるが、【日本書紀】、丹後一の宮籠神社の国宝海部系図に見ることができる。


【国宝海部の系図】
この系図は日本最古の直系図で国宝である。一人一人の名前の横に、当時の丹後国の国印が押されており、編纂の無い、極めて貴重な系図である。
その系図の中に、邪馬台国の女王、卑弥呼 と思われる女性の名前がでてくる。卑弥呼 の墓の有力候補といわれる奈良・纏向遺跡にある箸墓古墳、その 被葬者とされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の名が載っている。海部氏系図によれば、始祖、彦火明命(ひこほあかりのみこと)の九代目の孫に、日女命とあり、その横に、またの名を倭迹迹日百襲姫とする名前がはっきりと書かれている。また【日本書紀】には、箸墓について、「倭迹迹日百襲姫が死んで大市に葬る。時の人はこの墓を名付けて箸墓という」とある。
日女命=卑弥呼であるといわれていることから、卑弥呼は、丹後の女王である可能性が高い。
※彦火明命とは、饒速日(ニギハヤヒ)の別名である。
海部系図の始祖、彦火明命(にぎはやひ)は、天照大神の孫にあたり、ニニギの命の兄弟である。





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日本書紀 三輪山伝説
倭迹迹日百襲姫命 (やまとととひももそひめ )、大物主神 (おほものぬしのかみ )の妻と為る。然れ ども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来(みた)す。倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼 は見えずして、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。明旦に、仰 ぎて美麗しき威儀(みすがた )を勤(み)たてまつらむと欲ふ」といふ。大神 対(こた)へて曰(の たま)はく、「言理(ことわり )灼然(いやちこ )なり、吾明旦に汝が 櫛笥(くしげ )に入りて居ら む。願はくば吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。ここで、倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだ が、明くる朝を待って櫛笥(くしげ )を見れば、まことに美麗な 小蛇(こおろち )がいた。その長さ 太さは衣紐(きぬひも )ぐらいであった。それに驚いて叫んだ。大神は恥じて、人の形とになって、 其の妻に謂りて曰はく「汝、忍びずして吾に羞(はじみ )せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。 よって大空をかけて、御諸山に登ってしまった。ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでし まった。「則ち箸に陰(ほと)を憧(つ)きて薨(かむさ )りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、 時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。

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箸中古墳群

紹介文

陵墓「倭迹迹日百襲媛命大市墓」。 全長約280m、葺石、周濠を有する前方後円墳。 陵墓のため墳丘の詳細な調査は行なわれていないが、前方部・後円部ともに3段以上の 段築を持ち、後円部墳頂に竪穴式石室を有すると思われる。 墳丘表面から採集された特殊器台形埴輪や二重口縁壺の破片、周濠から出土した土師 器などによって、箸墓古墳は前方後円墳の中でも最古級に位置付けられており、築造 時期は3世紀中頃~後半と推定される。

孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が埋葬された陵 墓として宮内庁が管理している。邪馬台国の女王・卑弥呼又はその後継者・台与が埋 葬された蓋然性が高いと考える研究者も多い。果たして・・・

2009(平成21)年5月、国立歴史民俗博物館の研究グループは、周濠から出土した土師 器に付着した炭化物を科学分析した結果、240~260年のものと発表。出土状況から土 師器は箸墓古墳が築造された同時期に廃棄されたとみられ、箸墓古墳が248年頃に死 亡したとされる邪馬台国の女王・卑弥呼の墓の可能性が高いとした。科学的裏付けに よって箸墓古墳の築造時期が証明されたと評価する声がある一方、慎重な見方をする 研究者も多い。

2009(平成21)年9月、桜井市教育委員会は墳丘周辺部の発掘調査で、外濠の外縁部に 盛り土の跡を発見。2重の濠が墳丘の周囲を廻っていたことが確実になったと発表し た。

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穴師坐兵主神社 元伊勢参詣第六番 精霊写真

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穴師坐兵主神社


穴師坐兵主神社 所在地 奈良県桜井市穴師1065
主祭神 兵主神(御食津神) 大兵主神 若御魂神(稲田姫命)
社格等 式内社(名神大・大・小)・ 旧県社
創建 不明
例祭 4月8日 ・10月21日

茅原の伝承地から檜原神社に参詣し、次に穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)に向かう。同じ奈良県桜井市にある神 社である。檜原神社から近いが、道が細く、探すのに苦労する。三輪山の麓は、神社が沢山あり、奈良はお寺のイメージが強かったのだが、どうやら先入観を捨てないといけない。

元は穴師坐兵主神社、巻向坐若御魂神社、穴師大兵 主神社の3社で、室町時代に合祀されたそうだ。現鎮座地は穴師大兵主 神社のあった場所である。

祭神 中殿 兵主神 境内表示「崇神天皇の六十年、命を受けて皇女 倭姫命が創建され、天皇の御膳の守護神として祀られ、天孫降 臨の際の三体の鏡の一体を御神体とし、御食津神と申し上げ る。とある。

旧鎮座地は「弓月岳」であり、この弓月岳とは、竜王山・穴師山・巻向山の3 つの説がある。祭神の「兵主神」は現在は中殿に祀られる、神 社側では兵主神は御食津神であるとしているが、他に天鈿女命、素盞嗚尊、天 富貴命、建御名方命、大己貴神の分身の伊豆戈命、大倭大国魂神とする説があ るという。
また八千戈命(大国主)、素盞嗚命、天鈿女命、天日槍命であるとい う説もある。
応 仁の乱のときに若御魂神社と穴師上社の社殿が焼失し、この2社を穴師下社(大兵主神社) に合祀した。

巻向坐若御魂神社の祭神「若御魂神」は稲田姫命(くしなだ姫)のことであるとされる。
稲田姫は、農業の女神で、出雲国の足名椎(あしなずち)・手名椎(てなづち)の娘。 夫婦には8人の娘がいたが、毎年、八岐大蛇(やまたのおろち)に娘を食べられてしまい、ついに稲田姫以外 の姉妹は食べられてしまった。 夫婦は残った稲田姫も八岐大蛇に食べられてしまうと泣いていたのだが、素戔嗚尊(すさ のおのみこと)が稲田姫に一目惚れし、八岐大蛇を退治した。そして妻とした。
稲田姫は、素戔嗚尊との間に多くの神々を生んだ。大国主命(おおくにぬしのみこと)も稲田姫の子孫(日 本書紀では稲田姫の子供)である。
若御魂神については、和久産巣日 神(わくむすびのかみ)のことであるとする説もある。和久産巣日神は、神話の中で、あの外宮の豊受大神の親であるとされる。いずれにしても、農業の神である。
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御由緒

当社は三神殿にして、古典の伝えるところでは、今から二千年前の御創建にかかり、延喜の制 で、名神大社に列せられ、祈年・月次・相嘗・新嘗のもろもろの祭の官幣に預かり元禄五年には 正一位の宣旨を賜った最高の社格をもつ大和一の古社といわれています。 中央の神は、第十代崇神天皇の六十年、命を受けて皇女倭姫命が創建され、天皇の御膳の守護 神として祀られ、天祖降臨の際の三体の鏡の一体を御神体として、御食津神と申し上げ、生産と 平和の神、又、チエの神として崇敬を受けられました。 右の神は、三種の神器を御守護された稲田姫命を御祀りし、御神体は勾玉と鈴で、芸能の神と して崇敬を受けられています。 左の神は、纏向山上の弓月嶽に祀られたが、後に下られて御祀り申し上げています。 御神体は剣(ホコ)で、武勇の神、従って相撲の祖神となり、スポーツ界の信仰を御受けになっ ています。その神殿はいずれも三つ屋根造りで、全国にその類を見ません。 境内案内板



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ここでも精霊が写り、驚いている。
AUBE(オーヴ、またはオーブ)と呼ばれる、精霊写真です。

精霊は気の良いところに出現するのだそうです。

写っている精霊は、純粋な自然 霊、精霊達が嬉しくて、喜びで輝いている姿らしいです。

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丹州皿屋敷 菊姫稲荷

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天橋立方面から宮津の市内に入り、中心部を過ぎて漁連があり、その先に何とも薄気味悪い小さな森がある。
この中に、「菊姫稲荷」があり、このお稲荷さんは、丹州皿屋敷なる怪談話の伝承地となっている。
あの有名な、番町皿屋敷、播州皿屋敷の怪談話の本家本物の皿屋敷の話である。




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丹州皿屋敷の話

丹州皿屋敷の話 この小社を「菊 姫稲荷」と称え、 俗に「お菊稲荷」 といわれている が、今から二百余 年前の宮津 城主青山氏の一族 に青山近江守幸澄 という者がおり、 その妾と家臣との不義密通から、養子鉄之助の自殺事 件へと発展した。この間、幾多の奇怪な事件もあった らしく、藩主青山氏これら事件のため、幕府から咎め られて美濃郡上へ転任を命ぜられた。この「お菊稲 荷」が、この青山氏の事件に関係あることは想像され るが、それが後年の戯作者によって、「番町皿屋敷」 等と、芝居ものに創作された経緯は明かでない。 けれどもこの有名な芝居「番町皿屋敷」と青山氏と の関係を考えると、それが宮津藩主時代の事件を材料 に創作されたことは首肯され、現にこの「お菊稲荷」 の西北百メートル付近に、「お菊井戸」もあったが、今 は埋められて跡形もない。そこで従来の「番町皿屋 敷」や「播州皿屋敷」というよりも、実は「丹州皿屋 敷」とでもいうべきだといわれ、ここ「菊姫稲荷」の 縁起も、これでほぼ明かなように思われる。 宮津市教育委長会


播州皿屋敷、番町皿屋敷の幽霊話が有名であるが、ここ宮津の皿屋敷話のほうが、古くからある。では何故
本家が有名でないのかであるが、藩主(城主)である青山が、この話を隠してしまったからである。臭いものには蓋をするのが、世の通例であろう。
どうも事実は、藩主青山候の一族である青山近江守幸澄が奥丹後の宇川二千石に分家していた。その妾と家老が不義密通をしていたのだが、幸澄が死亡したので、息子の鉄之助を宇川の跡継ぎとした。しかし、幸澄の妾と家老がすでに不倫していた上、妾が、自分の子を宇川分家の跡継ぎにしたかった。其のため、跡継ぎの鉄之助につらく当たった。
そこで、鉄之助は自殺してしまった。
宮津藩は、この一見を極秘に隠していたが、幕府に知られてしまう。家中取締不行き届きは、やがて政道を乱す基と、青山候は濃州郡上へ所替えとなったのだ。
この鉄之助の自殺話と別に、お菊を斬り殺して、この井戸に死体をほおり投げた話がある。
お菊稲荷から約二十メートルほど離れた場所に、古井戸があった。この井戸は、昭和四十年頃に埋められたと聞くが、この井戸が、お菊が斬られてはめられた古井戸で、幽霊がよく出るといわれた場所であるそうだ。
今でこそ道路が開通して車もよく通るが、昔は、人家も無い畑の中に井戸だけがあった。
江戸時代の宮津は、若狭、山陰道の要所であり、江戸や播州からの来客も多かった。この当地お菊の幽霊話を戯作者がもちかえり、その地の怪談話として、有名にしたのである。



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山椒太夫 安寿と厨子王その三

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今でも和江には、厨子王丸がかくまわれた国分寺跡があり、 お堂がある。安寿姫と厨子王丸の別れ の水杯に使われた「ギボシ」の葉も生育している。


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山椒太夫の屋敷跡

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近年まで、青森岩木山、新潟直江津の人々は、丹後の人を恐れていたという。
山椒太夫は、元々、兵庫県氷上の人間で、丹後の由良に住み着いた。太夫は、当然「悪」の親玉であるが、地元では、悪く言うだけでもないようである。
昔から、由良千軒と言われる程、発展していたようで、これは、山椒太夫の恩恵だとも言う。
このような、悲惨な話とは裏腹に、村や町の発展があるのかもしれない。
幼年の頃、この山椒太夫の話をよく聞いた。よくというのは、母からも聞いたし、紙芝居や映画でも見た。
由良という場所は、子供心に恐ろしい所だと思っていた。いまは、安寿が潮干狩りをした美しい海、そして、どこか寂しさの残る由良川の鉄橋が私の由良である。






由良川沿いを南下すると、日本では最北端の量産みかんの産地で有名な、安寿みかんの看板がみえる。その付近が、山椒太夫の荘園があった場所と思われ、屋敷跡がある。
古代から古墳のあった土地のようだ。

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プロフィール

南方系海人

Author:南方系海人
ブログへようこそ!
古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
間違えた認識もあるかと思います。
自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

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