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滝岡田古墳(与謝野町滝)

わが町、京都府与謝野町滝地区にある、滝岡田古墳に来ました。
与謝野町の古墳数は、何と3500基!
そのなかの一つをご紹介します。
鬼伝説大江山の麓にある、直径20mの美しい円墳です。
発掘調査の結果、古墳時代後期末に構造されたもので、全長9.92m、玄室長4.12m、幅2.2mの大型石室で、加悦谷で最大級です。
副葬品は多数出土していますが、何と、金張りの太刀までありました。
この古墳の重要性をかんがみ、地区関係者のご理解により、地区区画整理から工事除外とされ、復旧整備され、地区のシンボルとして大切にされています。
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神秘の森 白米山古墳

【白米山古墳】

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神秘の森、白米山古墳に来ました。
この前方後円墳は、異常な気を感じます。
築造は四世紀前後だが、謎が多く、よくわからないらしい。
築造直後に、出雲の四隅吐出形のように改造された、全国でも例の無い前方後円墳なのだそうだ。
この加悦谷地域は、大国主神に土地を奪われた伝説があり、野田川の東半分は、物部郷と呼ばれ、中世の地図にもはっきりと描かれています。
丹後は豊受大神の故郷として有名ですが、ここ加悦谷は違う神様が祀られています。
倭文神社例祭で、大国主神に奪われた須代神社のスセリ姫に向かって、
『おーい、おーい!』と叫びます。
この白米山古墳も、ヤマト勢力の象徴とも言える前方後円墳に、出雲勢力の抵抗を連想させます。

以下、京都新聞より
*加悦・白米山古墳大改造*丹後豪族の自己主張か*定説見直す材料に*目的・背景さまざまな解釈*
 京都府与謝郡加悦町の前方後円墳・白米山古墳が三十一日、後に大規模に改造されていたことが分かった。これまで、古墳は大和王権との政治的同盟関係の象徴とされ、築造後は手を加えない、とみるのが定説だっただけに、研究者らに大きな反響を呼んでいる。「大和王権に対する丹後豪族の政治的自己主張」など、改造の目的や背景についてさまざまな解釈が出ている。
 前方後円墳は、三世紀後半の箸墓古墳(奈良県)が最古とされ、それ以後全国に広がる。研究者によると、同じ形の前方後円墳を造るのは大和の首長と各地の首長が同じ祖先を持つ同族であると示すためで、大和王権の政治的なネットワークが整ったことの象徴とされてきた。
 ところが、改造後の白米山古墳は前方部の角に特異な突出部が加えられていた。古墳に詳しい都出比呂志・大阪大数授はこの点について「弥生時代後期から日本海岸で造られた四隅が突出した墳墓の伝統を受け継ぐもの」とみる。今回確認された石棺が東西に向いているのも、後の丹後の古墳に共通する方式で、同教授は「当初は大和王権の指導で標準的な前方後円墳を造ったが、地域に伝わる独自の葬送儀礼を復活させたのではないか」と話す。改造した時期についても「当初のものを造った直後ではないか」と推測する。
 では改造は、何を物語るのか。現地を見た大阪府教委の広瀬和雄・文化財保護課係長は「大和王権に対する政治的な自己アピールではないか」とみる。「大和の権力が十分に浸透していない古墳時代前期には、大和と一線を画す地方があっても不思議でない。大和と地方の政治的力関係を見直す出発点になるのではないか」と話す。都出教授も「改造は地元豪族の意地の表れともいえ、大和王権がこれを黙認したのではないか」という。
 改造の意図とは別に、「築造後の古墳に手を加えない、とするこれまでの定説を見直す材料となる」(小笠原好彦・滋賀大教授)とみる研究者も多い。
 一方、時代を特定する出土物がないため、慎重な見方もある。和田晴吾・立命館大数授(考古学)は「三つあるテラスなど改造後の形状は他に例がなく、用途も不明だ。

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私市円山古墳

【私市円山古墳】

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私市円山古墳は綾部市の由良川水域にある京都府最大の円墳です。
全長は81m、下の荒れ地も入れれば、更に大きく、日本最大の可能性もあると思っています。
因みに埼玉県の丸墓山古墳が日本最大で、全長105mもありますが、この私市円山古墳は、山の頂に作られている為、丸墓山古墳より、とてつもなく大きく、地上の田園地帯から見上げると、まるで、そびえ立つ要塞のようにも見えるほどです。
私市円山古墳は、倭の五王時代(雄略含む)である五世紀半ばの古墳なので、大丹波王国(丹後、丹波、但馬)分国以前の巨大な王墓といえます。

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元々日本の古墳は、方墳に始まり、やがて円墳が登場し、前方後円墳、上円下方墳、八角墳や六角墳もくふうされ、終結します。
この私市円山古墳は、造りだし部があり、巨大な円形に方墳がくっついたような形状です。

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この地域は、方墳等の古式の古墳が主流だったようですが、土師川、牧川流域以外では、福知山盆地全域に、円墳が出てきます。
その中でも途出しているこの巨大な古墳は、中性の山城的な、大和勢力を威嚇させる役割もあったのではなかろうか。
丹後羽衣天女伝説の磯砂山から日室嶽、元伊勢外宮、伊勢神宮までは、夏至の太陽が沈む一直線上にあり、ここ私市円山古墳も、ほぼそのライン上に位置します。
埋葬者の二つの木管から、一領づつの甲冑、矢を入れる燦然と光輝く胡ろくと呼ばれる容器や刀剣、その他、くが玉、菅玉、鏡、剣、刀、鏃などの副葬品が出土しました。
ここの、金の胡ろくは、畿内では出土していないので、日本海から丹後を通じて入った可能性があるといいます。
また、私市円山古墳は、二つの棺が、太陽信仰である海人族と同じ東枕であり、畿内の北枕と異なる。
この事から、天火明命を祀る大丹波王国の王ではないだろうか。
四世紀から五世紀にかけて、古墳を北枕にする分布域は、ほぼ、畿内、山口から播磨までの、瀬戸内北岸、出雲。
東西方向は、九州、四国、丹後、但馬、丹波辺りという。
これは、俗に言う南方系海人族を意味しているように思えてきます。
しかし、矢を入れる胡ろくは、騎馬民族から来ているという人もいます。

http://club-ayabe.ciao.jp/clubayabe-kisaichi.html

日本三景天橋立の謎

《日本三景の謎》という本が書店に並んでいたので、パラパラと立ち読みし、内容の素晴らしさと興味から、即購入した。
宮元健次さんという方が執筆され、祥伝社黄金文庫から出ています。
この本は現地の事もかなり調査されているようで、丹後人の私が読んでも大変面白い。

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日本三景とは、宮城県の松島、丹後の天橋立、広島県の宮島をいうが、
驚いた事に日本三景は、江戸初期1643年には《三所奇観》として規定されたのだそうです。
この三ヶ所の共通点は、古代からの軍事的重要拠点だったという事が詳しく解説されています。
天橋立については古代からの朝鮮半島と結ばれた国際的防衛拠点であった事や、
丹後に多くの渡来人の古代遺跡や地名、伝承が残されていることが書かれています。
丹後の古墳は、家長クラスの古墳でも必ず鉄剣が出土している事などが大きな特徴で、他の地域ではみられないそうです。
詳しい内容は、是非この本を購入される事をお勧めしますが、何より驚いたのは、この日本三景は、地図上、一直線上に並んでいるという事実。
天橋立を中心として、この直線は、夏至の日の出の方位と冬至の日没の方位を結んだものであると指摘されています。
この天橋立には元伊勢丹後一の宮籠神社があり、籠神社国宝系図にある日女命=卑弥呼の事、籠神社から天橋立を通り一直線上に元伊勢内宮皇大神社、元伊勢外宮豊受大神社が並んでいる事まで詳細に解説されています。
その他古代丹後の謎が沢山書かれていますので、是非読んでみてください。

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日本三景の一つとして名高い 天橋 立 は、もともと 籠神社の参道 として 発祥したもので、古来より天と地、 神と人とを結ぶ架け橋として信じら れていた。 『古事記』に登場する神 伊邪那 岐 (いざなぎ)、 伊邪那美 (いざな み)二柱の神が降り立った「 天浮 橋 (あめのうきはし)」は、この天 橋立であると云われ、古伝に 海橋 立 (あまのはしだて)、 海浮橋 (あ まのうきはし)ともある。つまり、 日本の国生み神話の重要な舞台がこ こ 天橋立 であったことが窺える。

その聖なる天橋立の北方に鎮座す るのが 元伊勢 籠神社 である。 元伊勢とは 天照大神 (あまてらす おおみかみ)が倭(やまと)の国笠 縫邑(かさぬいのむら)[奈良県桜 井市]を出られて 伊勢神宮 にお鎮ま りになるまで巡幸された地を指す。

籠神社は 天照大神 が最初に巡幸された神社で、第十代崇神天皇の御代にお遷りに なった。 もともと丹後国の総氏神である籠神社のご祭神 豊受大神 (とようけのおお かみ)と共に四年間祀られた。

その後、天照大神は、第十一代垂仁天皇の御代に、豊受大神は、第二十一代雄略天 皇の御代にそれぞれ伊勢神宮へ遷られた。それに依り 内宮外宮唯一の元伊勢 (伊勢 根本の社)として全国より崇敬を集めている。二十数社ある元伊勢の中でも随一の社 格と由緒を持つ所以がここにある。その証として 伊勢神宮 と 籠神社 にしか許されな い 五色の座玉 (ごしきのすえたま)が高欄に据えられ、厳かな神秘の光を放ってい る。

また、本殿の造りも伊勢神宮と同じ 唯一神明造り となっている。天照豊受両大神 がご遷座の後は、 天孫彦火明命 (てんそんひこほあかりのみこと)を主祭神とし て、その系譜に連なる宮司家海部(あまべ)氏が古代より籠神社に奉仕し、現宮司で 八十二代を算(かぞ)え、その家系図は国宝に指定されている。
《天橋立観光協会HPより》
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赤坂今井墳墓

 赤坂今井墳墓  【日本最大級の大型方形墳丘墓】

《 ガラス勾玉の出土点数は現在知られている弥生 墳墓の中で全国最多の出土 数!》
《頭飾りと国内二例目の中国の人工顔料「漢青」を発掘!》


古代丹後には日本最古最大の水晶ガラス工房があり、大陸との貿易に使用されていました。全国の10分の1の生産量を誇った丹後。
丹後で作られた水晶ガラス製品は、海を渡り、鉄製品等と交換されていた。


★赤坂今井墳墓は中郡盆地から福田川の河口へ通じる谷筋に面した丘 陵の先端に造られた弥生時代後 期末(二世紀末~三世紀初め)の大型方形墳丘墓です。 16世紀ごろに山城が築かれた為、一部削られていますが、造られた当時は東西36m、南北39 m、高さ3.5mの長方形の墳丘と四方に巡る幅5~ 9mの平らな面からできており、墓域は南北5 1m、東西45mにわたる、当時では日本有数の規模となります。

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墳丘築造に際しては、南北34m、東西22m、高さ9mにわたって丘陵を切断して墳丘や周辺の 平らな面が造成され、より大きく見せるための工夫がなされています。 中心的埋葬施設である第一埋葬は、墳丘上面の奥よりに位置し、長さ14m、幅10.5mの規模で す。 中央上面からこぶし大の石約300個による集石と割られた土器群が出土し、更に西側には南北に 並ぶ一列の柱穴列が見つかっていることから、独特な祭祀を行う場があったと考えられています。

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第一埋葬を一部切り込んで造成された第四埋葬は、長さ7m、幅4.2mの規模です。
舟底状木棺(長さ4.4m、幅1.3m)の棺内から、頭飾り・耳飾り一式、鉄剣1点、ヤリガンナ1 点が出土しました。 頭飾りは、被葬者の頭の部分に管玉・勾玉が規則正しく三連になるもので、 布などに編み込んでい たものと考えられます。
使用された玉類は確認できたものだけで勾玉22点、ガラス管玉57点、碧玉製管玉39点を数 え、ガラス管玉の中には、古代中国で兵馬にも使用されていた顔料「 漢青」の主成分であるケイ酸 銅バリウムが含まれていました。
赤坂今井墳墓は、その規模、立地、墓上での祭祀のあり方を知ることができる丹後を代表する大型 墳丘墓であり、丹後地域の弥生社会の発展を理解する上で大変重要なものです。

《京丹後市教育委員会》
プロフィール

南方系海人

Author:南方系海人
ブログへようこそ!
古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
間違えた認識もあるかと思います。
自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

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