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丹後八姫 羽衣天女伝説

伊勢神宮外宮にお祀りされる羽衣天女、豊受大神のお話。

伊勢神宮外宮にお祀りされている豊受大神は、丹後の祭神、豊受大神(とようけおおみかみ)の事である。
天照大神が、伊勢神宮に鎮座され、「丹波(古代丹後、丹波、但馬の三国の事)にいる豊受大神を呼びなさい」と、言い、丹後から伊勢神宮に祀られた神が豊受大神である。
古代史を知る上で、大変重要な神であり、日本建国、大和朝廷成立について深い意味を持つ。
尚、伊勢神宮、外宮の神職である 度会家行 が起こした 伊勢神道 では、豊受大神は 天之御中主神 ・国常立神 と同神であっ て、この世に最初に現れた始源神であり、豊受大神を祀る外宮は天照大神の内宮よりも立場、神格が上であるとされている。
つまり、古代において、天皇家の皇祖神より、丹後の神のほうが神格が上とされている。
大和朝廷成立時の丹後の位置づけの重要なキーワードになる。
この事を念頭に入れて読んで下さい。


磯砂山661mの羽衣伝説。


「丹後風土記」(715年)に、 日本最古の羽衣伝説の話がある。これは、豊受大神の話でもある。

「丹後の比治の山(磯砂山(いさなごさん))の頂上に真奈井(まない)という池(女池)がある。
この池に八人の天女が舞い降りて水浴びをしていると、里人の和奈佐という老夫が一人の天女の 衣を隠し、無理に連れて帰ってきた。 一緒に暮らして十年あまり、万病にきくという酒を天女が上手に作り、 和奈佐の家は栄えていっ た。
しかしだんだん天女が邪魔になり、家から追い出した。
天女は泣く泣く荒塩の村(荒山)にたどりつき、のち哭木(なきき)の村(内記)から舟木の里の奈具 の村(弥栄町奈具)に落ち着いた。」 この天女とは豊宇賀能売命(とようがのめのみこと)つまり、豊受大 神(とようけのおおみかみ)のことである。
弥栄町の奈具神社、峰山町の 比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)で祀られる。
その後、伊勢神宮の外宮に移し祀られる事になったが、分霊は残されている。


伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)では、 雄略天皇 の夢枕に 天照大神 が現 れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬまの まない)にいる御饌の神、豊受大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せな さい」と言われたので、丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたとされている。即 ち、元々は丹波(丹後)の神なのである。
※713年、丹波国が分国されて、丹後国となった。それまでの丹波国の中心部は、丹後であった。
峰山に丹波という地名があり、古代の中心部と言われている。


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日本最古の羽衣伝説  丹後風土記  原文

比治の真奈井 奈具の社 (丹後の国の風土記に曰ふ) 丹後の国。 丹波の郡。 郡家の西北の隅の方に比治の里あり。
この里の比治の山の頂に井あり。その名を麻奈井と云ふ。今は既に沼と成 れり。
この井に天つ女八人降り来て浴水む。時に老夫婦あり。その名を和奈佐 老夫・和奈佐老婦と曰ふ。この老らこの井に至り、窃かに天つ女一人の衣 と裳を取蔵しつ。即ち衣と裳あるは皆天に飛び上がり、ただ衣も裳もなき 女娘一人留まりぬ。身を水に隠して独懐愧ぢ居り。 ここに老夫、天つ女に謂りて曰はく「吾に児なし、請はくは天つ女娘、 汝、児とならむや」といふ。天つ女、答へて曰はく「妾独人間に留まり ぬ。何か従はずあらむ。請はくは衣と裳を許したまへ」といふ。老夫、曰 はく「天つ女娘、何にそ欺く心を存てる」といふ。
天つ女、云はく「そ れ、天つ人の志は信を以ちてもととせり。何そ疑ひの心多くして衣と裳を 許さざる」といふ。老夫、答へて曰はく「疑多く信なきは率土の常なり。 故、この心を以ちて許さずあり」といひ遂に許せり。
即ち相副ひて宅に往 き、即ち相住むこと十余歳になりき。
ここに天つ女、善く酒を醸せり。一坏飲めば吉く万の病除かる。その一 坏の直の財、車に積みて送れり。
時にその家豊かにして土形も富みき。 故、土形の里と云ふ。
これ中間より今時に至るまで便ち比治の里と云へ り。 後に老夫婦ら、天つ女に謂りて曰はく「汝は吾が児に非ず、暫く借りて 住めり。宜早く出で去きね」といふ。
ここに天つ女、天を仰ぎて哭慟き、 地に俯して哀吟き、即ち老夫らに謂りて曰はく「妾は私意を以ちて来れる には非らじ。
こは老夫らが願へるなり。何にそ厭悪の心を発し忽に出去之 痛あらむ」といふ。
老夫、増発瞋りて去くことを願ふ。
天つ女涙を流し微門の外に退きぬ。郷人に謂りて曰はく「久しく人間に 沈みしに天にえ還らず。
また親もなき故、由る所知らず。吾や何哉、何 哉」といふ。
涙を拭ひて嗟歎き、天を仰ぎて歌ひて曰ふ、 天の原 振り放け見れば 霞立ち 家路惑ひて 行方知らずも 遂に退り去きて荒塩の村に至りぬ。即ち村人らに謂りて云はく「老夫老 婦の意を思ふに、我が心は荒塩に異なることなし」といふ。仍ち比治の里 なる荒塩の村と云ふ。
また丹波の里なる哭木の村に至り、槻の木に拠りて 哭きき。故、哭木の村と云ふ。
また竹野の郡船木の里なる奈具の村に至りぬ。即ち村人らに謂りて云は く「此処に我が心なぐしく成りぬ。古事に平けく善きことを奈具志と曰 ふ」といふ。乃ちこの村に留まりつ。こは謂ゆる竹野の郡の奈具の社に坐 す豊宇加能売の命そ。


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磯砂山山頂の羽衣天女である。
丹後の羽衣天女は、朝鮮の民族衣装、チョゴリである。
朝鮮半島からの、稲作と酒造りの話のようにも見える。
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磯砂山山頂までの登山口は、峰山町鱒留側からと
大宮町常吉からとがあるが、どちらからも約1000段の階段を登る。
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磯砂山の近くに、天女が水浴びした女池がある。
神秘的な沼で、正に天女の池といえる。


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静御前 源義経の愛妾

静御前生誕の地、静神社 京丹後市網野町磯

NHKで放映中の大河ドラマ「義経」で網野町磯の漁村出身の静御前が、源義経の生涯の愛妾として登場した。
丹後八姫の一人として、観光のシンボルでもある。
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磯は、網野町浅茂川と浜詰を結ぶ細い峠道 の中間に位置する。
美しく青い海、昔ながらの田舎 の漁村は昔のままである。
そんな静かな 細い道の高台に 、英雄「義経」と共に歩む波乱の人生 牛若丸として有名な源義経との悲劇的な人生を送った静御前を祭る神社がある。
静神社には、静御前の木造が祀られている。
義経が磯豪族(惣太)にあてた手紙が残っていたという記録もあったが、こ の手紙の他、多くの遺品は、天明2年(西暦1782年)の大火で神社とともに焼失した。
現在 の静神社は、元の場所から西へ約200m離れた位置に建てられている。


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静御前は、源義経(幼名:あの牛若丸である)が生涯を通じて愛した女性である。
磯の小さな漁村より母(磯禅師)と共に上京した 静は白拍子を生業としていたが、義経と出逢い深 く愛しあうことで、英雄「義経」と共に、波乱の人生へと巻き込まれて いく。
網野町の磯で、禅師の娘として生を受けた静御前は、6歳で父を亡くしその まま母とともに京都へ上京し、京の地で、巧みな舞と美しさで静は指折りの白拍子に成長す る。

※白拍子とは平安時代末期から鎌倉時 代にかけての歌舞のことである。基 本的に漢詩や和歌に曲節をつけて歌 う「朗詠」に舞を合わせたもの。
白拍子の衣装は、水干(すいか ん)、立烏帽子(たてえぼし)、緋の長 袴(または水干袴)、単、懐刀(または 飾太刀)等を身にまとい、蝙蝠(かわほ り:扇子の一種)を手に持ったとされて いる。

静御前は、源義経(牛若丸)に舞姿を見そめられ、側室となった。
源義経は、 源義朝の末子で母は常盤。『平治の乱』で父を失い、母は 平清盛に身を委ねて乳飲み児の牛若 ら息子たちの助命を請う。父と慕っ た清盛が、実の父・義朝の敵だと 知る。

源平合戦で、異母兄の頼朝が挙 兵するとその軍に加わる。
兄の範頼 とともに東国武士を率いて上洛、木 曽義仲や平氏一門を追討した。
さらに当 時の合戦の作法を度外視した戦法に よって連戦連勝を収める。
しかし頼 朝の許可なく官位を受けた事により、頼 朝と不仲になり、一転、“悲劇のヒー ロー”となる。
兄の 源頼朝と対立した義経が京を落ちて 九州へ向かう際、静御前も同行する。
その時、義経の船団は嵐に遭難して岸へ戻されてしまう。壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした後、兄「源頼朝」に吉野に追われる。
静は義経の子を妊娠していて、頼朝は、女の子なら助けるが、男の子なら殺すと命じる。
静は男子を産んだ。安達清常 が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離さなかった。
磯 禅師が赤子を取り上げて清恒に渡し、赤子は由比ヶ浜 に沈められた。

吉 野で義経と別れ京へ戻るが、途中で従者に持ち物を奪われ山中をさまよって いた時に、山僧に捕らえられ京の北条時政 に引き渡され、 文治2年( 1186 年)3月に母の磯禅師とともに 鎌倉に送られる。

静御前は、鎌倉八幡宮にて時の権力者、源頼朝、政子夫妻の前で、歌を歌う。
義経への想いを、扇立烏帽子、太刀をはき、男装で舞ったのである 。

「吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき」
「しづやしづ賤のをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」

と義経への想いを詠んだ静御前の恋慕の歌を唄い、頼朝を激怒させたが、妻の 北条政子 が「私が御前の 立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けた。
『吾妻 鏡』では、静の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵(りょうじん)ほと んど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛している。


わが子を失っ た静御前は、禅尼となった母と共に、故郷の磯に帰された。
憐れんだ政子と 大姫が多くの重宝を持たせたという
生家跡に小さな庵を造り、こ の丹後の地から、
義経の無事と愛児の冥福を生涯祈り続けた。
静御前は、二十 余歳という若さでこの世を去った。

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山椒太夫 安寿と厨子王その三

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今でも和江には、厨子王丸がかくまわれた国分寺跡があり、 お堂がある。安寿姫と厨子王丸の別れ の水杯に使われた「ギボシ」の葉も生育している。


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山椒太夫の屋敷跡

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近年まで、青森岩木山、新潟直江津の人々は、丹後の人を恐れていたという。
山椒太夫は、元々、兵庫県氷上の人間で、丹後の由良に住み着いた。太夫は、当然「悪」の親玉であるが、地元では、悪く言うだけでもないようである。
昔から、由良千軒と言われる程、発展していたようで、これは、山椒太夫の恩恵だとも言う。
このような、悲惨な話とは裏腹に、村や町の発展があるのかもしれない。
幼年の頃、この山椒太夫の話をよく聞いた。よくというのは、母からも聞いたし、紙芝居や映画でも見た。
由良という場所は、子供心に恐ろしい所だと思っていた。いまは、安寿が潮干狩りをした美しい海、そして、どこか寂しさの残る由良川の鉄橋が私の由良である。






由良川沿いを南下すると、日本では最北端の量産みかんの産地で有名な、安寿みかんの看板がみえる。その付近が、山椒太夫の荘園があった場所と思われ、屋敷跡がある。
古代から古墳のあった土地のようだ。

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山椒太夫=安寿と厨子王

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山椒太夫

1 伝承地 宮津市 由良

(説経節より)
これから語る 物語は、丹後の国、 金焼地蔵のご由 来である。
陸奥の将 軍・岩城判官正 氏は、農民のことを気遣っていたが、帝のご勘気を蒙って、無実の罪で、筑紫の安楽寺に流された。
後に残った御台所は、父恋しと嘆く安寿姫・厨子王を連れ、召し使いの乳 母を供として、夫に何とか会いたいと、九州筑紫に向かっ た。
安寿姫16才、厨子王13才の時である。
半月ばかりで一行は、越後の国直江津 にたどり着いた が、ここで宿を貸そうという人買いの老婆に騙され、二隻の小舟に乗ったが、夫御台 所と乳母は蝦夷ヶ島へ、安寿姫・厨子王の姉弟は丹後の山椒太夫に売り分け られた。
安寿と厨子王は、「お母様ー、お母様ー!」と涙して何度も叫び、御台所も、「安寿~!厨子王~!」と叫んだが、見る見るうちに小舟はみえなくなった。
その別れに絶望した乳母は、自から海に身を投げて果てて しまうが、同じく投身しようとする御台所は、舟梁に縛り付け られ、蝦夷ヶ島の商人に売られ、女郎で働かされることとなった。
毎日毎日、けだものの相手をさせられ、渇れるほど泣き、耐えかねる日々を送っていた。
逃げようと試みたが追っ手に捕らえられ、足手の筋を刀で断ち切ら れ、不自由な体にされてしまう。
涙の雨に失明して、とうとう明け暮れ粟の鳥を追う身となったとい う。




一方、丹後由良の山椒太夫のもと に売り飛ばされた安寿姫・厨子 王の姉弟は、朝から晩まで潮汲み また柴刈りの労役をし いられ、その過酷さに命も危う く思われたが、太夫次男の二郎 の慈悲や村人の柴勧進によっ て、かろうじて命をつないでいた。
来る日も、来る日もなげきあい、離ればなれになった父や母を思い、必死に生きていた。
しかし、そんな二人に太夫の三男三郎は、いつも厳しい仕置きをした。
この屋敷から逃げたものは、顔に焼きごてを当てられ、大火傷を負わされ、半殺しにしていた。
二度、三度と逃げたものは、散々拷問を受けたあと、奈具の山中にて、道通りの通行人に竹の鋸で、首を切らせ殺害した。



し かし、太夫のあまりに過酷な労 役からなんとか逃れようと、姉弟が逃亡 の相談していたのだが、太夫三男 の三郎に立ち聞きされ、二人は それぞれ額に焼き金を当てられ る。無残な姿となった二人は、年の暮れには浜路の松の木湯船 の下に追いやられ、正月十六日には半死半生のまま山仕事に責 め立てられる。
が、宍道の岩の洞に、安寿姫が膚の守りの地蔵 尊を取り出だして拝んだところ、、二人の焼き金の傷は忽ち消え、地 蔵菩薩の白毫どころに焼き金のそれが現れたという。

そこで姉 の安寿姫は、その地蔵尊を弟の厨子王に託し、その場から逃げさせた。
ひとり屋形に戻った安寿姫 は、太夫の三郎に迫め立てられ、湯責め水責めのはて、炭火に 焼かれ、品詞の重症を負う。

山を逃れた厨子王は、太夫 の追手が迫るのに気づき、国分寺の毘沙門堂に助けを乞うと、 お坊様は、古い皮龍のなかに厨子王を入れ、縄で結んで棟の 垂木に吊って、素知らぬ体で日中の勤めをいとなむ。やがて太 夫を先頭に、毘沙門堂に駈け込んだ追手たちは、聖を迫め立て 寺中を探し回るが、厨子王を見出せない。しかし、ついに三郎 は棟木の皮籠を見とがめ、兄の太郎の慈悲のことばを退けて、 それを降ろして縄を切り、その皮龍の中を見ると、そこには姉 から託された厨子王の膚の守りの地蔵菩薩が金色の光を放って いたという。

安寿は、隙をみて屋形から逃げたが、降りしきる雪の中、凍える寒さと空腹と極度の疲労で、母、厨子王を想い息絶える。
ここをかつえ坂(飢え坂)という。
あわれに思った村人が、この近くに安寿を埋め、今は供養塔が建っている。




追手が去った後、毘沙門堂のお坊様は、厨子王の入った皮龍を背 負い、はるばる都へ上り、西の七条朱雀の権現堂まで送ってく れた。
その権現堂からは、厨子王は人々に土車に乗せられ、宿 送り村送りされて、難波の四天王寺にたどり着いた。
たまたま天 王寺の阿闍梨さまに見出され、茶汲みの稚児として仕えるが、 清水観音に申し子をして子どもを求めていた梅津の院と邂逅、 その養子に迎えられる。しかも、梅津の院に代って、帝の大番 を勤めた厨子王は、求められて素姓を名乗り、帝から許され て、父の元の所領・奥州五十四郡を賜わり、丹後の国まで添え られ、丹後国主となる。

厨子王は、早 速に安楽寺に父 を迎えの輿を出 す。次いで丹後 国に入って、国分 寺に詣でてお坊様を 探し出す。
お坊様 は、その後に安 寿姫の死骸を弔 うたとて、その 死骨・剃り髪をさし出して見せた。
さらに厨子王は、由良の港 に使を出し、山椒太夫親子を国分寺に呼び寄せた上で、太郎と 二郎の二人を許したが、山椒太夫の首を三郎に鋸引きさせ、三郎を浜に引き 出し往来の山人に鋸引きさせる。やがて慈悲の心を寄せた人々 に恩賞を送った厨子王は、直江津で山岡太夫を引き出して、 これを柴漬けの刑に処した。


はるばると蝦夷ヶ島に赴いて、鳥追 いに身を落とした母を探し出す。
「あんじゅ~、ずしおう~」「あんじゅ~、ずしおう~」
やっと会えたその母の盲目は、か の膚の守りの地蔵菩薩を取り出して、その両眼に当てたとき、 たちまちに元のごとくに開いたという。

最後に厨子王は、姉の安寿姫の菩提を弔うため、かの膚の守 りの地蔵菩薩を丹後の国に安置して、一宇の御堂を建立なさ る。今の世に至るまで人々が金焼地蔵とあがめ申し上げるの は、このことだったのだ。


山椒太夫(三庄太夫 )「加佐郡誌」

由良ヶ獄のふもと石浦に三庄太夫の遺跡というのがある。三 庄太夫は近在三ヵ庄の代官をもつとめる分限者であった。 村上天皇の天暦年間、奥州の太守岩城判宮将氏は無実の罪に よって筑紫に流されたが、その二子、姉安寿姫と弟津塩丸は父 を慕う余り、母を促して筑紫へ下ることにした。

山を越え、川を渡り、越後の国直江の浦の辺りまで来た時、山 岡太夫という悪者にだまされて、母は佐渡ヶ島へ売られ、安 寿・津塩の姉弟は宮崎三郎という者の舟で、丹後の由良湊へ連 れてこられ、三庄太夫に売られて奴隷にされた。それからは姉 は海へ潮汲み、弟は山の薪取りをさせられ、毎日々々随分むご い仕打ちを受けた。

それでとうと う堪え切れず、 二人は屋敷を逃 れ、津塩丸は和 江の国分寺に隠 れたが、和尚の 義侠によって追 手の難を逃れる ことが出来た。 和尚は津塩丸を 哀み、ひそかに経箱に入れ自ら背負って、京都清水寺の大悲閣 まで送った。ここで津塩丸は、子のない梅津大納言に逢いその 家に入って成人し、追々と出世する。

やがて津塩丸の家譜をはじめ、いろいろなことが天子の耳に も入り、特に旧国のほかに丹後の国も賜った。津塩丸はまず母 を佐渡から迎え、和江の国分寺の和尚を訪ねて旧恩を感謝し、 三庄太夫に対し一族の仇を打ったという。

これより前、姉弟は国分寺の谷間で水盃をして別れたが、そ れに使った草の葉を盃ギボシといい、その谷だけに成育したと 伝えられ、その谷を隠れ谷というと伝えている。 また和江に は、国分寺・大 坊屋敷・堂ノ 奥・老僧谷・仏 谷・かくれ谷・ 院ノロなど寺に ちなんだ地名が ある。 また、姉の安 寿は太夫の家を 逃れ、京へ上ろ うとする途中、中山から下東へ出る坂で、疲労と空腹に堪え切れず最期を遂げたという。いまもこの坂を かつえ 飢 坂といい、姫を 葬ったといわれる安寿姫塚が建部山のふもと下東にある。

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プロフィール

南方系海人

Author:南方系海人
ブログへようこそ!
古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
間違えた認識もあるかと思います。
自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

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