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与謝の金剛禅寺の伝承

金剛寺の由来
(与謝野町与謝)
赤石ケ嶽の中腹に根本寺なる大寺があり、この寺が焼失の時、僧侶が牛に乗り大江山から下りて金剛寺を開いたという。小字〃牛のつめ〃という地名がある。

一本の松 
与謝の金剛寺にある松で、江戸期、当寺の住持が加悦へ嫁にきた中郡峰山の女を離縁させようとした。
 女は離縁するなら、寺を焼くか、私を連れて逃げるかの何れかという。住持は寺を焼くことはできず、寺の裏から奥滝の大田和の方へ連れて逃がした。途中住持は、小字三年坊で、刀を抜き女を驚かしたが、女はその刃をつかみ反抗した。
 住持は刀を引き鞘におさめようとしたが、この時女の指が切れ落ちた。住持は驚きの余り、気が狂い、刀で女の腹を刺した。その女の死体を付近の谷に落し、男松を一本切って帰り、これを境内に植えた。

宝積山金剛寺  与謝小字北
 一四〇三年(応永十年)天田郡天寧寺の元哉和尚によって開山され、一五七三~一五九二年(天正年間)兵火にかかり、一八四二年(天保十三年)二月に再建した。
本尊は地蔵菩薩像で、藤原末期の作であり、加悦町では最も古い仏像である。本尊は赤石ケ嶽にあった根本寺から移したものと伝えられている。文化年間のものといわれる地蔵菩薩縁起がある。境内に砂野家寄進の観音堂があり、境外仏堂として、与謝小字出口の観音堂に観音菩薩を祭り、小字阿弥陀堂に阿弥陀堂がある。)525(金剛寺の由来 赤石ヶ獄の中腹に根本寺なる大寺があり、この寺が焼失の時、僧侶が牛に乗り大江山から下りて金剛寺を開いたという。小字〝牛のつめ〝という地名がある。
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三河内の梅林寺

梅林寺(ばいりんじ) 
室町時代に覚陰真如和尚によって創建された臨済宗の寺院。
御釈迦さんが御本尊だそうです。
寺宝の銅鐸は、国の重要文化財となっており、比丘尼山頂から二つ出土しました。高さ107cmの立派なもので、表面は袈裟だすきが刻まれている。弥生時代後期の作。
住所:京都府与謝野町三河内2078
山号:臨川山 宗派:臨済宗妙心寺派
開山:覚隠真如 
開創:1570年 
本尊:釈迦牟尼
山門:町指定文化財 1793年
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/migoti.html
梅林寺蔵銅鐸《与謝郡誌》
 三河内村の梅ヶ枝の背後幾地、岩屋両村地界なる通称比丘尼城より発見せしものにて大さに於は本邦有数の鐸なり。丹哥府志に古代の宝鐸と題し次の如く云へり。
 文化年中寺の後山より古銅器を掘出せり其状釣鐘の如くにして釣鐘にあらずまづ宝鐸の類なり。大小二つ相重り高サ三尺五寸径一尺五寸其厚僅に一分上に龍頭あり其左右に穴各二つ其半服の下にも左右に穴各々二つあり金の性は所謂唐金なり其廻今緑青を塗るに似たり地紋は日本の模様と見えす「下略」
此の鐸に就ては本府の調査報告左の如く載せたり。
       三河内村梅林寺ノ銅鐸
 梅林寺ノ銅鐸ハ同村ノ中比丘尼城ト云へル地ヨリ出土シタリト伝へ形状図版ニ示ス如ク銅部底長径一尺三寸二分同高二尺四寸鈕高一尺一寸二分アリ大形銅鐸中ノ代表的ノ形ヲ取リ文様ハ袈裟襷ノ系統ニシテ主ナル分子ハ格子目紋ト複合鋸歯紋ノ二者ナリ而シテ両側ノ鰭ニ又三個ノ小耳アリ鈕ニハ同シク大形ノ渦紋状ノ耳ヲ附ス鋳造頗ル精巧ニシテ形式整ヒ全体ノ形状ニ於イテ紀伊国日高郡雨請山近江野洲都大岩谷伊賀国名賀郡湯舟等ニ出土セル鐸ト酷似セリ。
此ノ鐸寺伝ニ依るルニ古ク徳川時代ノ中頃三河内村ト岩屋村ノ堺ノ山腹ニシテ寺ノ乾ニ当ル上記比丘尼城ト云フ地ヨリ出土セル二個ノ一ナリ埋没ノ状態ニ就イテハ一日村童四五ソノ地ニ遊ビ山腹ノ傾斜面ヲ下レル際偶然鐸ノ一部ヲ見出シ土人梅谷治助ナルモノ掘リ獲テ寺ニ納メタルガ内一ハ破損アリ文化年間同寺楚鐘鋳造ノ時鋳漬シナ今存スルモノ他ノ一ナリト云フコレニ就イテ同寺所蔵ノ文化五年辰三月ノ「鐘鋳記録帳」ヲ験スルニ内ニ此ノ銅鐸ニ関シ次ノ二記事アリ。
 (一) 比のかね当山の乾にあって比丘尼城といへる城跡有嶮岨峨々として松柏枝を交へずそのかみ延享年中大雨降続所々山崩多し此物彼山之辺りに漸嶺貳三寸斗兀山に顕れり樵父業のひまに彼地に至りあやしみ是を掘出せば異形変物也早速御地頭青山公に御入覧に入れ所一家中受に号る者那し其後江戸表に遣し諸家に見せしむれ共一つ以て実号なし斯ろ稀代之物掘出せしは其村はんねひなる端ならん速に梅林寺納宝物と致すべしと御下知を蒙り夫より六十余年の間永く宝蔵に納置今鐘鋳参詣の衆生へ開扉致所是に名付る人あらば竊に聞かまほししと。
 (二)(前略)然る所四十八年以前宝暦十辰之九月廿七日之昼八ッ時壹寺焼失仕候其節右之鐘茂焼落申候就夫焼鐘を用候ば村方不繁昌之由申伝侯得共共鳴昔格別不劣候義に御座候此儀如何事哉先年比丘尼城與(銅鐸ノ図アリ略)如此之カネ二ッ掘出シ壹ツハ当寺什物ニ罷在候壹ツハ掘出シ申候節余程損シ致出来候ニ付打割鋳鐘ハ入申侯義ニ御座候其故歟響能候様言伝由候(下略)
 前峰ノ記事ニ依レバ鐸ノ発見年次延享中ニシテ発掘ノ状態ハ稍寺伝ト異リ本寺ノ所蔵ニ帰セル経過ヲ明記セリ耐シテコレニハ同時二二口ノ発見ヲ云ハズ後者ハ之ニ対シテ寺伝ノ如ク発掘ノ二口ナルヲ記シ内一口ハ破損ノ爲鋳鐘ニ際シ加へタリトアリ云々(梅原末治氏)
之れが駿見の年月に就いては宮津日記下の春に矢ノ記の記事を引きて左の如く云へり。
 同十七年子四月九日三河内村端郷梅カヘト申所ノ岩屋ノ城山ニテ釣鐘ノ様ナル物二ツ掘出シ御城へ上ル長サ四尺斗リ廻リ三尺五寸斗カラカネ鋳物ニテ模様珠ノ外美敷物也当時鋳物師等中々可致事難成旨申上ル其形何トモ名ヲ付候者アラズ。

 同十七年とは享保十七年のことなり梅ヶ枝と岩屋村と幾地村とに跨がる山を比丘尼城と云ひつゝあれば斯ら関係上岩屋の城山など云へるなるべし。鐸の内部に梅枝、治郎と墨書す恐らく発見当時の筆記ならん。

大浦半島の古刹 多禰寺

飛鳥時代最古の古刹、多禰寺を拝観しました。
国の重要文化財金剛力士像は木造として、東大寺に次ぎ日本で二番目の大きさを誇ります。

舞鶴湾を眼下に景勝の地にあるこのお寺は、医王山多禰寺と称し、当地に初めて仏教を伝えた飛鳥時代最古の古刹です。

今を去る事千三百年の昔、両丹を支配した豪族が乱を起こし、時の帝 用明天皇は第三皇子麻呂子親王に追討の勅命を下し、激しい戦も大江山(与謝の大山)の攻防を最後に平定されました。

世の不安を願う親王は、譲持仏の薬師如来を本尊に鎮護国家の道場として多禰寺を創建されました。往時は七堂伽藍の瓦が山並みに映え、七仏薬師の霊場として香煙が絶ゆことなく、門前市が軒を連ね賑わいました。

栄枯盛衰は世のならい、時代の変遷に壮大な姿は影を潜めました。然しいまもなお風光明媚な山懐に庶民の薬師信仰は息づいて居ります。歴史の風雪に耐え抜いた證として数多くの現存する文化財は訪ねる人々に語りかけ、偲ぶ事が出来ます。《多禰寺パンフレットより》

『多禰寺縁起』

用明天皇2年(587年)、聖徳太子の弟、麻呂子親王(まろこしんのう)の開基。父・用明天皇の命を受けた麻呂子親王は、庶民を苦しめた鬼賊(与謝の大山、三上ヶ岳に住む英胡、軽足、土熊)を「七仏薬師の法」の力で平らげ、その加護に報いるため、丹後の国に七箇所の寺を建て、七仏薬師像を安置した。その中で、親王の護持仏であった第七薬師瑠璃光如来を本尊としたのが当寺で、医王山多禰寺と名付けられた。

現在は真言宗東寺派に属し、西国薬師四十九霊場30番札所として、風光明媚な自然の山懐にたたずんでいる。 また、奈良時代〜平安時代などの貴重な文化財を、当初の像容で遺存されている。

天橋立出船祭

【天橋立出船祭】

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出船祭りは、知恩寺の九世戸縁起を再現したお祭りです。
阿蘇海上を照らす数多くの松明の中、お坊さんのお経から始まり、子供の演舞、宮津節、龍 舞・巫女舞が演じられる。
イベントの最後には花火が打ち上げられ、夏本番を迎えます。
花火大会の後、回転橋の前で、和太鼓、龍舞、巫女舞が演じられ、目の前で見学出来ます。
丹後でも知らない人が沢山いて、もっと宣伝すべき盛大なお祭りです。
花火もいいですが、お祭りの由来を知り、演舞を最後まで見たいものです。

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九世戸縁起(くせとえんぎ)」
太古の昔、「いざなぎのみこと」「いざなみのみこと」という神様が、 日本列島、そして天橋立をお造りになりました。 この神様が出来上がった地上をご覧になりますと、悪龍が大暴れしていて 人々が住む事ができません。
神様たちは、毎日相談されました。 やがて、いざなぎのみことの申されますには、
中国五台山におられる文殊菩薩こそ智恵第一の仏様で、「何といっても、昔から龍神の導師である。
悪龍もきっと改心するであろう」と。
そこで神様たちは、五台山から日本海の荒海を越えて、 文殊菩薩を丹後天橋立のこの九世の戸(天橋立)へお迎えされたのであります。 文殊菩薩は千年の間、この地でやさしく慈悲の心をもって説法をされました。 やがて改心して善龍となった龍は仏に帰依し、 人々を守護することを誓ったのであります。

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天橋立文殊について
切戸の文殊、九世戸の文殊、知恵の文殊とも呼ばれる。
日本三文殊のひとつで、奈良県桜井市の安倍文殊院、山形県高畠町の亀岡文殊があります。
本尊の文殊菩薩は秘仏とされる。 正月三が日、1月10日、7月24日の年5日の開帳があります。


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知恩寺(宮津市史)
鎌倉時代制作の于?王と善財童子を従えて獅子に騎乗する 文殊菩薩像(重要文化財)を本尊として祀る智恩寺は、縁 起などで天橋立を中国五台山文殊大士降応の土地としてい るが、その開基については伝承の域を出ない。「延喜聖 主」こと醍醐天皇から「天橋山」の勅額を賜わり、智恩寺 と名付けたと伝える(『九世戸智恩寺幹縁疏并序』、『対 潮庵記』が、『丹後国惣田数帳』にはわずかに「九世戸 二町三十六歩」を寺領として載せているだけで、所領規模 だけから見れば鎌倉時代の智恩寺はそれほど規模の大きな 寺院とはいえなかった。
『対潮庵記』は、相国寺の彦龍周 興(一四五八~九一)が文明十四年(一四八二)に天橋立 に遊んだ際の漢詩文であるが、彦龍はその中で延喜以来応 永年中まで「爾来誰が人か主たるを知らず」というありさ まであったと述べている。なお寺伝では、嵩山居中が嘉暦 年間(一三二六-二九)に智恩寺を中興して新たに禅宗寺 院としたという。

http://www.monjudo-chionji.jp/

成相寺 撞かずの鐘

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成相寺の由来と伝説

真応上人が霊地を求め諸国を旅していたが、この地の風景に惹 かれて庵を結び修行していたところ、慶雲元年(704年)のある 日、老人が現れ観世音菩薩像を置いて立ち去った。上人はこの像 を安置するための堂を建てたのが寺の創始とされているようであ る。 大雪の続いた冬のある日、食べ物はなくなり上人は餓死寸前で あったが、そこに一頭の傷ついた鹿が現れた。肉を食べてはなら ないという戒律があったが、命には代えられず、その鹿の肉を煮 て食べた。上人は食べてから、鹿の肉と思ったのは本尊の腿の木 片であることに気付き、観世音菩薩が身代わりになり助けてくれたことを知った。 上人は喜び、木片を観世音菩薩の腿につけると像は元通りになったという。これが成相(合) 寺の寺名の由来とされている伝説である。

慶長十四年(1609年)、お寺で新しく鐘を作ることになり、 村人から寄付を募りました。 一回、二回と鋳造に失敗し、三回目の寄進を募ったとき、 ある長者の妻はお金の代わりに自分の子供を寄進すると言って、寄付を断りまし た。 やがて鋳造の日、人々が見物に集まりました。 その中に例の長者の妻も子供を抱えて見物をしていました。 ところが長者の妻は誤って 煮えたぎるルツボの中に我が子を落としてしまったのです。 このような悲劇もありましたが出来上がった鐘は美しい音色を響かせていまし た。 しかし耳を澄ますと子供の泣き声のように聞こえたそうです。 人々はあまりの哀れさに子供の成仏を願って一切この鐘を撞くことをやめ、 それ以来「撞かずの鐘」と呼ばれるようになりました。   --成相寺hp--

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成相寺の撞かずの鐘

400年の時を越え 伝説の鐘が響く 宮津・成相寺で「撞かずの鐘供養」

約400年ぶりに打ち鳴らされた「撞かずの鐘供養」(宮津市成相寺) 日本 三景・天橋立近くにある 宮津市成相寺の西国第28番札所・成相寺で11日、 「撞(つ)かずの鐘供養」が行われた。 鋳造時以来約400年間、突かれることがなかった伝説の鐘が1日だけ復活、 境内一帯に時を超えた音を響かせた。 寺伝によると、江戸時代の初めに新鐘を鋳造。 乳飲み子が銅湯のルツボに落ちたまま完成した鐘を鳴らすと、 子どもの泣き声が聞こえたため、その成仏を願って突かれなくなった、とされ る。 今回、開山1300年の記念行事の一環として、 供養と鐘本来の時を告げる役目を再現しようと鐘突きが実現した。 この日午後、石坪昭真住職ら11人が参道脇の鐘堂前で読経。 この後、板張り、密封された堂内の鐘を 僧侶らが中に入って交代で打ち鳴らした。 午後2時半に3回、3時に3回、4時に4回、5時に5回。 「ゴーン」という鐘の音が周囲の山間にこだまし、 詰めかけた多くの参拝者や観光客らも静かに手を合わせていた。 この鐘は12日から再び100年間封印され、「撞かずの鐘」に戻る。 (京都 新聞) -

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プロフィール

南方系海人

Author:南方系海人
ブログへようこそ!
古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
間違えた認識もあるかと思います。
自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

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