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1582年一色氏謀殺事件其の一

【一色氏謀殺事件について】
天正十年(1582年)9月8日、宮津城米田屋敷にて、一色義俊が、細川忠興に殺害されるという大事件が起きた。
この事件についての資料や諸説は多々あるのだが、確証たるものは残っていないようなので、出来る限り多くの資料や文献を研究し、纏めてみたい。
ずっと思っていた事ではあるが、いまだに「一色軍記」「丹州三家物語」など、史実を面白おかしく脚色した物語を、丹後の歴史として信じている歴史家の方がいらっしゃるのは残念で、講演会などを聞いていても、首を傾げてしまう事が多い。
先日の京都新聞に掲載された記事、読まれた方も多いとは思うが、これを史実のように扱うのはどうした事だろう…。
歴史に夢やロマンは付き物…。
丹後の歴史は、変えられている。




【一色義俊謀殺事件の真相】

さて、止まっていたブログですが、少しづつ再会します。

それまでにどこまでが本当なのか、謎の「一色軍記」を要約する事から始めます。

つづく


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丹後の戦国時代 その八

【戦火相次ぐ混乱の丹後】

石川直経を支持する越前守護朝倉孝景は、若狭国境まで進撃し、 陣を取る延永氏征伐にいよいよ軍 勢を出発させた。この時、武田元信は6月19日に若狭明通寺に対して、 陣僧を軍勢に加わるように命 じた。

一色義清・石川直経の軍と、越前を出発し若狭、加佐郡へと向かう朝倉軍と武田元信軍・朽木種広軍は合流し、若狭和田に着陣していた一色九郎・延永春信の勢力との戦が始まろうとしていた。

朝倉一族の景職や武 田氏家臣の逸見・本郷氏らが大飯郡高浜城の防備を固める一方、丹後では白井清胤らの軍勢が加佐郡余戸里に展開す るなど、攻勢を強めていた。
6月29日、 加佐郡余戸 里にてついに合戦が開始された。
激しい戦闘が続き、劣勢となった延永氏の軍勢は、加佐郡倉橋城に篭城したが、朝倉氏の軍勢は更に 激しく攻撃し、ついに倉橋城は落城し、一色九郎・延永氏は降伏し、城を出た。
この戦に勝利した朝倉孝景の仲介で、敗れた延永春信・一色九郎と武田元信との間で和睦が結ばれ、その条件と して、武田元信に加佐郡が与えられた。 この合戦で敗北した延永春信と一色九郎は死亡した訳ではなく、宮津の府中に退散したようであ る。

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しかし、混乱が続いた丹後に平和は戻らず、今度は加佐郡で反武田の動きがあったようで、 先の合戦での 和睦は翌月の7月には破られてしまい、再び対戦となった。
武田元信は再度、越前朝倉孝景と近江国の朽木種広に援軍を求めた。
朝倉勢は再び加佐郡に進出し、8月8日までに倉橋城を再占領した。
そのあと、丹後加佐郡の延永与党が9月初旬ごろ国境を越えて若狭に 侵入したものの、それも本郷氏らに討たれた。
この頃、加悦安良山城を追われて加佐郡にいた石川直経・一色義清の軍勢は由良川を越えて延永氏 の本拠地府中まで侵攻しており、武田・朝倉勢と合流した。
9月12日、再びついに石川直経・武田・朝倉の軍勢と延永春信の軍勢による合戦が開始され、 激しい戦闘 となった。
今度も石川勢が勝利し、その結果、武田・朝倉の助力を得た石川氏は永遠のライバルであった延永春信を没落させる事に成 功した。
この合戦でも多くの死者を出し、永世12年から続く2年間の争いで、二千数百人以上が死亡した。


武田氏の侵攻は更に奥丹後まで伸びた。
9月22日に竹野郡の堤篭屋城、10月11日に吉沢城を攻撃している。
しかし、熊野郡、竹野郡を本拠地とする伊賀氏の抵抗によって撃退されたといわれる。 またこの頃、武田勢の背後で加佐郡一揆が勃発し、若狭国まで乱入するなど、加佐郡の混乱は続い ていた。

11月、将軍足利義種の要請で、近江国朽木氏・越前朝倉氏らが再度丹後国へ出陣し、合戦があった。
その後の交戦記録は無いようだが、武 田氏はこの出兵で、加佐郡については一部地域の実質的支配 権を獲得したとみられる。
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永く続いた丹後の混乱も漸く一定の決着が着き、 合戦に勝利した石川直経は、一色義清に家督を継 がせた。敗北した一色九郎は、伊賀氏を頼り、竹野郡成願寺に逃れ、 居を移した。 その後、一色義清は、若狭武田元光の娘を嫁にし、できた子に一色氏当主として国府である宮津の 府中に住ませた。 一色義清は与謝野町石川城、石川直経は同じ一族で、幾地、滝、金屋、亀山などに城を築城し、防 御を固めているので、与謝野町加悦に戻っていたとみて間違いないだろう。

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丹後の戦国時代 その七

【一色氏の家督争いと石川直経vs延永春信】


石川直経の活躍などで、武田氏が若狭へ逃げ帰り、危機を乗り越えたその後の丹後は、何事もなく平和な日々を送っていた。
丹後守護には一色義有が再度復帰していた。
しかし、義有は、1512年、26歳の若さで病死してしまった。

これを期に、一色義清と一色九郎との間で家督争いの状態となり、義清の守護代が石川直経、九郎の守護代が延永某となり、守護が二人もいるというような並立状態となっていた。

しかし1515年永正12年からついに内乱状態となった。すなわち、守護一色義清の実権が失 われるなか、一色義清を擁立する重臣石川直経と、一色九郎を擁立する守護代延永春信の 両派が全面衝突したのである。
この争いで、数百人の死者がでている。
一色九郎というのは、一色義有に子がなかった為、延永春信が三河国の一色家から丹後の呼び、家督を継がせようとした人物である。

この戦いでは、延永春信が石川直経に勝利し、直経を加悦の安良山城から追い落とし、直経は加佐郡まで退散してしまった。
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しかし石川直経は、勢力を温存し、反撃のチャンスを伺っていた。
1516年石川直経が桂林寺に禁制を出しているので、戦火は加佐郡にも及んでいたようである。

※「禁制(きんぜい)」とは、支配者 が寺社や民衆に対して、禁止する事柄 を広く知らせるために作成した文書     で、別 に禁札、制札とも呼んでいま す。また、「禁制」は文書として記し てあるだけではなく、木札に墨書して 人目につきやすいところに掲げ、のち には駒形の木板に書いて提示される高 札などによって示されるようにもなった。


1517年永正14年3月ごろになると、若狭守護武田元 信は、若狭に不穏な噂があるとの情報を得た。

5月ごろ延永勢が若狭に侵入し、大飯郡和田まで進撃してきた。
その一方で、高浜の逸見河内守が、武田元信に背き、延永春信に寝返りをした。
しかし元信は、娘婿の越前の朝倉孝景に救援を依頼する一方、丹後勢で加佐郡にいる石川直経・一色義清と連携し、幕府の細川高国に運動した結果、幕府からは、武田への支援を命じる 御内書が出される事となった。
高国は、近江国高島郡の朽木種広にも合力を求め、石川直経・一色義清と一緒に戦う事を命令した。
当時の将軍、足利義種は、朝倉孝景に対し、武田元信とともに延永春信を攻撃するように命じた。
これにより、石川直経・一色義清は、武田元信・朝倉孝景の軍と連合し、将軍家による討伐の形をとって反撃を開始した。




【参考文献】 加悦町誌  宮津市誌  竹野郡誌  福井県誌  舞鶴の山城  中世の加悦

丹後の戦国時代 その六

【武田氏と幕府軍の丹後侵攻】

1506(永正3)年、細川澄元の後見として三好之長が上洛。 澄之は丹波国守護、澄元は摂津国守護となる。三好之長は摂津西半国守護代となった。
一方、若狭武田氏は、元信の代になって丹後侵攻を本格的に開始した。
丹 後ではこの年3月ごろ武田氏出兵がささやかれていた。4月に は元信が若狭国中山寺に丹後平定の願文を納め、戦勝を祈願し、6月には管領細川政 元の協力で出兵容認の御内書が出された。
政元は一色義有の丹後守護職を解任して、養子の澄之を一色征伐の大将として派遣した。
一色義有は、京都に使いを出し、政元に赦免を願ったが受け入れられず、5月には、更にもう一人の養子の澄元も出陣した。

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武田軍の行動開始時期は未詳 ながら、武田氏の武将粟屋親栄は7月28日には由良川を越えて天橋立近くに着陣している。
一色勢と武田勢の合戦は8月3日に始まり、激しい戦いとなった。その日の戦いで武 田方は大敗し数百人が討たれたという。
しかし9月 24日には援軍として入った細川澄之勢と武田元信勢が協力して、宮津如願寺付近の一色方小倉氏の山城を夜襲し、攻め落とした。
その後の戦闘 は確認されないが、武田勢は丹後占拠を続けていたものと思わ れる。

1507年4月、細川政元は丹波で軍勢を整え、澄之、澄元、重臣赤沢朝経、香西元長、三好之長らが 大挙して武田氏支援のため丹後に侵攻した。
まさに、【幕府軍対丹後軍】の戦であった。
この非常事態に直面して、一色家臣団は、内戦どころではなくなった。延永春信と石川直経は休戦し、延永春信は府中の阿弥陀ヶ峰城に、石川直経は加悦の安良山城(現与謝野町)に、一色義有は府中の今熊野城に籠もり、防戦につとめた。
府中町の寺や民家は一色方によって焼かれ、灰と化した。
これは敵方が侵攻し、寺などの建物を占領するからである。

これに対し、細川澄之、香西元長の軍は石川直経の安良山城を攻撃、武田元信、赤沢朝経軍は府中の成相寺に陣を取り、延永春信と一色義有への攻撃を開始した。
5月11日、合戦の火蓋が切られたが、寄せ手の武田軍は多くの死者を出し、なかなか丹後勢は落ちなかった。
5月18日、合戦でまたも武田方が敗北し、 同25日には細川政元が京都に帰ってしまった。
さらに加悦城を攻めていた細川澄之の率い る丹波勢も城将石川直経と申し合わせて帰陣した。ただ府中(宮津)では、今熊野城 の一色義有軍、および阿弥陀ケ峰城の延永勢と両城を囲む武田・赤沢勢とが対峙した状態 のままであった。

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ところが、6月24日、細川政元が京都で養子の澄之、薬師寺長忠らに暗殺されると いう大事件が起きた。
この知らせが6月25日には丹後在陣中の細川勢にもたらされたため、赤沢朝経は一色義有と和睦し、 翌日宮津城まで退いたところ、27日、政元の死を知った石川直経らは挙兵し、普甲谷で再 び合戦となった。
勢いついた石川直経は、赤沢朝経、古市丹後公ら、細川軍の諸将に勝利し、ここで粟屋親栄や赤沢以下数百人の戦死者を出した武田・細川軍は、若 狭・丹波へ退却せざるをえなかった。
このように、武田、細川勢の丹後侵攻は失敗に終わり、また、幕府の最高権力者である細川政元が死亡するという、とんでもない一大政変を引き起こした。
これにより、室町幕府は更に衰退化していった。
丹後の合戦が、日本の歴史に大きな影響をおよぼすことになったのである。

丹後の戦国時代 その五

【石川氏と延永氏の合戦、武田氏の乱入】

武田氏と一色氏は、武田信栄が一色義貫を大和陣中で暗殺してその若狭守護職を得た。
また、応仁の乱では、一色氏が西軍、武田氏が東軍に分かれて戦い、その上、一色義直から没収された丹後守護職を一時武 田信賢に与えられたが、のち一色氏に返付されたなどの経緯があり、一色氏と武田氏は、互いに 強い不信感を抱く宿怨関係にあった。
さらに丹後と若狭は境を接しているため、両 氏の間には常に緊迫した情勢が続いており、何かきっかけがあるとただちに武力衝突につながっ た。
こうした事情があり、武田氏の丹後出兵は幾度となく繰り返されていった。

1503(文亀3)年、幕府の実質的支配者、細川政元には実子がなく、前関白九条政元の子、澄之を養子としたが、のちに前阿 波守護細川成之の孫の澄元を養子に迎えた。更に、同じ細川一門の細川政春の子、高国を養子とし、それが因となって、家中は 澄元派と澄之派に分かれて対立するようになっていった。
いよいよ官僚細川家でも家督争いが始まった。

一方丹後では、守護一色氏の権力は完全に失墜し、守護一色義有は、丹後の国人衆を統制できなくなっていた。
丹後守護被官伊賀又次郎が竹野郡で反乱を起こした。
同年、もともと仲の悪かった丹後守護代の延永春信(府中)と丹後守護被官石川直経(加悦谷)が対立し合戦となった。
一色氏家臣同士の戦闘である。
更に、この内紛に便乗して、若狭の武田元信の軍が丹後に侵入し、丹後国は「国錯乱」と呼ばれほど激しい戦火が繰り返され、本格的な戦国時代に入った。

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※石川氏は、加悦の安良山城を本拠地とする国衆で、元々荘園をもっていた。
幾地、滝、石川、亀山、金屋等、加悦谷一円に一族の城を持ち、支配域を広げていた。
丹後国初代守護満範からの有力被官として、在京奉行人や、若狭今富名代官、伊勢国守護代を出している。
守護勢力が弱体化した当時は、加悦谷の石川氏、宮津の小倉氏、久美浜の伊賀氏が、国の奉行として、丹後を三分割していた。

一方の延永氏は、国府、宮津の府中を本拠地とし、丹後守護一色氏の守護代を務めてきた。
丹後国で守護代として地位を保持しながら、次第に勢力を広げ、主家をも凌ぐほどに成長した。
天橋立智恩寺の多宝塔は、延永氏の残した遺産である。
しかし、1497年、一色五郎を殺害し、内乱を起こしていたようだ。
また丹後水軍を率いて、若狭国を攻撃している。



プロフィール

南方系海人

Author:南方系海人
ブログへようこそ!
古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
間違えた認識もあるかと思います。
自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

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