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加悦奥の一の宮さん

えっ!丹後一の宮籠神社の元宮???
与謝野町加悦奥の一の宮神社を参拝。
延喜式による山陰道唯一の官幣大社、丹後一の宮籠神社は大化改新後、彦火火出見命を祀り、与謝宮を籠神社としました。養老三年(719年)に久美浜から赴任にた海部氏が籠神社の神官となり、彦火明命(彦火火出見命の兄弟神)を主祭神とし、天照大神、豊受大神を相殿に祀った。その後、海神、天水分神も併せて祀った。
しかし何故、籠神社の主祭神を彦火火出見命から彦火明命に替える必要があったのだろうか?
ここに古代丹後の大きな秘密が隠されていると思う。
与謝野町加悦奥に鎮座する一の宮神社は、養老三年までの籠神社と同じ彦火火出見命と天水分神をずっとお祀りし、また祭礼の時は、ここ一の宮神社から天橋立府中まで、神輿が巡行した。
《加悦町誌》
一宮神社 加悦奥小字新田
 彦火々出見命、天水分命(水の神)、級長津彦命(風の神)の三神を祭る。社殿は江戸期一六八○年(延宝八年)と一七二八年(享保十三年)に建造されその後、一八七九年(明治十二年)境内末社の宮森の祠を合併し、一八八○年(明治十三年)改築された。
社前に小池があり、いかなる旱天にも枯れなかったと伝えられ、日照りで水田の水が枯れた時、氏子が池の清掃を行い雨ごいをした。文明年中(一五世紀中頃)府中まで、神輿の渡御があったといい、その創建はよほど古いものと考えられる。
籠神社が丹後の国、与謝郡の一の宮に対し、この社は謁叡郷の一の宮であったともいう。天水分命が籠神社と当社に祭られ江戸期に神輿が府中まで渡御したことから当社が籠神社の元宮だと里人がいい伝えている。

みこし田 加悦奥の一宮神社の近くの有熊にみこし田という名の田がある。府中一宮神社(籠神社)の奥の院がこの宮と称し、府中との間に一週間の祭礼があり、神輿が休んだ石が田の中にあった。この〝みこし田〝を耕作すると災難(たたり)に会うので、今だにつくらない。 (この石を石屋が割った際、その女房が腹痛をおこし、また、〝みこし田〝の草取りをして眼に草がささる等のことがあったという。
《与謝郡誌》
一宮神社
 加悦町字加悦奥小字新田、村社、祭神彦火々出見命、水分命、交明年中には神輿殿御ありしと伝ふ。社前に池あり旱天に減ぜずとて農民崇敬す、明治六年村社に列せらる。境内末社に宮森神社あり志那津彦命を祭りしも祠殿廃壊し明治十二年二月本社に合併す、氏子七十戸、例祭同上。

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高倉神社と和田地名 舞鶴市

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【高倉神社と和田地名】
《高倉神社由緒略記》
 氏神 高倉神社(京都府舞鶴市大字長浜鎮座)
御祭神 誉田別尊(応神天皇) 天児屋根尊(春日大神) 菅原道真(天神様)
    御神像 鎌倉時代の御神像で丹後地方の神像中、最も古いものの代表的な神像である。
    昭和五十九年 舞鶴市第五次指定文化財に指定される。
    昭和五十九年度に御神像の保全補修事業を施工する。
御由緒
 創立年代はよほど古く随神像が藤原時代(約千年前)の作であることでも偲ばれる。鎌倉時代(約八百年前)には既に正三位の神階(かみさまの位)を叙けられた近郷有数の神社である。弓矢の守護神として、往昔から近郷武将の崇敬も厚く天正六年には南部膳行社殿を建立し、次いで天正十二年には若狭和田の領主、岡本元幸が田畠を寄進するなど報賽(願の成就せる御礼に物を御供すること)の事蹟が多い。氏子は江戸時代には下安久、和田、長浜、余部上、余部下、北吸の六ヶ村に亘り神社奉仕に努め、天文六年、天徳五年、文政五年に両三度に亘り社殿を建替え、宝暦四年には入木道(書道)の宗家持明院家に社額の揮毫を請うなど社頭の整備に力を尽した。
宝物
随神像四体 (昭和六十年に保全補修事業を施工する)
社号額一面 (持明院筆)
宝刀一口 (銘直鋼)
宝槍一本 (銘波平昌行)
高麗犬一対 (木彫)
古文書一括 (天正十二年、宝暦四年等の古文書)
書簡一巻 (社号額揮毫に関する往復書簡)
高麗犬一対 (安久焼、舞鶴市第一次指定文化財に指定される)
棟札三枚 (天文六年、正徳五年等の標札)
出土の壷 (古丹波焼)
境内坪数 千三百十一坪 山林六百三坪
氏子   余部上、余部下、長浜、和田、下安久、北吸の六ヶ村(現在は中舞鶴地区三十自治会が管理)
建物   本殿、幣殿、拝殿、神輿庫、社務所、篭堂、手洗舎

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境内社
 稲荷神社 高倉稲荷大明神
 五ツ森神社 御祭神 保食神、大山祗神、日本武尊
 天満天神社 絵馬奉納社
 十二月栗神社(しはすぐり)
  此の神社は今から四百八十年前の長享戌申年大聖院智海子の丹後風土記に『往昔、稚産霊神所植、而歳十二月朔日生花仝二十日結実、正月元旦取其実、以奉大神、至今其例不差』云々と記されている五穀豊穣の神様である。
此の神社は初め長浜海岸に沿うて約一粁ばかり東の端、今の京大水産学部の正門左側にあったが昭和三年海軍爆薬部用地になったので現在の所に遷座したのである。
分社
若宮神社 舞鶴市余部上小字四四六番地ノ二鎮座
 往昔、余部上村に悪疫がはやり多数の人が日参したり、御百度参りをするのに本社が遠くて不便なので此処に分社を祀り祈願したのが創めである。分社の年代は明らかではないが宝暦十年(二百八十年前)の余部上の古地図には既に誌されている。
記念物・明治二十七年(西暦一八九〇年)日清戦役の咸海衛の海戦に於て敵弾を受けた水雷艇の一部
境内史蹟
神石
 往昔より里人この石を以って主祭神の憑依られたものとして崇敬し此の石を跨ぐ事を許さず、之を犯したものは必ず祟ありと言い通行人は之を避けて渚に沿いて歩行したと云い伝える。一名鞍掛石とも云う。戦国時代此の付近一帯が郷土の練武場であった事が社記に誌されている。思うに主祭神が此の石に鞍を掛け馬上姿となって練武を鼓舞せられたのであろう。
此の神石は元裏山近くの海岸にあったが軍の施設拡張の為海岸一帯が埋立てられた際、其の一部を取毀ちて境内に移したものである。
記念物
当地方が舞鶴鎮守府設置に指定されるや有栖川宮?仁親王が現地調査に来られた途次、明治三十一年八月五日御参拝の光栄を記念して此の碑を建てる。
其他
上古は後方の山上に鎮座されていたが近海を航行する船は必ず帆を降すこと、これを守らない船は難波のおそれがありと云う、それであらたかな神威をおそれて現在の所に移したと云い伝えられている。
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明治初年迄大祭には北吸、余部上、余部下、和田、下安久、吉原から舟で太鼓、大刀振が高倉神社に練り込み宮本(長浜)も合せて大刀振を奉納し技を競ったものである。
昭和六十一年十月十二日
 高倉神社御鎮座八百年記念祭を施工する
    昭和六十三年七月吉日


《和田という地名》
和田という地名は、全国各地にあるようですが、特に西日本の海岸沿いに集中しているのが特徴です。
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海をあらわす日本の古語「わた」と関連が深いとされ、過去に水害を受けた広大な平地にこの名前がつけられている場合が多いのだそうです。

古代人は、海神の事を、『綿津見の神』と呼んでいました。

海神(わたつみ)・綿津見(わだつみ)とは海の神の事を言い、転じて海・海原そのものを指す場合もあるそうです。

辞書を引くと、「ワタ」は海の古語、「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意であるので、「ワタツミ」は「海の神霊」という意味になる。とあります。

綿津見神を祀っていたのは、海部と呼ばれる航海民で、漁業や交易で生計を立て、また大和朝廷の水軍として武力も行使していました。

綿津見神を祀った海部の居住地には『和田』地名が多く、丹後、若狭、また神戸にも和田岬などがあります。
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《加佐郡誌》

高倉神社
祭神  (左側)春日大神(天児屋根命)  (中央)誉田別尊(応神天皇)  (右側)天満天    神(菅原道真)
由緒  創立年代は詳でないが上古は後方山上に鎮座されていて辺海を航行する者が神威を畏れたから今の地に遷座し奉ったと伝えられて居る。当社は本郡著名の古社で維新以前までは旧記も沢山あったということであるが今は何も残っていない。併し天文六年の棟札が今に保存されて居るので古社であるという事は明である。天正12年若狭高浜の城主同国和田の城主岡本主馬之介が余部付近を占領したとき社地壹町六段余を没収して更に田畑壹段余を寄進した旨社記にある。又其後右岡本某社殿を新築したことも社記に見えて居る。次で230余年を経て社殿が廃頽したので文政五年に再建した。
 往昔氏子は長浜和田下安久余部上余部下の六ケ村で接近漁師町(吉原)から毎年九月十日祭礼を掛けたこと文化年中行事に記されている。現在の氏子戸数は二千三百九十六戸で例祭は毎年八月14日であったことが近年十月17日に改め私祭は七月30日に行われる。
境内神社 一社 (祭神 保食神 大山祗神 日本武尊)



麓神社


【麓神社】
美しい天橋立を眼下に望み、弘計、億計をお祀りする古社

五世紀の終わり、眉輪の乱に始まり、皇位継承争いが熾烈化し、雄略天皇は、皇位継承候補者を次々と暗殺。
弘計、億計の二人の皇子は、難を逃れる為、家臣日下部使主に連れられ、丹後半島に向けて逃走した。
そして豊受大神を祀る丹後の豪族に助けを求めた。
丹後海人族、日下部氏の先祖の一人、浦嶋子(浦島太郎)の弟、今田三郎により匿われた。
のちの顕宗天皇と任賢天皇である。


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日本三景、天橋立籠神社の東側の山裾に、弘計、億計の逃亡地伝説の麓神社が鎮座します。とても静かな場所で、二本の太い古木が、かなりの歴史を感じます。
ここ難波野村は、弥生期の方形貼石墓や条里制遺構が出土しています。
丹後は、日本海側では出雲の四隅吐出型墳墓は、一基も存在しない地域です。

麓神社には飯遣福(いかりふく)・居在福(いありふく)という習俗が残り、これは雄略天皇に追われた市辺押磐皇子の子、億計皇子・弘計皇子が一時「余社郡=与謝郡」の当地へ避難した故事にちなみ、両皇子を祀った当社へ毎年11月20日に赤飯を供えて、それを氏子が分けあうものだそうです。

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『丹後路の史跡めぐり』より引用
麓神社(ふもとじんじゃ)
 府中の東、灘波野部落に麓神社とよぶ小さな社がある。
 ここには億計、弘計二皇子を祀っている。安康天皇の代、四五六年に眉輪王(まゆわのきみ)の乱というのが起きた。允恭(いんぎよう)天皇の皇子穴穂命は兄の軽皇子を殺して帝位つき、安康天皇となったが大草香命を殺しその妃蔕姫を奪って自分の妃としたため、大草香の子眉輪王は父の仇と天皇を殺した。天皇の弟雄略は眉輪王を殺し、さらに帝位のじゃまになる履中天皇の皇子市辺押磐王(いちのべのおしわのきみ)を蚊屋野(かやの)に殺して天皇の位についた。そこで身の危険を感じた日下部使臣と子吾田彦は億計、弘計の二皇子とその母クサカンムリに夷姫(はえひめ)をつれて与謝へ逃れ、灘波野にかくれた。母のクサカンムリに夷姫はこの冬病死し、日下部使臣も前途を悲感して自殺した。
 弟弘計はここで小野姫をめとって妃としたが、追々と身近に危険が迫ったので、大内峠より三重長者五十日真黒人を頼って落ちていく。ちょうど村人はぼた餅を差し上げようと準備していたのが、あまり出発が急なため、小豆を炊きたての餅米の中へ投げ入れて差上げたので、その風習が残っている。
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出石神社 アメノヒボコの本拠地


応仁の乱、山名氏の本拠地として有名な城下町、出石に鎮座する、天日槍をお祀りする古社

【出石神社】
兵庫県出石郡出石町宮内。
 旧国幣中社(現、別表神社)。
祭神、天日槍、出石八前大神
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通称は一宮さん。当社は、但馬国一の宮として尊崇されている大社。
伝承によると、谿羽道主命と多遅麻比那良岐とが相謀って天日槍命を祀ったといわれています。
「出石神社は、天日槍命(あめのひぼこのみこと)が、新羅の国よりお持ちになりました八種の神宝を出石八前大神として、また、天日槍命の大御霊を御祭神として斎祀しています。  天日槍命は、『古事記』、『日本書紀』ともに新羅国王の王子であり、日本に渡来されたとし、その事蹟は記紀のほか『播磨国風土記』『筑前国風土記』逸文等にうかがうことができます。 八種の神宝とは、『古事記』には珠二貫(たまふたら)・振浪比礼(なみふるひれ)・切浪比礼(なみきるひれ)・振風比礼(かぜふるひれ)・切風比礼(かぜきるひれ)・奥津鏡・辺津鏡の八種としています。 天日槍命のご子孫には、田道間守命(たじまのもりのみこと)や、神功皇后があります。 神社の創立年代はあきらかではありませんが、社伝の『一宮縁起』には、谿羽道 主命と多遅麻比那良岐と相謀り、天日槍命を祀ったと伝え、諸書によりますと、 遅くとも八世紀のはじめ頃にはすでにこの地で祭祀がおこなわれていたことがうかがわれます。 但馬の国一宮として当地では別名を一宮さんと呼び尊敬されています。 天日槍命は泥海であった但馬を、丸山川河口の瀬戸・津居山の間の岩山を開いて 濁流を日本海に流し、現在の豊沃な但馬平野を現出され、円山川の治水に、また 、殖産興業に功績を遺された神として尊崇を集めております。また、鉄の文化を大陸から持って来られた神ともいわれております。」

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社伝によると垂仁天皇の時、天日槍命が来朝し、当地を開拓したので、その徳を敬慕し、命が奉持していた八種の神宝を八前大神として祀った。八種神宝とは、玉津宝・珠二貫・振浪比礼・印浪比礼・振風比礼・切風化礼・奥津鏡・辺津鏡であり、このことは既に『延喜式神名帳』にも八座の神として明記され、名神大社となっている。更にこれより先、天平九年(七三七)神戸租調稲およそ一六八〇束を充て、承和一二年(八四五)七月に従五位下となり、貞観一六年(八七四)三月には正五位上に叙せられている、但馬国一宮として崇敬されて来た当社であるが、戦国時代に入ると、天正年間(一五七三-九二)豊臣氏のために社領を没収された。江戸時代には出石城主歴代の尊崇をうけ、小出、仙石両氏が社殿を造営した。本殿三間社流造、檜皮葺、本殿の前面に切妻造の幣殿が連なり、更にその前に舞殿形式の拝殿(入母屋造平入)が連なっている。社宝としては、重文指定の脇差一振(南北朝時代、銘但州住国光)がある。例祭一〇月二〇日、その他御年花祭(おはなびらまつり)が一月二二、二三日に行われる。
-『神社辞典』-

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天日槍 あめのひぼこ

夜明け近く白くかすむ川面の向こうに舟を漕ぐ音が響く。
「誰」とたずねると彼は名を告げた。「新羅の國の王子」と。
天之日矛あめのひぼこ(天日槍)は新羅(しらぎ)の国の王子として生まれた。ある日、天日槍は一人の若者から、新羅国アグ沼のほとりで眠っていた女性が美しい虹のような光をあびて産み落としたという赤い玉を譲り受ける。家に持ち帰り飾っていたところ、その玉は美しい乙女となり、天日槍は、乙女を妻にする。二人は楽しい日々を送るが、やがて乙女に対して不満をいうようになり、乙女は嘆き悲しみ「祖の国へ行きます」と天日槍のもとを去ってしまう。
乙女は日本の難波にたどりつき、比売詐曽(ひめこそ)神社のアカルヒメという祭神になる。一方、天日槍も八種の神宝を携えて日本へ渡ろうとするが、渡りの神に邪魔をされて、多遅摩(たじま) 国(但馬国)に上陸し、出石に住むようになる。
やがて、但馬の俣尾(またお) の娘、前津見(まえつみ)を妻にし、製鉄をはじめ大陸の優れた技術を持って天日槍は但馬に新しい文化をつくりあげていく。(古事記)

天日槍は朝鮮半島から日本に渡来した人々が信仰した神様だと考えられている。出石神社由来記には天日槍が、その当時入江湖であった但馬地方を瀬戸の岩戸を切り開いて耕地にしたと記されている。表現は多少異なるが古事記、日本書紀、播磨風土記にも天日槍とその一族は登場し、伝説と神秘に満ちた古代史を彩っていく。

「日本書記」には、垂仁天皇3年春3月に昔に新羅王子・アメノヒボコが神宝、羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬の7種を持参した事への言及があり、その渡来の記述がある。

ー但馬国出石観光協会HPー

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新井崎神社 西日本の日本海側で唯一の徐福伝説

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北東北以外の日本海側で、唯一の徐福伝説地
また徐福の求めていた神桑が今でも自生する地域。
【新井崎神社】
祭神は秦の始皇帝の侍臣徐福を祀る。紀元前221年中国の統一に成功した秦王「政」は新たに皇帝の位をつくり始皇帝と名のり咸陽(今の西安)に都した。当時神仙思想が流行し仙丹に七返八環の法があって、この仙丹を服すると不老不死となることができるといわれ、権勢のある者は、この霊薬を求める者が多かった。
仙丹は三神仙(蓬莱方丈瀛?)に仙人が仙丹を練り不死の薬を蓄えているといわれた。
徐福が求めてきた神桑とは「九節の菖蒲と黒茎の蓬」であるとされている。
普通のよもぎと異なって葉の裏の白毛が少なく、生長するともぐさになる。
よもぎ餅に適する。
新井崎神社周辺の新井崎海岸に現在も自生している。

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始皇帝はこの神山にいたことがあるという方士徐福に仙丹を求めることを命じた。伝承によると七代孝霊天皇の時代に秦の始皇帝が不老不死長生の神薬を求め方士徐福がこの地を易筮によって予知し漂着した。その場所は箱岩である。
この地で徐福の求めた神薬とは九節の菖蒲と黒茎の蓬である。
徐福は仙薬を求むるままに、この地にとどまり、よく邑人を導いたので推されて邑長となり高徳は等しく仰慕の的となって死後産土神として奉祀されるに至った。

『史記』
秦始皇本紀二十八年
斉人徐市等上書言、海中有二三神山一、名曰二蓬莱・方丈・エイ州一、僊人居V之、請得下斎戒、与二童男女一求上V之、於V是遣下徐市発二童男女数千人一、入V海求中僊人上


徐福伝説地
http://www.asukanet.gr.jp/tobira/jofuku/jofuku.htm

http://www.linktolink.jp/jofuku/page10.htm

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【童男童女宮】(新井崎)

童男童女宮村人訛りてトウナンカジュクウという、其訛りに習ひて誰が書きたる縁起や童男寡女宮と記せり如何なる謂をしらず、古来秦の徐福を祭るなりと申伝ふ、俗に新井崎大明神といふ處なり。聴雨記続編朱子不註尚書處引、或説曰。日本有真本尚書乃徐福入海時所携者余初未之信也後観陽公日本詩有云徐生行時書未焚逸王百篇今尚存令岩不許伝中国挙世無人識古文先王典蔵夷貊蒼波浩蕩無通律則外国真有其本鴎陽之言未必無據朱子之不註者豈以是耶云。又始皇本記に徐福の事を載せたれども慥と日本にはあらず、然れども諸書を以て参考すれば徐福の日本に来る明なり、されども何れの御宇に来りて何れの国に居り如何様なる事をなしたるや、又其漂着せし處は何れの浜なりや其事蹟詳ならず、京洛西の大秦宮は徐福なりといふ秦の字をかけばなり、又紀州にもありと聞く、皆正史にのせたる事にあらず。

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プロフィール

南方系海人

Author:南方系海人
ブログへようこそ!
古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
間違えた認識もあるかと思います。
自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

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