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まりこふんさんの古墳本


昨年、丹後に来られた、まりこふんさんの古墳本が発売されます。
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伊久知城(幾地城)の調査 1 石川五右衛門伝説の城

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上の写真は、山頂本丸?からの大江山

伊久知城(幾地城)

・場所 与謝野町幾地城山
・築城 不明、1500年頃と言われている。 ・落城 天正10年10月1日(1582年)
・標高 110m ・占地 山頂
・城主 石川氏、のち坂根氏 ・遺構 曲輪、帯曲輪、切岸、堀切、大手道、虎口

下の写真は、幾地集落からの登山口。
そのまま真っ直ぐに直進する道が大手道である。
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伊久知城跡は、与謝野町幾地の北方にある城山に位置する。 臨済宗養源院の斜め裏になる。

城主は、郷土史によると、丹後一色氏の被官、「国の奉行」石川直経の嫡統系の石川氏である。 (石河氏とも書く)

天正期における城主は、《一色軍記》《丹後旧事記》《丹州三家物語》などによると、石川左衛門 慰秀門、赤井五郎となどの名前が見えるが、丹後の石川氏について、《 丹後国田数帳》に石川中務 の名前があるので、こちらとも関係があるかもしれない。 《百鳥講古文書》《坂根家古文書》によると、石川左衛門とある。

幾地、隣接する四辻地区は、古来より加悦谷地区の重要な要所であり、戦国時代、 但馬国との国境 でもあることから、加悦谷一帯を支配する石川氏一族の重要な城である。
石川氏については、「丹後の戦国時代」に詳しくかきました。

主郭部分には、稲荷神社が祀られている。
山城によく見られる光景である。
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約400坪ある城郭は、中規模ながら、西尾根側に曲輪が連結状に広がり、下の城下町に向かう二本の南東、南西の尾根筋にも 大小の曲輪が連結されている。 幾地は元々小さな集落と思っていたが、府史跡の中世地蔵山遺跡などもあり、 意外と発展していた のかもしれない。 加悦谷地域には、石川一族の城として、石川城、安良山城、亀山城、金屋城、滝城などがあった。 幾地城も、出城ながらこれだけの城郭が築けたのは、《国の奉行》石川氏の勢力の大きさ充分が 窺えるものである。

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大手道は、手入れがしていないため、かなり荒れてはいるが、
まだしっかりとのこっていた。
暫く登れば、右手に三連結された曲輪がある。

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曲輪は、倒木などでかなり荒れている。
今回紹介するのは、南東側の三連曲輪である。
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有名な細川幽斉、忠興による一色義俊謀殺事件により、石川左衛門、坂根伊津紀(斎)も同じ運命の道を 辿る。 石川氏家臣坂根道秀(二代目斎)が城主となっていたが、1582年(天正十年十月一日)、 細川 軍により攻められ落城したと伝わる。 城跡には城山主郭付近に幾浦稲荷が祀られている。 山城にある稲荷神社の場合、単なる農耕神ではなく、守護神として祀られていた可能性が高い。

機会を見て、伊久知城(幾地城)はもう少し調査を進めていく。

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曲輪から少し左側に登ると、稲荷神社の鳥居が見える。
この辺りが虎口である。
次回は、主郭から二の丸、三の丸、南西側の曲輪を調査したい。

石川五右衛門丹後幾地説4

幾地説


戦国時代、一色氏家臣として支えた坂根家古文書
これだけでなく、同じ坂根家一族にも、同じような史料や古文書が存在する。
はっきりと書かれた五良左衛門の存在…。

※伝説は伝説であり、史実と異なるのかもしれない。しかし、何も無ければ伝説は始まらない。歴史家の先生とお話ししていると、ロマンを求めてお話しされるタイプと、「これはこうだからそうでは無い」と、徹底的に追求するタイプの方がいるようです。先日、伴とし子さんの講演会に行ったが、古代丹後王国の研究と限りないロマン溢れる講演に感激した。郷土の伝説は、可能性のある限り、ロマンを残しつつ調査したい。
何事においても否定的な人とは、話をしても、つまらない。
日本神話やおとぎ話が、何故面白いのか。…創られた中に、真実も隠されていて、なかなか答えの出ない推理ができるからだ。歴史は面白い。特に丹後は。

石川五右衛門丹後幾地説3

石川五右衛門伝 (但馬丹後丹波 たんたん紀行)


石川五右衛門伝

歌舞伎でもおなじみ石川五右衛門
「百日蔓の大盗人」というのが通り相場だが、実像には謎が多い。 出生地についても諸説紛紛。そのひとつに野田川町出身説がある。
「石川五右衛門(いしかわごえもん) 一五五八~一五九四
「石川五右衛門はそのむかし、幾地(当時は伊久知) 山城主だった石川左衛門尉秀門の次男として生まれた」というのだ。その根拠と推理はさておき、 まずは同地を訪ねてみた。
野田川町幾地は、むかしから「丹後ちりめんの里」として有名だ。 歩いていると、道端の家から機音が間こえてくる。その機音に包まれ静かにたたずむ、養源院というお寺の裏手に「史蹟伊久知城趾」と書かれた石碑が建ってぃた。幾地出身説、 その他である。石碑の右手には確かに「石川五右工門出生之地」とも刻まれていた(昭和三十九年建立)。それにしても本当にここで、石川五右衛門は生まれたのだろうか。
石川五右衛門幾地出身説はまず、大田亮著の『姓氏家系大辞典』 の「石川氏」の項に触れる。それによると、「伊賀の平姓石川氏で、川合一族中にて平信兼の末裔なり。丸の内に梶の葉。大盗石川五右衛門は丹後の石川氏とも、 伊賀者忍者より出づともいう」とある。
次に、地元の老人たちで幼いころに、″ 天下の大盗賊石川五右衛門はこの土地の出じゃ″ という話を聞かないで育ったものはない、という共通したコメントだ。そしてこれらを受け、昭和四十四年に発刊された「野田川町誌」 では、地元の郷土史家たちが本格的に資料の収集、分析を行い、その結果が「石川五右衛門の出生地考」として収録されている。
さて、そのいきさつを同町幾地に住む郷土史研究家、 浪江重雄さん(六三)の説明でひもといてみよう。     
それによるとまず、舞鶴市立西図書館にある『丹後 旧事記(くじき)』という本が登場する。この本は、江戸時代初期から中期にかけて編さんされたものらしいが、 丹後地方史を語るうえで比較的価値の高い資料だという。その中に、「秀門、天正十年田辺城(宮津城説もある)にて討死、嫡男文吾秀澄は弓木山の戦(与謝郡岩滝町)に討死す。次男五良左衛門はのち大閤秀吉公の伏見城にはいり千鳥の香炉を盗 んだが、仙石権兵衛につかまり、京都七条河原にて御仕置うける」との記述がある。色白い若君で和歌と謡曲の名手『一色軍記』などによると、秀門は丹後守護職一色義俊の家臣で、 足利幕府が減んだ天正元年(一五七三)のころ伊久知城主になった人物。しかし、 義俊は足利家の血を引く身の上。当時、天下を手中に収めんとしていた信長にとっては、 気になって仕方がなかった。そこで話は前述のいくさへと進む。五右衛門幾地出生説は、この秀門の嫡男、文吾秀澄の妹、 菊寿が嫁いだ坂根斎――秀門の次の城主、その後代々庄屋を務める―― の子孫(養子)が名のりをあげたことで急浮上した。この人は、大阪市内に住む坂根さんで、坂根家十五代日になる。昭和三十九年、同家で「代々家宝として間外不出、 人に見せてはならぬ」との口
伝が残る系図が見つかった。系図には「文化十二年(一八一五)写す」と記されているが、それには、石川次郎秀廉から始まり、石川左衛門尉秀門へ、 そしてその下に右から連名で、文吾秀澄、菊寿、五良左衛門とある。つまり『丹後旧事記』の中に登場した「次男五良左衛門」が、 初めて実在する他の資料の中に浮かびあがった、という訳でる。さらに、坂根家の家伝では、「五良左衛門は面長、色白い若君で和歌と謡曲の名手だった」といわれている。また、 地元の老人たちはその所行を、「伊久知城落城の際、二十四歳だったであろう青年石川五良左衛門が、父、兄らの無念を晴らそうと、 当時、一色氏の守護代として伊勢にもあった石川家を頼っていき、伊賀に入って忍者修行をしたのでは」と信じているとも。悪事の限りをつくした天下の大盗賊、 釜煎の極刑に付された大悪党、石川五右衛門像は、かなり開きがある。また、歌舞伎「 楼門(さんもん)五三(ごさんの)桐(きり)」で南禅寺の山門の欄干に片ひざをつき、
「絶景かな、絶景かなァ」と大見栄をきり、長い掛け合いの後、下に控える 真柴(ましば)久吉(ひさよし)が、「石川や浜の真砂はつくるとも 世に盗人の種子はつくまじ」と応える名場面から連想される石川五右衛門とも、 少々違うようだ。お墓は信長父子と同じ大雲院に坂根家所蔵の系図と『丹後旧事記」にある「五良左衛門」が「 五右衛門」と同一人物であることを確定する資料はなにもない。名前の文字がひとつ多いなどということは、昔はよくあったとはいうが……。真実はやはり謎だ。ただ、 坂根家の口伝も含め、これらの資料が正しいとすれば、石川五右衛門の出生にひとつの大きなヒントを与えたことになる。石川五右衛門の出生を、クエッションマーク付きで、「 国民百科事典」の通り永禄一年(一五五八)とするなら、それから、四百年以上の月日が経っている。 謎が謎を呼ぶのも当然かもしれない。

野田川町幾地から、京都市東山区祇園町ヘやってきた。 八坂神社南側に大雲院がある。寺号は、織田信長の子、信忠の法号から付けられたという。寺の裏手が墓地になっている。墓地には、正面に信長父子の墓がある。そして、 その墓地の一角になぜか、石川五右衛門の墓もある。周りの墓より大きく、「 融仙院(ゆうぜんいん )良(りょう)岳(がく)寿感(じゅかん)禅定門(ぜんじょうもん )」という院号が刻まれて……。
もとは四条河原町の繁幸な一隅にあった。そこは今、 駐車場に変わっている。

(87年5月)

※幾地臨済宗養源院には、石川氏累代に位牌がある。
また、京都大雲院の墓地前にある宝鏡院塔には坂根家の名前が彫られている。(明治時代)
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石川五右衛門丹後説2

◎野田川町 史


近世文化と野田川町 安土桃山時代 織 田 政 権 と 石川五右衛門丹後説

応仁の乱後、約一世紀にわたる全国的な争乱は、 各地方における強力な大 名の出現により、割拠の体制を示したが、やがてその間から次第に統一の機 運が高まった。
一五七五年(天正三)になると、織田信長は、 明智光秀を起 用して丹波の経営に当らせ、同年一月丹波国の領主を命じている。ところ が、当時丹波には、赤井直政(荻野悪右衛門ともいう。)が、 同国の水上郡 黒井城に居ったので、光秀の丹波攻略は容易でなかった。

やがて、一五七九年(天正七)五月、信長は家臣である羽柴秀長、 丹羽長 秀に光秀の応援を命じたので、ここに、丹波国を平定することができた。
一 方、丹後国は、一色義通が、一五五八年(永禄元)、領主となって、 将軍足 利義昭に仕えていた。義昭は、信長の援助により将軍職に就くことができた ので、当初両者の間柄は父子に準ずべきものであった。しかるに、 義昭は、 信長の勢力の強大になることを恐れ、ひそかにその暗殺を企てた。
このこと を知った信長は、一五七三年(天正元)、ただちに義昭を京都から追放し、 室町幕府はここに滅亡した。しかるに、一色義通は、 足利氏の重臣であった が、一五七五年(天正三)、信長に従い、丹後国はそのまま一色氏に与えら れた。義通は、無道な行状が多かったので、信長は、 ただちに細川藤孝に命 じて丹後国を攻撃させた。
これすなわち、一五七八年(天正六)四月のこと で、藤孝は、その子忠興、興元らとともに、十月丹後国に入って、翌十一 月、宮津八幡山に出陣、一色氏と戦った。一色、細川両氏は、 応仁の大乱後 ふたたび相まみえたのである。かくて、この戦いは、細川氏の敗退となっ た。藤孝は、光秀に請い、与謝郡日置城主松井四郎右衛門 との政 策結婚を思い立ち、わが女を松井氏に与えて味方に引き入れた。
やがて、加 悦城主の有吉氏も細川方に加わった。
この情勢からして、一色氏は、翌一五 七九年(天正七)一月に、加佐郡建部山城 を出て、同郡東雲の中山城に入った。城主沼田幸兵衛は、 こ のことを細川方に内通した。
藤孝は、急いで十七部将に命じて中山城を攻撃 させた。
一色方は、大江越中守(三重城)を初め、金谷伊豆守(石川城)、 石川左衛門尉秀門(幾地城)、赤井五良(四辻城)、塩見(垣見) 筑前守 (山田城)など十三部将が奮戦した。
戦は、三月におよんだので、城主沼 田幸兵衛は、城内に火をつけ細川方に味方した。
一色方は戦敗れ義通は 由良川の畔で従者と共に自匁した。義通の子義俊は、危難を免がれ、与謝郡 弓木城に退いた。城主稲富伊賀守は、「砲術」を究めていたので、 ここを一 色氏の根拠と定め諸将を統卒した。

その後、細川氏は、丹後攻略に関して明智光秀に今後の策を請い、 やが て、丹後二分の方針が定められた。
すなわち、一色氏には、中、竹野、熊野 の三郡を領有させ、細川氏には与謝、加佐の二郡が与えられ、たがいに織田 信長に従うようにした。時に一五七八年(天正八)七月、細川忠興は、 信 長より丹後十二万石を与えられ、翌八月に、父藤孝と共に官津城(陣館式) に移り、翌一五七一年(天正九)三月、丹後国の所領を検地した。
一色、 細 川両氏の和議が成立したのは、この年の五月に、藤孝の娘伊也を一色義俊に 嫁したことにある。かくて、丹後の八十五名の諸将は、それぞれ、細川の本 城田辺(藤孝の築城)と一色の居城弓木に勤めた。やがて、一五八二年( 天 正一〇)一月(一色軍記による)に、忠興は、義俊に対し兄弟の提携を田辺 において祝することを考え、義俊の返事を待った。義俊は、ただちに奥三部 の諸将に報じ、弓木在城の地侍、大江越中守、垣見(塩見)築前守、 荻野悪 右衛門(赤井直政)、赤井五郎、同平治、石川左衛門尉秀門、同文吾、同五 良左衛門、金谷伊豆守詮元その他の武将と評議し、 田辺城に出向くことを決 した。従う者は、石川左衛門尉、同文吾、金谷伊豆守その他であった。とこ ろで、田辺城に入った先の沼田幸兵衛と石川左衛門尉、 金谷伊豆守とは対談 したが、やがて争論となった。

かくして、沼田幸兵衛は、石川左衛門の右肩を切りつけ、 他方義俊も、忠 興に謀殺されたのである(細川家記録には九月八日)。
金谷伊豆守、石川文 吾は、急ぎ弓木城へ馳せ、一色氏の危機を報じた。
伊豆守は、 与謝郡石川城 へ籠り、文吾は、弓木にて義俊の叔父中郡古原城主一色義清を迎えた.( 一 色義俊の謀殺時、石川左衛門尉の家臣坂根斎も討死する。)かくて、一色、 細川の大激戦となった。田辺城の細川藤孝は、その子興元、松井四郎右衛 門、有吉将監を陣将として出陣させ、三方より一色氏の包囲を行なった。
す なわち、温江、石川の城をはじめ、一色氏の諸城はほとんど落城し、 石川城 主金谷伊豆守は、加悦城の有吉将監、三河内山城の有吉玄蕃頭のために、 一族一五三名と共に切腹し果てた(石川の金谷三良左衛門氏宅に、 金谷氏系 図並びに一色義俊の位牌がある。前一色賞雲源忠大禅定門、大正拾壬午九月 八日)。五月に、細川方の攻撃は強まってきた。このとき、 弓木に籠城して いた一色義清は、細川の本陣に突入、途中官津大手川付近で切腹し、一色氏 は滅んだのである。一色氏が、丹後国を支配してより約二四〇年という( 細 川家記録九月二十八日)。

弓木城落ちてより、一色氏の家臣は、細川氏に従うものが多く、 石川亀山 城主石川悪四郎、幾地城主坂根道秀(石川文告が弓木城で九月二十八日戦死 後、その家臣坂根氏城主となる。)、幾地別城主赤井五郎時綱( 後安田貫助 と改める。)などがあった。かくして、細川氏は、丹後国を領有することに なり、藤孝は田辺城に、忠興は官津城に居を構え、興元は吉原城(峰山と改 める)に、松井四良右衛門(佐渡守)は久美浜の陣代とし、有吉将監( 武蔵 守)は加悦谷の陣代に、有吉四良右衛門(玄蓄頭)は加佐郡中山城主に任ぜ られた。かくて、この年十月、丹後国全土は細川氏の支配となった。    

※昭和40年代に発刊された野田川町史である。当時のこの記事は、「一色軍記」が元になっているようなので、脚色された部分や、間違いも多い。しかし、日本書紀、古事記をはじめ、古来から伝わる伝記ものは、それはそれでミステリーを生み、良いのではないか。すべて正しい文献事態、探すのに無理がある。史実と伝説は異なる事もある。時代が変われば、調査も進み、新たな発見もある。一色氏の謀殺事件は、九月八日、宮津城米田屋敷と思われる。



◎石川五右衛門の出生地考

――丹後説を裏づける坂根家系図から――

″石川や浜の真砂は……のあの大盗賊石川五右衛門が文禄三年( 一五九五年) 八月二十四日、京の三条河原で釜煎りの成敗にあったという。 ところで五右 衛門の実在性については、種々云われているが、「言経卿記」(山科言経日 記)「続本朝通鑑」「歴朝要紀」のほか、江戸時代の読本や黄表紙といった 資料に記されているので、その実在性は疑えない。問題は石川五右衛間の出 生地である。太田亮著の「姓氏家系大辞典」の石川氏の項に、“ 伊賀の平姓石 川氏で川合一族中にて平信兼の末裔なり、丸の内に梶の葉(註家紋)、 大盗 石川五右衛門は丹後の石川氏とも伊賀者忍者より出づとも云う”とある。五右 衛門は遠州浜松の出身だとの俗説もあるが、これはおそらく浄瑠璃作者並木 宗輔の「釜渕双級(ふたつ )巴(ともえ)」などの創作による影響であろう。 これは浜松 の大名大野家の家臣真田蔵之進幸貫がお家騒動で悪人の迫害を受け河内にの がれて石川五右衛門と名のり、盗賊をはたらくという筋書である。創作のこ とだし、出身地についての信頼性はまずないと云える。

五右衛門の出身地は「姓氏家系大辞典」 にもあるとおり丹後か伊賀に落付 くと思うが、いかなることか伊賀説が支配的である。 これは小説などの影響 が大きく反映しているのであろう。
壇一雄の小説「真説石川五右衛門」や、 故上司(かみつかさ )小剣氏の「石川五右衛門の生立」 にしても伊賀の生まれとして 描かれている。 “幼名文吾、父は由緒ある武士石川左衛門の後裔で先祖代々 伊賀の郷士であったが、だんだん家が衰えて多くあった山林田畑も売り払 い、その日の米や塩にも困るよぅになった”とか“ 忍び足の法がこんなにまで 人に気付かれないで、役に立つものかということは文吾自身にさえ驚かれる 思いであった”(石川五右衛門の生立)と書かれている。 なるほど小説や芝居 では伊賀者に仕立てたほうが、面白いに違いない。 しかし五右衛門は本当に 生えぬきの伊賀者だったのだろうか。この町の老人たちは幼いころに″ 天下の 大盗賊石川五右衛門はこの土地の出じゃ″という話を聞かないで育ったものは なかった。

かくして五右衛門の出生資料を徹底的に集めることになり、 やがて、いく つかの資料のうち「坂根家系図」が最も有力なものであった。 これは大阪市 内で洋服商を営む坂根久二氏の所蔵で、久二氏は坂根家十五代目といわれ る。この系図の初代に坂根斎という人物がおり、 丹後国伊久知城主石川左衛 門尉秀門の娘菊寿を妻としていた。「 細川軍談」「一色軍記」 などで知られ る細川氏と一色氏との争いは天正十年(一五八二年)に至って頂点に達し、 一色義俊は細川氏の居城田辺城(舞鶴)で家臣の武将二十余人と共に謀殺さ れた。この家巨の中には石川左衛門尉秀門もおり、 この後に続く弓木城の戦 いで、左衛門尉の長男文書秀澄も討死した。小説「石川五右衛門の生立」 に 出てくる文吾は、この秀澄ではないだろうか

かくて一色氏の丹後支配二百四十年の歴史は、 こうして細川氏のため終止 符を打たれたのであった。それと共に石川氏は伊久知城もろともに解体され たのである。このようなことを予想していたのか、 左衛門尉は娘菊寿を随一 の家臣坂根斎に嫁がせていた。ところでここに問題なのは、 坂根家系図に左 衛門尉の二男としてはっきり記されている五良左衛門なる人物の「その後」で ある。伊久知城落城の際は二十四才のはずで、 落城の前に行方をくらまして いる。ここで五良左衛門を大盗賊石川五右衛門と同一人物とみるわけだが、 実 のところ、どのような足跡で三条河原で成敗となったか、ただ一色氏の守護 代として伊勢にも石川家があったというから、或いは父、兄らの無念を晴ら そうと青年五良左衛門が、その石川家を頼っていき、 伊賀に入って忍者修業を したのだと考えられないだろうか。この町の古老たちは、これが最も自然 で、したがって事実に相違ないと信じている。
かくして五良衛門が行方をく らましていたのは、もはや丹後で、石川姓を名のることすら許されぬ厳しい 残党狩りを恐れたからというだけではない。親、兄弟、 主家の仇を討とうと 悲願をいだいて幾地を飛び出した五良左衛門であったと考えてよいであろ う。

石川家・坂根家系図

大和国高市郡石川村出身石川次郎秀廉………秀吉―左衛門尉秀門―(秀澄、菊寿、五良左衛門)
(坂根斎、妻菊寿)―道秀―道賀―勇寛―治兵衛―喜平太―市助―七兵衛―又四郎―平左衛門―安五郎―安五郎―安五郎―安五郎―続く。(同名は襲名による)
プロフィール

南方系海人

Author:南方系海人
ブログへようこそ!
古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
間違えた認識もあるかと思います。
自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

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