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山椒太夫=安寿と厨子王

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山椒太夫

1 伝承地 宮津市 由良

(説経節より)
これから語る 物語は、丹後の国、 金焼地蔵のご由 来である。
陸奥の将 軍・岩城判官正 氏は、農民のことを気遣っていたが、帝のご勘気を蒙って、無実の罪で、筑紫の安楽寺に流された。
後に残った御台所は、父恋しと嘆く安寿姫・厨子王を連れ、召し使いの乳 母を供として、夫に何とか会いたいと、九州筑紫に向かっ た。
安寿姫16才、厨子王13才の時である。
半月ばかりで一行は、越後の国直江津 にたどり着いた が、ここで宿を貸そうという人買いの老婆に騙され、二隻の小舟に乗ったが、夫御台 所と乳母は蝦夷ヶ島へ、安寿姫・厨子王の姉弟は丹後の山椒太夫に売り分け られた。
安寿と厨子王は、「お母様ー、お母様ー!」と涙して何度も叫び、御台所も、「安寿~!厨子王~!」と叫んだが、見る見るうちに小舟はみえなくなった。
その別れに絶望した乳母は、自から海に身を投げて果てて しまうが、同じく投身しようとする御台所は、舟梁に縛り付け られ、蝦夷ヶ島の商人に売られ、女郎で働かされることとなった。
毎日毎日、けだものの相手をさせられ、渇れるほど泣き、耐えかねる日々を送っていた。
逃げようと試みたが追っ手に捕らえられ、足手の筋を刀で断ち切ら れ、不自由な体にされてしまう。
涙の雨に失明して、とうとう明け暮れ粟の鳥を追う身となったとい う。




一方、丹後由良の山椒太夫のもと に売り飛ばされた安寿姫・厨子 王の姉弟は、朝から晩まで潮汲み また柴刈りの労役をし いられ、その過酷さに命も危う く思われたが、太夫次男の二郎 の慈悲や村人の柴勧進によっ て、かろうじて命をつないでいた。
来る日も、来る日もなげきあい、離ればなれになった父や母を思い、必死に生きていた。
しかし、そんな二人に太夫の三男三郎は、いつも厳しい仕置きをした。
この屋敷から逃げたものは、顔に焼きごてを当てられ、大火傷を負わされ、半殺しにしていた。
二度、三度と逃げたものは、散々拷問を受けたあと、奈具の山中にて、道通りの通行人に竹の鋸で、首を切らせ殺害した。



し かし、太夫のあまりに過酷な労 役からなんとか逃れようと、姉弟が逃亡 の相談していたのだが、太夫三男 の三郎に立ち聞きされ、二人は それぞれ額に焼き金を当てられ る。無残な姿となった二人は、年の暮れには浜路の松の木湯船 の下に追いやられ、正月十六日には半死半生のまま山仕事に責 め立てられる。
が、宍道の岩の洞に、安寿姫が膚の守りの地蔵 尊を取り出だして拝んだところ、、二人の焼き金の傷は忽ち消え、地 蔵菩薩の白毫どころに焼き金のそれが現れたという。

そこで姉 の安寿姫は、その地蔵尊を弟の厨子王に託し、その場から逃げさせた。
ひとり屋形に戻った安寿姫 は、太夫の三郎に迫め立てられ、湯責め水責めのはて、炭火に 焼かれ、品詞の重症を負う。

山を逃れた厨子王は、太夫 の追手が迫るのに気づき、国分寺の毘沙門堂に助けを乞うと、 お坊様は、古い皮龍のなかに厨子王を入れ、縄で結んで棟の 垂木に吊って、素知らぬ体で日中の勤めをいとなむ。やがて太 夫を先頭に、毘沙門堂に駈け込んだ追手たちは、聖を迫め立て 寺中を探し回るが、厨子王を見出せない。しかし、ついに三郎 は棟木の皮籠を見とがめ、兄の太郎の慈悲のことばを退けて、 それを降ろして縄を切り、その皮龍の中を見ると、そこには姉 から託された厨子王の膚の守りの地蔵菩薩が金色の光を放って いたという。

安寿は、隙をみて屋形から逃げたが、降りしきる雪の中、凍える寒さと空腹と極度の疲労で、母、厨子王を想い息絶える。
ここをかつえ坂(飢え坂)という。
あわれに思った村人が、この近くに安寿を埋め、今は供養塔が建っている。




追手が去った後、毘沙門堂のお坊様は、厨子王の入った皮龍を背 負い、はるばる都へ上り、西の七条朱雀の権現堂まで送ってく れた。
その権現堂からは、厨子王は人々に土車に乗せられ、宿 送り村送りされて、難波の四天王寺にたどり着いた。
たまたま天 王寺の阿闍梨さまに見出され、茶汲みの稚児として仕えるが、 清水観音に申し子をして子どもを求めていた梅津の院と邂逅、 その養子に迎えられる。しかも、梅津の院に代って、帝の大番 を勤めた厨子王は、求められて素姓を名乗り、帝から許され て、父の元の所領・奥州五十四郡を賜わり、丹後の国まで添え られ、丹後国主となる。

厨子王は、早 速に安楽寺に父 を迎えの輿を出 す。次いで丹後 国に入って、国分 寺に詣でてお坊様を 探し出す。
お坊様 は、その後に安 寿姫の死骸を弔 うたとて、その 死骨・剃り髪をさし出して見せた。
さらに厨子王は、由良の港 に使を出し、山椒太夫親子を国分寺に呼び寄せた上で、太郎と 二郎の二人を許したが、山椒太夫の首を三郎に鋸引きさせ、三郎を浜に引き 出し往来の山人に鋸引きさせる。やがて慈悲の心を寄せた人々 に恩賞を送った厨子王は、直江津で山岡太夫を引き出して、 これを柴漬けの刑に処した。


はるばると蝦夷ヶ島に赴いて、鳥追 いに身を落とした母を探し出す。
「あんじゅ~、ずしおう~」「あんじゅ~、ずしおう~」
やっと会えたその母の盲目は、か の膚の守りの地蔵菩薩を取り出して、その両眼に当てたとき、 たちまちに元のごとくに開いたという。

最後に厨子王は、姉の安寿姫の菩提を弔うため、かの膚の守 りの地蔵菩薩を丹後の国に安置して、一宇の御堂を建立なさ る。今の世に至るまで人々が金焼地蔵とあがめ申し上げるの は、このことだったのだ。


山椒太夫(三庄太夫 )「加佐郡誌」

由良ヶ獄のふもと石浦に三庄太夫の遺跡というのがある。三 庄太夫は近在三ヵ庄の代官をもつとめる分限者であった。 村上天皇の天暦年間、奥州の太守岩城判宮将氏は無実の罪に よって筑紫に流されたが、その二子、姉安寿姫と弟津塩丸は父 を慕う余り、母を促して筑紫へ下ることにした。

山を越え、川を渡り、越後の国直江の浦の辺りまで来た時、山 岡太夫という悪者にだまされて、母は佐渡ヶ島へ売られ、安 寿・津塩の姉弟は宮崎三郎という者の舟で、丹後の由良湊へ連 れてこられ、三庄太夫に売られて奴隷にされた。それからは姉 は海へ潮汲み、弟は山の薪取りをさせられ、毎日々々随分むご い仕打ちを受けた。

それでとうと う堪え切れず、 二人は屋敷を逃 れ、津塩丸は和 江の国分寺に隠 れたが、和尚の 義侠によって追 手の難を逃れる ことが出来た。 和尚は津塩丸を 哀み、ひそかに経箱に入れ自ら背負って、京都清水寺の大悲閣 まで送った。ここで津塩丸は、子のない梅津大納言に逢いその 家に入って成人し、追々と出世する。

やがて津塩丸の家譜をはじめ、いろいろなことが天子の耳に も入り、特に旧国のほかに丹後の国も賜った。津塩丸はまず母 を佐渡から迎え、和江の国分寺の和尚を訪ねて旧恩を感謝し、 三庄太夫に対し一族の仇を打ったという。

これより前、姉弟は国分寺の谷間で水盃をして別れたが、そ れに使った草の葉を盃ギボシといい、その谷だけに成育したと 伝えられ、その谷を隠れ谷というと伝えている。 また和江に は、国分寺・大 坊屋敷・堂ノ 奥・老僧谷・仏 谷・かくれ谷・ 院ノロなど寺に ちなんだ地名が ある。 また、姉の安 寿は太夫の家を 逃れ、京へ上ろ うとする途中、中山から下東へ出る坂で、疲労と空腹に堪え切れず最期を遂げたという。いまもこの坂を かつえ 飢 坂といい、姫を 葬ったといわれる安寿姫塚が建部山のふもと下東にある。

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古代と丹後

丹後の古代史は面白い。近年になって「丹後王国論」という言葉を耳にするようになった。

先日、伴とし子さんの講演会があり、テーマも古代丹後王国だった。
伴先生の講演はとてもロマンに満ちていて、丹後人であることに誇りを持てるようになったし、古代からの伝統や歴史に益々のめり込んでしまった。先人がのこした伝統や史跡を我々も受け継ぎ、次の世代へしっかりと渡していかなければならない。それは、史実や形ある物的な物、つまり口伝、家伝からはじまる地域の伝説や豊かな自然、村や町もしかりである。いつも山や川で遊び、口だけで自然を大切にといいながら、山深い川で魚を釣り、スキーや登山で自然破壊をしているのだ。しかし、道路も必要だし、大きくいえば都会も必要であるし、開発無しでは、生活はストップする。動物も食べなければ生きていけない。スキー場も夏の海も経済的に必要不可欠なのだ。

こんなことばかり考えていると原始人に逆戻りして、狩猟と木の実をたべていればいいのだが、現代人が荒れ地に放りだされたら何もできない。本当に自然でいいのかである。

いつもコンクリートやアスファルトに囲まれて生活していると、休日くらいは野山に出たくなるものだ。なにも思わず、化石燃料を燃やして、遥か数百キロ先の山や川で遊び、川で釣った魚を口にし、「あ~、ほんまに自然はええ、もっと自然大切に」と思って、都会にかえるのだ。

ええ~、自然を破壊しまくった都会で、「給料安いから、田舎なんぞかなわんわ」と、不自然な空間であくせく働いている人達が、「ほんまに自然を大切にしはるんでっか?」わしゃ、何だかさっぱりわからんわ。

まあ、何でもええけど、バランスが大切ですよ。都会と田舎、食うか死ぬかのバランスが。

 原始人は、獣をつかまえたり魚を捕ったり、木の実や草を食べていた。毎日が喰うだけで良かった。
木の実や獣が無くなると移動した。移動すればまた喰える。川や海の近くなら、魚もおるし、獣もおる。ほんじゃあ、ここでほったて小屋か、穴を掘って生活すればええ。へえーーじゃあ、畑でも作ろうか。
どうせ原始人なんだから、道もなければ車もにゃあ。何にもないから喰えればいい。

あ、そうか、獣も家畜も人間と一緒で、やることやれば増えるのだ。そうして、水があって住みやすい所で生活すればええ。ほんなら、住むのは川のそばええ。原始人は、家畜と僅かな農業で食べた。雨が降らなんだら雨乞いをした。太陽が照らなんだら空に拝んだ。そして、良いことがあっても、悪いことが起きても、神様のせいにした。

食料がすべてだった。喰うために、生きていた。でも恋愛もした。昔から、異性に惚れた。だから子孫が増えた。
喰うことだけが大切な原始人の悩みは、食料の確保と保存だった。腐るんですよ。腐る。冷蔵庫もなければ、何もない。採ったものを手で掴んで喰えば良かった時代は終わった。

原始人も考えた。木と木を擦り合わせて焼く。毎日焼けば腐らない。でも困った事に貯蔵庫がない。ほ~う、また考えた。入れ物作ればええ。赤土を固めろや。そして土器がでけた。でけた土器を焼いた。焼いたら崩れなんだ。崩れなんだら今度は炊けた。毎日炊いたら腐らない。こんな事で、茶碗も皿もでけた。

毎日こんな自然の中で生活していたが、いつからか船に乗った渡来人が大陸から来た。渡来人は九州北部、出雲、また対馬海流に乗って、丹後や北陸にも到来した。そして稲作を伝えた。渡来人はこの国が住みやすいと思い、定住した。また、祖国に帰りこの国を往来した。植民地化もしたし、時には喧嘩もした。恋愛もあり強姦もした。そして、縄文人と渡来人が融合して、弥生人が誕生した。

稲作は、朝鮮半島から伝わった。そして米という保存もきいて、とても美味い食料を手にいれた。人々は、水田を作りその土地に永住した。

米は、食料として最高の御馳走だった。弥生人にとって、稲はとても神秘的で、神の副産物だったのだろう。すべてが、この為に動いたのだ。お天道様も水も絶対に欠かせない事を人は誰でも知っていたし、いつも太陽や雲に拝んでいた。恵みも、死も神様が支配していたのだ。

丹後の峰山、比治山かいさなご山に八人の天女が舞い降りた。そして一人の天女が天に帰れなくなった。その残された天女は、とてもよく働き、米の作り方と酒の作り方を教えた。そしてその天女こそが豊受大神となり、弥栄の奈具神社に舞い降りた。ここから、丹後人の豊受信仰が始まるのだが、言い換えると、朝鮮から渡来した女性を拉致し、向こうの稲作と酒作りをさせた。あまりの有り難さに、この女性が神様のようだった。この恵みをもたらせてくれた女性は、穀物の神様だと信じた。豊=豊かな 受け=うかであり、宇賀である。五穀豊穣の女神なのである。

そして、この丹後の女神が、皇室の最高神である天照大神とともに、伊勢神宮にお祀りされたのだ。言い換えれば、丹後の最高神と邪馬台国(もしくは大和朝廷)の最高神が古代に祀られたのは、偶然では無く、古代国家の重要なキーポイントなのだと思う。

その話は後日書くが、渡来人は、もうひとつ、鉄という素晴らしい物を伝えた。鉄は、武器にもなり、工作にも都合が良かった。石器とは比べ物にならない道具だった。鉄を確保する為に、丹後では、水晶加工などの工房を造り、大陸の鉄製品と交換した。丹後のガラス工房は、国内最古最大の規模である。そして、日本最古の製鉄所も発見発掘され、大量の鉄製品を生産していた。


話は前後したが、そんな矢先、各地で定住した氏族が、やがて、水や農地の取り合いになり、大喧嘩が起きた。喧嘩はエスカレートし、弓や槍で人を殺した。弱い部族は降伏し、奴隷になった。氏族が部族になり、今度は部族と部族で大喧嘩した。これを戦争と言ったのかもしれない。奴隷にしていた者も一緒に戦った。そして、相手に勝てば地位が貰え、その下にまた奴隷ができた。そんな事が続いて、階級ができた。首長がいて参謀がいた。部族同士の争いごとは、ある所で線が引けた。それは山であり、大きな川である。それを境に国が誕生した。

国の中でも争い事は絶えなかっただろう。しかし、そこには、圧倒的な支配者や権力者がいた。それが王である。

支配力があるから、物や穀物を作らせた。生産性が上がり貿易ができた。そして、いち早く武器を取り入れ、その対価として、水晶などの加工品を大量に輸出した。貿易をするには、航海術が必要だった。丹後の海人族は、すべてを兼ね備えていたのだ。
王は、強いだけでなく、カリスマ性もあったのだろう。人々から信頼されて支持を得ていたに違いない。
そんな王が、邪馬台国以前に丹後には存在していたのだ。そして倭の国、大和朝廷を築く原動力になった。
ここからは、多くの文献や、物的証拠が存在するので、現地を調査しながら、ブログを進めたい。

丹後王国は、日本海側で最大の古墳と、6000もの墳墓、古墳があり、古墳密度は全国一である。

地域独自の王権と支配体制があり、独自の信仰、イデオロギーがある。
ある程度、一定の政治領域が確定できる。また王に支配力、軍事力がある。
高い生産力があり大陸と貿易していた。


檜原神社  元伊勢参詣第五番

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精霊に注目。驚きの写真です。








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檜原神社

次に参拝した元伊勢は『檜原神社(ひばら じんじゃ)』です。
同じ三輪山の麓にあるのですが、初めて訪れると大変わかりにくい。
大上神社からは、徒歩か、自転車がいいだろう。山野辺の道は歴史街道である。



奈良の寺社観光ガイド > 山の辺の道より

元伊勢の「倭笠縫邑」があった場所です

大神神社から、山の辺の道を歩いて30分弱の距離にある『檜原神社』。

ここは、それまでは宮中に祀られていた天照大御神を、初めて外で祀っ た「倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)」の地と考えられています。ここ から全国にある「元伊勢(もといせ)」の地を移動し、現在の伊勢神宮 (内宮)に祀られるようになった、その出発点とも言うべき場所に当た ります。

(元伊勢)檜原神社と豊鍬入姫宮の御由緒

大神神社の摂社「檜原神社」は、天照大御神を、末社の「豊鍬入 姫宮(とよすきいりひめのみや)」(向かって左の建物)は崇神 天皇の皇女、豊鍬入姫命をお祀りしています。

第十代崇神天皇の御代まで、皇祖である天照大御神は宮中にて 「同床共殿(どうしょうきょうでん)」にお祀りされていまし た。同天皇の六年初めて皇女、豊鍬入姫命(初代の斎王)に託 され宮中を離れ、この「倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)」に 「磯城神籬(しきひもろぎ)」を立ててお祀りされました。そ の神蹟は実にこの檜原の地であり、大御神の伊勢御遷幸ののち もその御蹟を尊崇し、檜原神社として大御神を引続きお祀りし てきました。そのことより、この地を今に「元伊勢」と呼んで います。

檜原神社はまた日原社とも称し、古来社頭の規模などは本社で ある大神神社に同じく、三ツ鳥居を有していることが室町時代 以来の古図に明らかであります。

萬葉集には「三輪の桧原」とうたわれ山の辺の道の歌枕とな り、西につづく桧原台地は大和国中を一望できる景勝の地であ り、麓の茅原・芝には「笠縫」の古称が残っています。

また「茅原(ちはら)」は、日本書紀崇神天皇七年条の「神浅茅 原(かむあさぢはら)」の地とされています。更に西方の箸中 には、豊鍬入姫命の御陵と伝える「ホケノ山古墳(内行花文鏡 出土・社蔵)」があります



檜原神社は元伊勢らしい雰囲気があります。境内の案内板にもその由緒が記されています。
檜原神社の鳥居。珍しい三つ鳥居と呼ばれる形式です。大神神社と同様に、2本の柱にしめ縄を渡す。

「三ツ鳥居」という形式を残す『檜原神社』、御 祭神は天照大神若御魂神・伊弉諾命(いざなぎのみこと)・伊弉冊命 (いざなみのみこと)。向かって左手が「豊鍬入姫宮(とよすきいりひめ のみや)」です

「第十代崇神天皇 の御代、それまで皇居で祀られていた「天照大御神」を、皇女・豊鍬入姫 命に託し、ここ檜原の地(倭笠縫邑)に遷しお祀りしたのが始まりで す・その後、大神様は第十一代垂仁天皇二十五年に永久の宮居を求め各 地を巡幸され、最後に伊勢の五十鈴川の上流に御鎮まり、これが伊勢の 神宮(内宮)の創祀と云われる」

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鳥居と境内の空間に写る精霊(白く丸いもの)驚きました。
また、私のような霊感の乏しい者でもパワースポットを感じました。

茅原  元伊勢参詣第四番




次に向かった笠縫邑元伊勢伝承地は、桜井市の茅原付近とある場所。
この辺りは道が狭くて入り込んでいるので、徒歩又は二輪車が良いだろう。しかし、天気だけはどうしようもない。
この伝承地は、辺り一面荒れ地と化し、花が咲き乱れていた。神社も祠もない。
最初から無かったのか、言い伝えだけなのか、何処かへ移動されたのかもしれない。

志貴御懸坐神社 元伊勢参詣第三番

志貴御懸坐神社




磯城瑞籬宮跡


志貴御懸坐神社(しきのみあがたにいます神社)

志貴御懸坐神社は、古代大和国の中心地、つまり、三輪山の麓に鎮座する。
場所を探すのに一苦労する。桜井市の天理教会の、ちょうど真裏である。
なんと、この元伊勢伝承地は丹後のアメノホアカリ(海部氏の祖、にぎはやひの別名)大和国の祖である天津神饒速日命(あまつ神、にぎはやひの みこと)を祀る式内社である。

あまりに薄暗くて不気味だ。境内には崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきみづがきのみや)の跡 地を示す石碑が建っている。

ご祭神が 、神武天皇より先に大和にいた饒速日命(にぎはやひのみこと) であること、その上崇神天皇といえば、実質の大和朝廷初代天皇である事から、この神社は、古代丹後丹後王国と大和朝廷とのかかわりが浮き上がる貴重な社だと思う。ここは、崇神天皇の皇居があった場所であり、その地に、丹後海人族海部氏の祖神が祀られているのだ。
志貴御県坐神社は、地元では「しきの宮さん」の名で親しまれているそうである。
このような神社を維持するのは本当に大変な事だと思うが、古都奈良県でもあるし、なんとか維持して戴きたい。
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第10代崇神天皇しきのみずがきのみや 磯城瑞籬宮 の跡地とされるが、実際の宮跡はこの神社の境内ではなく、境rps20110727_102143.jpg
内の西側にある天理教会の建物とその 隣りの三輪小学校のあたりにあったのではないかと推定されている。

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伊勢鳥居は、伊勢の正銘であり、天皇陵も伊勢鳥居である。

大和朝廷の創始者である崇神天皇は、事実上の初代天皇といわれており、神武天皇と 同じく「ハツクニシラススメラミコト」と称されていること、そして、年代的にも、当時の歴史的背景からもほぼ確実だろう。
また、第九代開化天皇の妃が、丹後の竹野姫であることから、邪馬台国が大和に存在し、大和朝廷と深い繋がりがあったとするのであれば、古代丹後王国が、大和朝廷を造る大きな原動力になっていたのではないか。

崇神天皇は、ニギハヤヒが大和に入るまでからの、三輪山の大物主神を祀り、太田多根子に拝ませた。
また、元伊勢伝承である、天照皇大神と倭大国玉神(やまとのおおくにたまのかみ)の二柱を宮中から他へ遷宮の旅に出した。
元伊勢の旅は、丹後国と大和国の遺産であり、古代史の秘密が隠されているのだ。


多神社:元伊勢参詣2




多坐弥志理都比古神社 (多神社)  7月7日

さて、笠縫神社を後にして、次に向かったのも、笠縫神社である。
先程参拝した笠縫神社から約1キロ程度の距離です。
ネットで検索して、同じ田原本町の多神社の境内にあるという。
九州に多氏という古代の氏族があり、神武天皇が祖であるから、その九州の流れではなかろうか。
多氏といえば、名字に頭に久が付く姓の後裔の方が多く、日向の隼人族を連想してしまうのである。
それにしても、この辺りは、多という地名であるが、多姓の苗字が多いようで、多神社の由来は、日向から来ているとしか思えない。
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祭神 神武天皇・神八井耳命・神沼河耳命・姫御神・太安万侶 由緒 社伝によると、神武天皇の皇子神 八井耳命がこの里に来られ、…我、 天神地祇を祀る…と いう由緒をもつ。 平安時代の『延喜式』にも名がみえ る大和でも屈指の大社である。神八 井耳 命を始祖とする多氏によって祀 られ、中世には国民である十市氏に よって支えられた。また、 本神社の 南には、古事記の撰録にあたった太 安万侶を祀る小杜神社や皇子神命神 社、姫皇子命 神社、子部神社、屋就 命神社の若宮がある。 本殿は、東西に一間社の春日造が 並ぶ四殿配祀の形式をとる。江戸時 代中頃の建築様式をよ く残すもので、 奈良県の指定文化財になっている。 なお、本地は弥生時代の集落遺跡 として著名である。

-境内案内より-





笠縫神社

笠縫神社


本来、天照大神が遷宮された元伊勢は、二十四ヶ所と云われるが、伝承地とされる神社や場所 は、百数十ヶ所もある。笠縫神社と呼ばれ、元伊勢伝承の神社も、二社ある。資料によるとご出 発された笠縫邑が33年とあり、その遷宮されたとされる伝承地は、9ヶ所である。

笠縫神社




この笠縫神社は、泰楽寺境内にあるが、大化の改新で有名な、藤原氏の春日神社の 摂社として隣にあるのだが、どうもこの狛犬、向きを見て驚いたのである。春日社を御守りして いるかのようだ。何か訳があるのであろうか。 笠縫神社側には御神塔こそあれ、スフィンクスとも云える狛犬が無いのである。

笠縫神社




当然、ご祭神は、天照皇大神です。

元伊勢参詣の旅 1 大和国笠縫神社

元伊勢参詣の旅1:笠縫神社




笠縫神社 7月7日

元伊勢とは、天照皇大神が安住の地を求めて、大和国笠縫村を出発され、伊勢神宮に辿り着くまでの二十数ヵ所の遷宮地をいいます。また、伊勢神宮に鎮座した天照皇大神が、当時の丹波国(丹後)から豊受大神を呼ばれました。
伊勢神宮内宮には天照皇大神が、外宮には丹後の神様、豊受大神がお祀りされています。

今回は、大和国笠縫村の笠縫神社のご紹介です。
奈良市内から国道24号線を南下すると、田原本町に出る。近鉄橿原線笠縫駅付近に泰楽寺があり、そこの境内に元伊勢笠縫神社がある。小さな神社ではあるが、手入れが行き届き、綺麗に清掃されていた。

石川五右衛門丹後幾地説4

幾地説


戦国時代、一色氏家臣として支えた坂根家古文書
これだけでなく、同じ坂根家一族にも、同じような史料や古文書が存在する。
はっきりと書かれた五良左衛門の存在…。

※伝説は伝説であり、史実と異なるのかもしれない。しかし、何も無ければ伝説は始まらない。歴史家の先生とお話ししていると、ロマンを求めてお話しされるタイプと、「これはこうだからそうでは無い」と、徹底的に追求するタイプの方がいるようです。先日、伴とし子さんの講演会に行ったが、古代丹後王国の研究と限りないロマン溢れる講演に感激した。郷土の伝説は、可能性のある限り、ロマンを残しつつ調査したい。
何事においても否定的な人とは、話をしても、つまらない。
日本神話やおとぎ話が、何故面白いのか。…創られた中に、真実も隠されていて、なかなか答えの出ない推理ができるからだ。歴史は面白い。特に丹後は。

石川五右衛門丹後幾地説3

石川五右衛門伝 (但馬丹後丹波 たんたん紀行)


石川五右衛門伝

歌舞伎でもおなじみ石川五右衛門
「百日蔓の大盗人」というのが通り相場だが、実像には謎が多い。 出生地についても諸説紛紛。そのひとつに野田川町出身説がある。
「石川五右衛門(いしかわごえもん) 一五五八~一五九四
「石川五右衛門はそのむかし、幾地(当時は伊久知) 山城主だった石川左衛門尉秀門の次男として生まれた」というのだ。その根拠と推理はさておき、 まずは同地を訪ねてみた。
野田川町幾地は、むかしから「丹後ちりめんの里」として有名だ。 歩いていると、道端の家から機音が間こえてくる。その機音に包まれ静かにたたずむ、養源院というお寺の裏手に「史蹟伊久知城趾」と書かれた石碑が建ってぃた。幾地出身説、 その他である。石碑の右手には確かに「石川五右工門出生之地」とも刻まれていた(昭和三十九年建立)。それにしても本当にここで、石川五右衛門は生まれたのだろうか。
石川五右衛門幾地出身説はまず、大田亮著の『姓氏家系大辞典』 の「石川氏」の項に触れる。それによると、「伊賀の平姓石川氏で、川合一族中にて平信兼の末裔なり。丸の内に梶の葉。大盗石川五右衛門は丹後の石川氏とも、 伊賀者忍者より出づともいう」とある。
次に、地元の老人たちで幼いころに、″ 天下の大盗賊石川五右衛門はこの土地の出じゃ″ という話を聞かないで育ったものはない、という共通したコメントだ。そしてこれらを受け、昭和四十四年に発刊された「野田川町誌」 では、地元の郷土史家たちが本格的に資料の収集、分析を行い、その結果が「石川五右衛門の出生地考」として収録されている。
さて、そのいきさつを同町幾地に住む郷土史研究家、 浪江重雄さん(六三)の説明でひもといてみよう。     
それによるとまず、舞鶴市立西図書館にある『丹後 旧事記(くじき)』という本が登場する。この本は、江戸時代初期から中期にかけて編さんされたものらしいが、 丹後地方史を語るうえで比較的価値の高い資料だという。その中に、「秀門、天正十年田辺城(宮津城説もある)にて討死、嫡男文吾秀澄は弓木山の戦(与謝郡岩滝町)に討死す。次男五良左衛門はのち大閤秀吉公の伏見城にはいり千鳥の香炉を盗 んだが、仙石権兵衛につかまり、京都七条河原にて御仕置うける」との記述がある。色白い若君で和歌と謡曲の名手『一色軍記』などによると、秀門は丹後守護職一色義俊の家臣で、 足利幕府が減んだ天正元年(一五七三)のころ伊久知城主になった人物。しかし、 義俊は足利家の血を引く身の上。当時、天下を手中に収めんとしていた信長にとっては、 気になって仕方がなかった。そこで話は前述のいくさへと進む。五右衛門幾地出生説は、この秀門の嫡男、文吾秀澄の妹、 菊寿が嫁いだ坂根斎――秀門の次の城主、その後代々庄屋を務める―― の子孫(養子)が名のりをあげたことで急浮上した。この人は、大阪市内に住む坂根さんで、坂根家十五代日になる。昭和三十九年、同家で「代々家宝として間外不出、 人に見せてはならぬ」との口
伝が残る系図が見つかった。系図には「文化十二年(一八一五)写す」と記されているが、それには、石川次郎秀廉から始まり、石川左衛門尉秀門へ、 そしてその下に右から連名で、文吾秀澄、菊寿、五良左衛門とある。つまり『丹後旧事記』の中に登場した「次男五良左衛門」が、 初めて実在する他の資料の中に浮かびあがった、という訳でる。さらに、坂根家の家伝では、「五良左衛門は面長、色白い若君で和歌と謡曲の名手だった」といわれている。また、 地元の老人たちはその所行を、「伊久知城落城の際、二十四歳だったであろう青年石川五良左衛門が、父、兄らの無念を晴らそうと、 当時、一色氏の守護代として伊勢にもあった石川家を頼っていき、伊賀に入って忍者修行をしたのでは」と信じているとも。悪事の限りをつくした天下の大盗賊、 釜煎の極刑に付された大悪党、石川五右衛門像は、かなり開きがある。また、歌舞伎「 楼門(さんもん)五三(ごさんの)桐(きり)」で南禅寺の山門の欄干に片ひざをつき、
「絶景かな、絶景かなァ」と大見栄をきり、長い掛け合いの後、下に控える 真柴(ましば)久吉(ひさよし)が、「石川や浜の真砂はつくるとも 世に盗人の種子はつくまじ」と応える名場面から連想される石川五右衛門とも、 少々違うようだ。お墓は信長父子と同じ大雲院に坂根家所蔵の系図と『丹後旧事記」にある「五良左衛門」が「 五右衛門」と同一人物であることを確定する資料はなにもない。名前の文字がひとつ多いなどということは、昔はよくあったとはいうが……。真実はやはり謎だ。ただ、 坂根家の口伝も含め、これらの資料が正しいとすれば、石川五右衛門の出生にひとつの大きなヒントを与えたことになる。石川五右衛門の出生を、クエッションマーク付きで、「 国民百科事典」の通り永禄一年(一五五八)とするなら、それから、四百年以上の月日が経っている。 謎が謎を呼ぶのも当然かもしれない。

野田川町幾地から、京都市東山区祇園町ヘやってきた。 八坂神社南側に大雲院がある。寺号は、織田信長の子、信忠の法号から付けられたという。寺の裏手が墓地になっている。墓地には、正面に信長父子の墓がある。そして、 その墓地の一角になぜか、石川五右衛門の墓もある。周りの墓より大きく、「 融仙院(ゆうぜんいん )良(りょう)岳(がく)寿感(じゅかん)禅定門(ぜんじょうもん )」という院号が刻まれて……。
もとは四条河原町の繁幸な一隅にあった。そこは今、 駐車場に変わっている。

(87年5月)

※幾地臨済宗養源院には、石川氏累代に位牌がある。
また、京都大雲院の墓地前にある宝鏡院塔には坂根家の名前が彫られている。(明治時代)
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石川五右衛門丹後説2

◎野田川町 史


近世文化と野田川町 安土桃山時代 織 田 政 権 と 石川五右衛門丹後説

応仁の乱後、約一世紀にわたる全国的な争乱は、 各地方における強力な大 名の出現により、割拠の体制を示したが、やがてその間から次第に統一の機 運が高まった。
一五七五年(天正三)になると、織田信長は、 明智光秀を起 用して丹波の経営に当らせ、同年一月丹波国の領主を命じている。ところ が、当時丹波には、赤井直政(荻野悪右衛門ともいう。)が、 同国の水上郡 黒井城に居ったので、光秀の丹波攻略は容易でなかった。

やがて、一五七九年(天正七)五月、信長は家臣である羽柴秀長、 丹羽長 秀に光秀の応援を命じたので、ここに、丹波国を平定することができた。
一 方、丹後国は、一色義通が、一五五八年(永禄元)、領主となって、 将軍足 利義昭に仕えていた。義昭は、信長の援助により将軍職に就くことができた ので、当初両者の間柄は父子に準ずべきものであった。しかるに、 義昭は、 信長の勢力の強大になることを恐れ、ひそかにその暗殺を企てた。
このこと を知った信長は、一五七三年(天正元)、ただちに義昭を京都から追放し、 室町幕府はここに滅亡した。しかるに、一色義通は、 足利氏の重臣であった が、一五七五年(天正三)、信長に従い、丹後国はそのまま一色氏に与えら れた。義通は、無道な行状が多かったので、信長は、 ただちに細川藤孝に命 じて丹後国を攻撃させた。
これすなわち、一五七八年(天正六)四月のこと で、藤孝は、その子忠興、興元らとともに、十月丹後国に入って、翌十一 月、宮津八幡山に出陣、一色氏と戦った。一色、細川両氏は、 応仁の大乱後 ふたたび相まみえたのである。かくて、この戦いは、細川氏の敗退となっ た。藤孝は、光秀に請い、与謝郡日置城主松井四郎右衛門 との政 策結婚を思い立ち、わが女を松井氏に与えて味方に引き入れた。
やがて、加 悦城主の有吉氏も細川方に加わった。
この情勢からして、一色氏は、翌一五 七九年(天正七)一月に、加佐郡建部山城 を出て、同郡東雲の中山城に入った。城主沼田幸兵衛は、 こ のことを細川方に内通した。
藤孝は、急いで十七部将に命じて中山城を攻撃 させた。
一色方は、大江越中守(三重城)を初め、金谷伊豆守(石川城)、 石川左衛門尉秀門(幾地城)、赤井五良(四辻城)、塩見(垣見) 筑前守 (山田城)など十三部将が奮戦した。
戦は、三月におよんだので、城主沼 田幸兵衛は、城内に火をつけ細川方に味方した。
一色方は戦敗れ義通は 由良川の畔で従者と共に自匁した。義通の子義俊は、危難を免がれ、与謝郡 弓木城に退いた。城主稲富伊賀守は、「砲術」を究めていたので、 ここを一 色氏の根拠と定め諸将を統卒した。

その後、細川氏は、丹後攻略に関して明智光秀に今後の策を請い、 やが て、丹後二分の方針が定められた。
すなわち、一色氏には、中、竹野、熊野 の三郡を領有させ、細川氏には与謝、加佐の二郡が与えられ、たがいに織田 信長に従うようにした。時に一五七八年(天正八)七月、細川忠興は、 信 長より丹後十二万石を与えられ、翌八月に、父藤孝と共に官津城(陣館式) に移り、翌一五七一年(天正九)三月、丹後国の所領を検地した。
一色、 細 川両氏の和議が成立したのは、この年の五月に、藤孝の娘伊也を一色義俊に 嫁したことにある。かくて、丹後の八十五名の諸将は、それぞれ、細川の本 城田辺(藤孝の築城)と一色の居城弓木に勤めた。やがて、一五八二年( 天 正一〇)一月(一色軍記による)に、忠興は、義俊に対し兄弟の提携を田辺 において祝することを考え、義俊の返事を待った。義俊は、ただちに奥三部 の諸将に報じ、弓木在城の地侍、大江越中守、垣見(塩見)築前守、 荻野悪 右衛門(赤井直政)、赤井五郎、同平治、石川左衛門尉秀門、同文吾、同五 良左衛門、金谷伊豆守詮元その他の武将と評議し、 田辺城に出向くことを決 した。従う者は、石川左衛門尉、同文吾、金谷伊豆守その他であった。とこ ろで、田辺城に入った先の沼田幸兵衛と石川左衛門尉、 金谷伊豆守とは対談 したが、やがて争論となった。

かくして、沼田幸兵衛は、石川左衛門の右肩を切りつけ、 他方義俊も、忠 興に謀殺されたのである(細川家記録には九月八日)。
金谷伊豆守、石川文 吾は、急ぎ弓木城へ馳せ、一色氏の危機を報じた。
伊豆守は、 与謝郡石川城 へ籠り、文吾は、弓木にて義俊の叔父中郡古原城主一色義清を迎えた.( 一 色義俊の謀殺時、石川左衛門尉の家臣坂根斎も討死する。)かくて、一色、 細川の大激戦となった。田辺城の細川藤孝は、その子興元、松井四郎右衛 門、有吉将監を陣将として出陣させ、三方より一色氏の包囲を行なった。
す なわち、温江、石川の城をはじめ、一色氏の諸城はほとんど落城し、 石川城 主金谷伊豆守は、加悦城の有吉将監、三河内山城の有吉玄蕃頭のために、 一族一五三名と共に切腹し果てた(石川の金谷三良左衛門氏宅に、 金谷氏系 図並びに一色義俊の位牌がある。前一色賞雲源忠大禅定門、大正拾壬午九月 八日)。五月に、細川方の攻撃は強まってきた。このとき、 弓木に籠城して いた一色義清は、細川の本陣に突入、途中官津大手川付近で切腹し、一色氏 は滅んだのである。一色氏が、丹後国を支配してより約二四〇年という( 細 川家記録九月二十八日)。

弓木城落ちてより、一色氏の家臣は、細川氏に従うものが多く、 石川亀山 城主石川悪四郎、幾地城主坂根道秀(石川文告が弓木城で九月二十八日戦死 後、その家臣坂根氏城主となる。)、幾地別城主赤井五郎時綱( 後安田貫助 と改める。)などがあった。かくして、細川氏は、丹後国を領有することに なり、藤孝は田辺城に、忠興は官津城に居を構え、興元は吉原城(峰山と改 める)に、松井四良右衛門(佐渡守)は久美浜の陣代とし、有吉将監( 武蔵 守)は加悦谷の陣代に、有吉四良右衛門(玄蓄頭)は加佐郡中山城主に任ぜ られた。かくて、この年十月、丹後国全土は細川氏の支配となった。    

※昭和40年代に発刊された野田川町史である。当時のこの記事は、「一色軍記」が元になっているようなので、脚色された部分や、間違いも多い。しかし、日本書紀、古事記をはじめ、古来から伝わる伝記ものは、それはそれでミステリーを生み、良いのではないか。すべて正しい文献事態、探すのに無理がある。史実と伝説は異なる事もある。時代が変われば、調査も進み、新たな発見もある。一色氏の謀殺事件は、九月八日、宮津城米田屋敷と思われる。



◎石川五右衛門の出生地考

――丹後説を裏づける坂根家系図から――

″石川や浜の真砂は……のあの大盗賊石川五右衛門が文禄三年( 一五九五年) 八月二十四日、京の三条河原で釜煎りの成敗にあったという。 ところで五右 衛門の実在性については、種々云われているが、「言経卿記」(山科言経日 記)「続本朝通鑑」「歴朝要紀」のほか、江戸時代の読本や黄表紙といった 資料に記されているので、その実在性は疑えない。問題は石川五右衛間の出 生地である。太田亮著の「姓氏家系大辞典」の石川氏の項に、“ 伊賀の平姓石 川氏で川合一族中にて平信兼の末裔なり、丸の内に梶の葉(註家紋)、 大盗 石川五右衛門は丹後の石川氏とも伊賀者忍者より出づとも云う”とある。五右 衛門は遠州浜松の出身だとの俗説もあるが、これはおそらく浄瑠璃作者並木 宗輔の「釜渕双級(ふたつ )巴(ともえ)」などの創作による影響であろう。 これは浜松 の大名大野家の家臣真田蔵之進幸貫がお家騒動で悪人の迫害を受け河内にの がれて石川五右衛門と名のり、盗賊をはたらくという筋書である。創作のこ とだし、出身地についての信頼性はまずないと云える。

五右衛門の出身地は「姓氏家系大辞典」 にもあるとおり丹後か伊賀に落付 くと思うが、いかなることか伊賀説が支配的である。 これは小説などの影響 が大きく反映しているのであろう。
壇一雄の小説「真説石川五右衛門」や、 故上司(かみつかさ )小剣氏の「石川五右衛門の生立」 にしても伊賀の生まれとして 描かれている。 “幼名文吾、父は由緒ある武士石川左衛門の後裔で先祖代々 伊賀の郷士であったが、だんだん家が衰えて多くあった山林田畑も売り払 い、その日の米や塩にも困るよぅになった”とか“ 忍び足の法がこんなにまで 人に気付かれないで、役に立つものかということは文吾自身にさえ驚かれる 思いであった”(石川五右衛門の生立)と書かれている。 なるほど小説や芝居 では伊賀者に仕立てたほうが、面白いに違いない。 しかし五右衛門は本当に 生えぬきの伊賀者だったのだろうか。この町の老人たちは幼いころに″ 天下の 大盗賊石川五右衛門はこの土地の出じゃ″という話を聞かないで育ったものは なかった。

かくして五右衛門の出生資料を徹底的に集めることになり、 やがて、いく つかの資料のうち「坂根家系図」が最も有力なものであった。 これは大阪市 内で洋服商を営む坂根久二氏の所蔵で、久二氏は坂根家十五代目といわれ る。この系図の初代に坂根斎という人物がおり、 丹後国伊久知城主石川左衛 門尉秀門の娘菊寿を妻としていた。「 細川軍談」「一色軍記」 などで知られ る細川氏と一色氏との争いは天正十年(一五八二年)に至って頂点に達し、 一色義俊は細川氏の居城田辺城(舞鶴)で家臣の武将二十余人と共に謀殺さ れた。この家巨の中には石川左衛門尉秀門もおり、 この後に続く弓木城の戦 いで、左衛門尉の長男文書秀澄も討死した。小説「石川五右衛門の生立」 に 出てくる文吾は、この秀澄ではないだろうか

かくて一色氏の丹後支配二百四十年の歴史は、 こうして細川氏のため終止 符を打たれたのであった。それと共に石川氏は伊久知城もろともに解体され たのである。このようなことを予想していたのか、 左衛門尉は娘菊寿を随一 の家臣坂根斎に嫁がせていた。ところでここに問題なのは、 坂根家系図に左 衛門尉の二男としてはっきり記されている五良左衛門なる人物の「その後」で ある。伊久知城落城の際は二十四才のはずで、 落城の前に行方をくらまして いる。ここで五良左衛門を大盗賊石川五右衛門と同一人物とみるわけだが、 実 のところ、どのような足跡で三条河原で成敗となったか、ただ一色氏の守護 代として伊勢にも石川家があったというから、或いは父、兄らの無念を晴ら そうと青年五良左衛門が、その石川家を頼っていき、 伊賀に入って忍者修業を したのだと考えられないだろうか。この町の古老たちは、これが最も自然 で、したがって事実に相違ないと信じている。
かくして五良衛門が行方をく らましていたのは、もはや丹後で、石川姓を名のることすら許されぬ厳しい 残党狩りを恐れたからというだけではない。親、兄弟、 主家の仇を討とうと 悲願をいだいて幾地を飛び出した五良左衛門であったと考えてよいであろ う。

石川家・坂根家系図

大和国高市郡石川村出身石川次郎秀廉………秀吉―左衛門尉秀門―(秀澄、菊寿、五良左衛門)
(坂根斎、妻菊寿)―道秀―道賀―勇寛―治兵衛―喜平太―市助―七兵衛―又四郎―平左衛門―安五郎―安五郎―安五郎―安五郎―続く。(同名は襲名による)

元伊勢遷宮の旅

元伊勢参詣の記録です。

★マークは、参詣した神社です。元伊勢すべてを廻ります。
 
元伊勢は、三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮(皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮))が、 現在地へ遷る以前に一時的にせよ祀られたという伝承を持つ神社・場所をいいます。

伊勢内宮の祭神である天照大御神は、第十代崇神天皇の時代までは天皇と「同床共殿」であったと伝えら れます。つまり皇居内に祀られていたが、その状態を畏怖した同天皇が皇女である豊鋤入姫命にその神霊を託して倭国笠 縫邑に移したのに始まり、更に理想的な鎮座地を求めて各地を転々とし、垂仁天皇の第4皇女倭姫命がこれを引き継 いで、およそ90年をかけて現在地に遷座したと伝わっている。
『日本 書紀』で簡略に、『皇太神宮儀式帳』にやや詳しく、そして中世の『倭姫命世記』においてより詳述されている。ま た、外宮の祭神である豊受大御神は、『止由気宮儀式帳』や『倭姫命世記』によれ ば雄略天皇の時代に天照大御神の神託によって丹波国(丹後国)から遷座したと伝えられている。

天照大御神が遍歴する説話は、一般の神社の縁起でも鎮座地を求めて神が旅する話は多いので、「旅する神」の典型的な類型であ)るとされ る。
一般的に、天照大御神は卑弥呼といわれており、丹後の豐受大神との繋がりは、古代史を研究する重要な手懸かりとなりそうです。
邪馬台国の卑弥呼には、宗女台与(とよ)がいた。


元伊勢の一覧

【皇大神宮 】


豊鍬入姫命巡歴

宮名(地名) 候補地(伝承地) 日本紀 儀式帳 世記

■大和国(倭国)
笠縫邑 (33年)
★檜原神社(大神神社摂社) 奈良県桜井市三輪
★巻向坐若御魂神社(穴師坐兵主神社右殿) 奈良県桜井市穴
★奈良県桜井市茅原あたり
★笠縫神社(多神社境外末社) 奈良県磯城郡田原本町秦庄(秦楽寺境内)
★志貴御県坐神社付近 奈良県桜井市金屋
★笠山荒神宮 奈良県桜井市笠
★天神社 奈良県桜井市小夫
★飛鳥坐神社 奈良県高市郡明日香村大字飛鳥

■丹波(但波)国 (丹後国)
吉佐宮(4年)
★真名井神社(籠神社摂社) 京都府宮津市江尻
★皇大神社 京都府福知山市大江町内宮
★笶原神社 京都府舞鶴市紺屋
★竹野神社 京都府京丹後市丹後町宮

■倭国
伊豆加志本宮(8年)
笠縫邑と同所
三輪山 奈良県桜井市三輪
★与喜天満神社 奈良県桜井市初瀬字与喜山
★長谷寺 奈良県桜井市初瀬
★奈良県桜井市初瀬(鳥居跡)

■木乃国(紀伊国)
奈久佐浜宮(3年) 濱宮 和歌山県和歌山市毛見
吉備国 ※
名方浜宮(4年)
★伊勢神社 岡山県岡山市北区番町
★内宮 岡山県岡山市南区浜野1丁目
穴門山神社 岡山県倉敷市真備町妹
穴門山神社 岡山県高梁市川上町高山市
★神明神社 岡山県総社市福井字神明240番地
今伊勢内宮外宮 広島県福山市神村町
伊勢部柿本神社 ※
和歌山県海南市日方
国主神社 ※
和歌山県有田郡有田川町長田
※「吉備国」を「紀伊国 名草郡 吉備郷」と見る説もある。

■倭国
弥和乃御室嶺上宮(2 年)
高宮神社(大神神社摂社) 奈良県桜井市三輪字神峯
三輪山 奈良県桜井市三輪
倭姫命巡歴
宮名(地名) 候補地(伝承地) 日本紀 儀式帳 世記

■大和国(倭国)
磯城厳橿之本 (「一云」に記 載) 伊豆加志本宮に同じか
美和乃御諸宮 弥和乃御室嶺上宮 大神神社摂社高宮神社
宇太乃阿貴宮 宇多秋宮(4年) 阿紀神社 奈良県宇陀市大宇陀迫間
菟田筱幡 佐々波多宮 佐佐波多宮
篠畑神社 奈良県宇陀市榛原山辺三字篠畑
葛神社 奈良県宇陀市榛原山辺三
御杖神社 奈良県宇陀郡御杖村神末
奈良県宇陀市室生大野あたり

■伊賀国
隠(なばり)市守 宮(2年)
宇流冨志禰神社 三重県名張市平尾
三輪神社(現在箕輪神社に合祀) (旧社地)三重県名張市箕輪中村字五百刈
蛭子神社 三重県名張市鍛冶町
田村大明神(現在美波多神社に合祀) (旧社地)三重県名張市東田原
名居神社 三重県名張市下比奈知
伊賀穴穂宮 穴穂宮(4年)
神戸神社 三重県伊賀市上神戸
常福寺 三重県伊賀市古郡
猪田神社 三重県伊賀市下郡
阿閇柘殖宮 敢都美恵宮(2年)
都美恵神社 三重県伊賀市柘植町
敢國神社 三重県伊賀市一之宮

■近江(淡海)国
近江国 甲可日雲宮(4年)
垂水頓宮址 滋賀県甲賀市土山町頓宮
大神宮社(現在三上六所神社に合祀) (旧社地)滋賀県甲賀市土山町鮎河あたり
皇大神宮(若宮神社境内社) 滋賀県甲賀市土山町大河原
高宮神社 滋賀県甲賀市信楽町多羅尾
桧尾神社 滋賀県甲賀市甲南町池田
神明社(上乗寺境内社) 滋賀県湖南市三雲
神明神社 滋賀県湖南市夏見
日雲神社 滋賀県甲賀市信楽町牧
日雲宮 滋賀県甲賀市水口町神明
五十鈴神社 滋賀県甲賀市水口町東林口
瘡山神社 滋賀県甲賀市水口町高山
川田神社 滋賀県甲賀市水口町北内貴
田村神社 滋賀県甲賀市土山町北土山
坂田宮 坂田宮(2年) 坂田神明宮 滋賀県米原市宇賀野

■美濃国
美濃 伊久良賀宮 伊久良河宮 (4年)
天神神社 岐阜県瑞穂市居倉
名木林神社 岐阜県安八郡安八町大森
宇波刀神社 岐阜県安八郡安八町森部

■尾張国
中島宮
酒見神社 愛知県一宮市今伊勢町本神戸字宮山
浜神明社(真清田神社境外末社) 愛知県一宮市桜一丁目
丸宮神明社(現在中嶋宮に合祀) 愛知県一宮市萩原町中島
御園神明社 愛知県清須市一場
坂手神社 愛知県一宮市佐千原字宮東

■伊勢国
桑名野代宮 桑名野代宮(4年)
野志里神社 三重県桑名市多度町下野代
神戸神館神社 三重県桑名市大字江場
尾野神社 三重県桑名市大字東方
河曲鈴鹿 ※ 小山宮 奈其波志忍山宮
布気皇館太神社 三重県亀山市布気町野尻
忍山神社 三重県亀山市野村

■*安濃国 *阿野国 (未詳)
壱志 ※ 藤方片樋宮
阿佐加 ※ 藤方片樋宮 (4年)
加良比乃神社 三重県津市藤方字森目
阿射加神社 三重県松阪市小阿坂町
阿射加神社 三重県松阪市大阿坂町
雲出神社 三重県津市雲出本郷町
飯野高宮 飯野高宮(高丘宮) (4年)
神山神社 三重県松阪市山添町字神山
神戸神館神明社 三重県松阪市下村町
牛庭神社 三重県松阪市下蛸路町
久尓都神社(現在加世智神社に合祀) (旧社地)三重県松阪市郷津町字里中あたり
滝野神明社(現在水屋神社に合祀) (旧社地)三重県松阪市飯高町作滝あたり
花岡神社 三重県松阪市飯高町宮前
多気佐々牟迤宮 佐佐牟江宮 (佐佐牟江社) 竹佐々夫江神社 三重県多気郡明和町山大淀
磯宮か 玉岐波流礒宮 伊蘓宮
磯神社 三重県伊勢市磯町字権現前
相可上神社 三重県多気郡多気町相可字磯部寺
大河之滝原之国 瀧原宮(皇大神宮別宮) 三重県度会郡大紀町滝原
矢田宮 口矢田ノ森 三重県伊勢市楠部町字口矢田あたり
宇治家田田上宮 家田々上宮
神宮神田南の忌鍬山山頂(西ノ森) 三重県伊勢市楠部町あたり
大土御祖神社(皇大神宮摂社) 三重県伊勢市楠部町字尾崎
奈尾之根宮 皇大神宮末社那自売神社か(現在皇大神宮摂社宇治 山田神社に同座) (旧社地)三重県伊勢市宇治中之切町あたり
渡遇宮 大宮 五十鈴宮 (五十鈴川上宮) 皇大神宮 三重県伊勢市宇治館町


【豊受大神宮 】豊受皇大神

遷幸順に地名と比定地(神社)または伝承地を記す。

■丹波国(丹後国)
★比治真奈井 与佐之小見比治之魚井原 (与謝郡比冶山頂麻奈井原)
★比沼麻奈為神社 京都府京丹後市峰山町久次字宮ノ谷
★奈具神社 京都府京丹後市弥栄町船木
★籠神社摂社真名井神社  
★豊受大神社 京都府福知山

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

石川五右衛門丹後幾地説

石川五右衛門

 
古くから、与謝野町幾地に伝わる、石川五右衛門の伝説です。
旧野田川町の古老達は、「天下の大盗賊石川五右衛門はこの土地の出だ」と語り伝えてきました。
丹後旧事記、一色軍記、丹後新風土記、NHK歴史への招待、日本史人物夜話石川五右衛門、野田川町史、糸井文庫、岩滝町史、丹後但馬丹波の史跡集、その他郷土史に残る、当地に残る伝説や史実をもとにした、石川五右衛門について、自分なりに調査したことをまとめます。
1761年編集の丹後府志にはすでに幾地城にいたことの記述があります。
只し、丹後に伝わる石川五右衛門と、義賊として映画のヒーローとして脚色された五右衛門のイメージとは、少々異なるかもしれません。
また、文献については、そのままの原文を掲載する事もありますので、著作権などの問題が発生するのであれば、すぐに削除しますので、こちらにコメントください。
古い文献につき、多少異なる記事もありますが、訂正や注意書きも入れました。
丹後の石川氏については、「丹後の戦国時代」に詳しくかきましたので、どうぞ。
◎丹後旧事記一覧集

幾地城跡は、市場村字幾地小字城山にてソブ谷より水を引きしと云う。
石川左衛門尉の拠りし所にて、左衛門尉は天正十年九月八日、一色義俊に従い田辺城には入りて主従同じ枕に討死し、其男文吾秀澄は義清の為に弓木城に籠城し、其年九月二十八日討死す。
城跡に稲荷の小祠あり。次男五良左衛門は、盗賊となり、豐太閤千鳥の香炉を盗み、京都の七条にて刑死せり。
(幾地城跡は、現在の与謝野町幾地小字城山にあり、ソブ谷から水を引いていた。
この城の城主は石川左衛門尉で、左衛門尉は、天正十年九月八日、丹後守護大名一色義俊が、細川幽斉、忠興に田辺城…(宮津城の間違いであろう)…にて、誘殺されたとき、運命を共にします。長男文吾秀澄は、義俊の叔父義清の為に、弓木城に籠城したが、九月二十八日に討死した。次男の五良左衛門は盗賊となり、豐太閤千鳥の香炉を盗み、京都の七条にて刑死となった)

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◎与謝野町観光パンフレット…よさの旅、与謝野みち
 石川五右衛門生誕の地

文化二年(1805)の丹後旧事記によると、伊久地城主、一色義俊の家臣、石川左衛門尉秀門の次男こそが、かの有名な石川五右衛門であるとしています。
城跡には「石川五右衛門出生之地」の石碑が建てられています。


◎四辻郷土史

南北朝初期健武年中、足利尊氏中央政権を把握して其一族である一色範光が丹後国守護職に封せられからは(丹後府志によれば) 四辻亀山城に荻野悪右衛門景直が居りて、幾地(現城山)に石川左衛門尉及び其の子文吾秀澄、次男五右衛門が城を構え、当四辻八幡山の陣館には赤井五郎之に拠る。又は荻野の臣赤井平治とも云ふ。
注、古文書によると、荻野家は始め丹波の大名であったが、戦国となって、赤井家と確執、同地方大名波多野氏が和解につとめ、其の後、共に織田氏の先鋒明智氏に追われ、一色氏に依りて、此城を領有した同記に「女子、波多野右衛門輝秀室亀山城主遠江守秀尚母成、景直母方之伯父於殺、故号悪右衛門」とあり。
幾地城主石川次男五右衛門は、父、兄共に一色軍に従ひ細川勢と戦ひ討死し、此地方、又細川氏により占領され一色氏は全く滅亡したので、逃走して京師に隠れ、復讐の機を伺っていたが、豐太閤の千鳥の香炉を盗まんとして、とらえられ京都七条河原で、刑死したといふ。

※備考 
伊久知山城主石川左衛門尉秀門の家臣に坂根斎といふ者あり(伊津紀と同人なるべし)足利の残党にして一色義道(義俊か?)に従ひ天正十年二月二十二日の夜、加佐郡田辺城で合戦の際討死。同年十月一日伊久知山城落ち、其長男伊津紀といふ者両刀を捨て、幾地に隠る其次男某家統を継ぎ総本家となる。現幾地村坂根庄一家なり。(伊津紀は二代襲名している)又、其他坂根安三郎氏(在京都)四辻嘉右衛門氏家皆此系統遺族ならん。
又、坂根氏農民となり、戦国時代、朝廷衰徴して封料上がらず日常にも困難された時、当時の坂根氏家より其自作の穀物(米豆等)を奉献し、時の後水尾天皇は之を非常に嘉賞せられ親筆の色紙を下され共に、汝の居所を、生く地とせよと御命名になり之より生地と称し、幾地となったといふ。
 

◎一色軍記

次男、五良右衛門、後、太閤秀吉の伏見の御殿に忍び入り千鳥の香炉を盗み、仙石権兵衛に生け捕られ京都七条河原にてお仕置き。


◎石川五右衛門 日本史人物夜話 

平安の末に、石川次郎秀廉が怪鳥退治で源頼政に功をゆずり、その罪で山陰に流された。
その子孫の石川左衛門尉秀門が丹後の守護大名の名門、一色丹後守義俊の家老として伊久知山を居城とした。
天正年間、信長は細川幽斉に一色を討たせた。
幽斉は、天正十年(1582)九月、一色義俊を丹後田辺城(舞鶴)に招き、義俊もろとも秀門ら百五十人の家臣を謀殺した。
この時、秀門の長男秀澄は田辺城を脱し、弓ノ木城(岩滝)に籠ったけれど、ほどなく落城し、十月には伊久知城も陥ち、石川氏は亡んだ。
この秀澄の弟、つまり左衛門尉秀門の次男の五良右衛門が、落城とともに姿をくらました。
この五良右衛門なる人物がやがて巨盗石川五右衛門として登場する。
野田川町幾地(元の伊久知)や石川という大字があり、土地の人は、異口同音に「五右衛門さん」という親近感をもった愛称で呼んでいる。
五右衛門は本当のところはよくわからない。
秀吉についていうと、江戸時代になって、大坂町人などの反幕府的な空気のうちに太閤びいきの感情が生まれ、近代になると国民的人気者にされてゆくが、現実の秀吉の京畿における庶民に対する政治方策はきわめて厳しいものであ
り、庶民のそれに対する抵抗が少なくないことは、史実の上であきらかである。
五右衛門が、秀吉体制への反逆者の代表的なものであった事はまず確かだろう。『賊禁秘誠談』に秀吉じきじきの調べに対し、五右衛門が、「大盗人はお前だ、天下を盗んだではないか」とタンカをきる下りがある。
まさに、罪の小なるは囹語にあり、罪の大なるは廟堂にあり、である。
五右衛門の出生地はどこか。わたくしにとっては丹後説がおもしろい。
もともと丹波や丹後の霧深い山や野は、都にとってアウトサイダーたちの群落する所であった。亡命者の隠れ里であり、反逆者の旗揚げの地であり、都へのエネルギーの培養地でもあった。それは丹波、丹後に境する大江山の鬼以来の伝統である。

石川五右衛門のお話は、次回につづく

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南方系海人

Author:南方系海人
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古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
間違えた認識もあるかと思います。
自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

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