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青玉神社(兵庫県多可郡加美区)

青玉神社
 兵庫県多可郡加美区に鎮座する青玉神社をお祀りしてきました。

青玉神社は、天戸間見命と大歳御祖命を祀っています。創立は不明。最初、三国岳の頂上に鎮座し、後に山麓に近い現在の地に移されたそうです。
巨木に囲まれた美しい杉林の中に鎮座し、拝殿付近の杉は、樹齢1000年という巨木で、県指定天然記念物となっております。
この辺りは、鉄の神である天目一箇神をお祀りする神社が数多くあります。
元々、鉱山やタタラ、鍛冶工房が沢山あったに違い無く、
道の駅でそんな話をおばちゃんに話かけた所、黒山の人だかりとまではいかないが、多くの人に囲まれ、天目一箇神の話をする羽目になってしまいました。。。
多々良、丹治、鍛冶屋などの地名も残り、近くには生野銀山があり、正にこの神様が鎮座するのは当然の事でしょう。

一説では、この神社を天目一箇神社であるともいい、天戸間見命とは天目一箇神の別名で、青玉というのは、命が神木にお触れになったところ片眼を失明されて青色になったことから、青玉と呼ばれるようになった伝承があります。

記紀によると、天目一箇神(天津麻良=アマツマラ)は、天照大神が、天岩戸に隠れた時、刀、斧など、大神を慰める器を作った神で、金工、製鉄、鍛冶の祖神とする。

天目一箇神は、一つ目のマラ神という事で、この神を祖とする氏族について、『新撰姓氏録』では、葦田首、菅田首などが出てきます。

多可郡には、天目一箇神社が鎮座し隣接する但馬国気多郡にも式内社、葦田神社があり、祭神は天目一箇神です。鎮座地を愛痛山『あしいた山』、御祭神は、愛痛大明神『あしいた大明神』と呼ばれたそうです。

澤潔氏によると、愛痛は本来、足痛で、製鉄のタタラを踏む人々の職業病である足痛と結びつくとされています。あしいた→あしいだ→あしだ→芦田(足立、安達さんも同じ)また『青銅の神の足跡』によると、タタラの炎の色を見つめ過ぎた為、一眼を損じたタタラ師の神格化が天目一箇神とし、たたら炉の色を見つめ過ぎ、眼を悪くし、歳を取ると、片方の目がダメになるという。

よって、足痛、目を悪くするなど、金属精錬に携わる人の持病を上げています。

足痛(葦痛)→足味田→足田(葦田、芦田)とし、足立姓(安達)は芦田姓の一族としています。

足立=職業病として、足の立たなくなった者。

京都府丹後峰山町に鎮座する藤社神社の境内社にも、天目一社があり、海人の羽衣伝説に登場する七夕伝説の子孫、安達家(足立家)も、芦田の転だろうとの説があります。

安達家は、峰山町大呂にあり、大呂は、大きな溶鉱炉から来ていると考えられるそうです。

姓氏苗字辞典によると、足立、安達姓は同じ氏族とし、

アダチとは、河岸、芦の生い茂る土地、日当たりのよい場所の意味があり、足立、安達などの漢字を用いる。

武蔵の足立氏は武蔵国の足立郡発祥の武蔵国造の末で、平将門の時に登場する武蔵郡司武芝の子孫。後に源氏に属し、源平時代の足立遠基が足立郡の地頭職、その子、遠光が丹波国氷上郡佐治郷を与えられ、栄えた。

足立遠政の時、明智光秀により滅亡したが、子孫は今も青垣、福知山、氷上に多いとあります。

芦田姓については播磨に赤松氏族、丹波の豪族は、信濃井上氏族とあり、赤松氏といえば、元は播磨の製鉄民ですね。
民族(ここでは製鉄民)の神は伝承するいい例だと思います。
大歳神については、申し上げるまでも無く、稲荷神(農耕の神)の兄弟神であり、五穀豊穣の穀物の神であります。
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与謝の金剛禅寺の伝承

金剛寺の由来
(与謝野町与謝)
赤石ケ嶽の中腹に根本寺なる大寺があり、この寺が焼失の時、僧侶が牛に乗り大江山から下りて金剛寺を開いたという。小字〃牛のつめ〃という地名がある。

一本の松 
与謝の金剛寺にある松で、江戸期、当寺の住持が加悦へ嫁にきた中郡峰山の女を離縁させようとした。
 女は離縁するなら、寺を焼くか、私を連れて逃げるかの何れかという。住持は寺を焼くことはできず、寺の裏から奥滝の大田和の方へ連れて逃がした。途中住持は、小字三年坊で、刀を抜き女を驚かしたが、女はその刃をつかみ反抗した。
 住持は刀を引き鞘におさめようとしたが、この時女の指が切れ落ちた。住持は驚きの余り、気が狂い、刀で女の腹を刺した。その女の死体を付近の谷に落し、男松を一本切って帰り、これを境内に植えた。

宝積山金剛寺  与謝小字北
 一四〇三年(応永十年)天田郡天寧寺の元哉和尚によって開山され、一五七三~一五九二年(天正年間)兵火にかかり、一八四二年(天保十三年)二月に再建した。
本尊は地蔵菩薩像で、藤原末期の作であり、加悦町では最も古い仏像である。本尊は赤石ケ嶽にあった根本寺から移したものと伝えられている。文化年間のものといわれる地蔵菩薩縁起がある。境内に砂野家寄進の観音堂があり、境外仏堂として、与謝小字出口の観音堂に観音菩薩を祭り、小字阿弥陀堂に阿弥陀堂がある。)525(金剛寺の由来 赤石ヶ獄の中腹に根本寺なる大寺があり、この寺が焼失の時、僧侶が牛に乗り大江山から下りて金剛寺を開いたという。小字〝牛のつめ〝という地名がある。

三河内の梅林寺

梅林寺(ばいりんじ) 
室町時代に覚陰真如和尚によって創建された臨済宗の寺院。
御釈迦さんが御本尊だそうです。
寺宝の銅鐸は、国の重要文化財となっており、比丘尼山頂から二つ出土しました。高さ107cmの立派なもので、表面は袈裟だすきが刻まれている。弥生時代後期の作。
住所:京都府与謝野町三河内2078
山号:臨川山 宗派:臨済宗妙心寺派
開山:覚隠真如 
開創:1570年 
本尊:釈迦牟尼
山門:町指定文化財 1793年
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/migoti.html
梅林寺蔵銅鐸《与謝郡誌》
 三河内村の梅ヶ枝の背後幾地、岩屋両村地界なる通称比丘尼城より発見せしものにて大さに於は本邦有数の鐸なり。丹哥府志に古代の宝鐸と題し次の如く云へり。
 文化年中寺の後山より古銅器を掘出せり其状釣鐘の如くにして釣鐘にあらずまづ宝鐸の類なり。大小二つ相重り高サ三尺五寸径一尺五寸其厚僅に一分上に龍頭あり其左右に穴各二つ其半服の下にも左右に穴各々二つあり金の性は所謂唐金なり其廻今緑青を塗るに似たり地紋は日本の模様と見えす「下略」
此の鐸に就ては本府の調査報告左の如く載せたり。
       三河内村梅林寺ノ銅鐸
 梅林寺ノ銅鐸ハ同村ノ中比丘尼城ト云へル地ヨリ出土シタリト伝へ形状図版ニ示ス如ク銅部底長径一尺三寸二分同高二尺四寸鈕高一尺一寸二分アリ大形銅鐸中ノ代表的ノ形ヲ取リ文様ハ袈裟襷ノ系統ニシテ主ナル分子ハ格子目紋ト複合鋸歯紋ノ二者ナリ而シテ両側ノ鰭ニ又三個ノ小耳アリ鈕ニハ同シク大形ノ渦紋状ノ耳ヲ附ス鋳造頗ル精巧ニシテ形式整ヒ全体ノ形状ニ於イテ紀伊国日高郡雨請山近江野洲都大岩谷伊賀国名賀郡湯舟等ニ出土セル鐸ト酷似セリ。
此ノ鐸寺伝ニ依るルニ古ク徳川時代ノ中頃三河内村ト岩屋村ノ堺ノ山腹ニシテ寺ノ乾ニ当ル上記比丘尼城ト云フ地ヨリ出土セル二個ノ一ナリ埋没ノ状態ニ就イテハ一日村童四五ソノ地ニ遊ビ山腹ノ傾斜面ヲ下レル際偶然鐸ノ一部ヲ見出シ土人梅谷治助ナルモノ掘リ獲テ寺ニ納メタルガ内一ハ破損アリ文化年間同寺楚鐘鋳造ノ時鋳漬シナ今存スルモノ他ノ一ナリト云フコレニ就イテ同寺所蔵ノ文化五年辰三月ノ「鐘鋳記録帳」ヲ験スルニ内ニ此ノ銅鐸ニ関シ次ノ二記事アリ。
 (一) 比のかね当山の乾にあって比丘尼城といへる城跡有嶮岨峨々として松柏枝を交へずそのかみ延享年中大雨降続所々山崩多し此物彼山之辺りに漸嶺貳三寸斗兀山に顕れり樵父業のひまに彼地に至りあやしみ是を掘出せば異形変物也早速御地頭青山公に御入覧に入れ所一家中受に号る者那し其後江戸表に遣し諸家に見せしむれ共一つ以て実号なし斯ろ稀代之物掘出せしは其村はんねひなる端ならん速に梅林寺納宝物と致すべしと御下知を蒙り夫より六十余年の間永く宝蔵に納置今鐘鋳参詣の衆生へ開扉致所是に名付る人あらば竊に聞かまほししと。
 (二)(前略)然る所四十八年以前宝暦十辰之九月廿七日之昼八ッ時壹寺焼失仕候其節右之鐘茂焼落申候就夫焼鐘を用候ば村方不繁昌之由申伝侯得共共鳴昔格別不劣候義に御座候此儀如何事哉先年比丘尼城與(銅鐸ノ図アリ略)如此之カネ二ッ掘出シ壹ツハ当寺什物ニ罷在候壹ツハ掘出シ申候節余程損シ致出来候ニ付打割鋳鐘ハ入申侯義ニ御座候其故歟響能候様言伝由候(下略)
 前峰ノ記事ニ依レバ鐸ノ発見年次延享中ニシテ発掘ノ状態ハ稍寺伝ト異リ本寺ノ所蔵ニ帰セル経過ヲ明記セリ耐シテコレニハ同時二二口ノ発見ヲ云ハズ後者ハ之ニ対シテ寺伝ノ如ク発掘ノ二口ナルヲ記シ内一口ハ破損ノ爲鋳鐘ニ際シ加へタリトアリ云々(梅原末治氏)
之れが駿見の年月に就いては宮津日記下の春に矢ノ記の記事を引きて左の如く云へり。
 同十七年子四月九日三河内村端郷梅カヘト申所ノ岩屋ノ城山ニテ釣鐘ノ様ナル物二ツ掘出シ御城へ上ル長サ四尺斗リ廻リ三尺五寸斗カラカネ鋳物ニテ模様珠ノ外美敷物也当時鋳物師等中々可致事難成旨申上ル其形何トモ名ヲ付候者アラズ。

 同十七年とは享保十七年のことなり梅ヶ枝と岩屋村と幾地村とに跨がる山を比丘尼城と云ひつゝあれば斯ら関係上岩屋の城山など云へるなるべし。鐸の内部に梅枝、治郎と墨書す恐らく発見当時の筆記ならん。

大江山の地名伝承

雪が降らないので、年末は大江山を徹底的に学習する事にしました。

大江山は、古代は余社の大山(与謝の大山)と呼ばれ、今の大江山になったのは11世紀の頃のようです。
大江山は、京都市と亀岡市の境にある老ノ坂付近と、ここ丹後の大江山の2つがあり、大江山の鬼、酒呑童子の本家本元騒動があったようですが、どちらの山にもあてはまるように書かれています。
これは、老ノ坂の大江山(大枝山)は、日本書紀では大井山、万葉集では大江山となっており、大江の古名は老または淤伊で、どちらもオイと読みます。
これが現在では大枝(おおえ)。
大日本史・姓氏録によると、天武七年(679年)大枝に丹波国の関所が設けられ、『大江(オイ)は今沓掛村ニシテ西北二在り即チ古き郷ナリ大江氏はコノ地で貫ナル』とあり、丹波丹後国司の大江氏の出生地であり、大江氏が丹波国司に赴任したとき、『ここが古代の老ノ本郷だ』とし、大江山としました。
長歴元年(1037年)に大江拳周が丹後国守として赴任し、丹後の大江山は、大江氏が丹後国司として赴任の時に、与謝の大山を大江山と称し、我が姓を当てた。
後世、丹波の大枝山は《老ノ坂》となり、丹後の与謝の大山は《大江山》となり、現在に至っています。

大江山連峰
『地名は貴重な文化財』
私は この麓の町に住んでいまして、この山の名前や伝説について、悩み続けた事がありました。
・いつ頃から大江山になったのか?う
・酒呑童子伝説(大江山の鬼退治)は京都の大枝山?

古い文献を読むと、この山は、与謝の大山、千丈ケ嶽、三上山、鬼嶽、鍋塚なとどが出てくる。
貝原益軒『西北紀行』1689年には大江山として書いてあるので、その時には大江山の山名が付いていた事になります。
この山には、古代から三つの鬼退治伝説が残されています。

①『古事記』に記された、日子坐王が、土蜘蛛、陸耳御笠を退治して、この山に逃げた話。
②聖徳太子の異母兄弟である麻呂子親王が英胡、軽足、土熊を討ったという話。
③そして有名な酒呑童子を退治する話。
https://nohmask21.com/oni/densetsu01.html
酒呑童子の本拠とした「大江山」は、原話では、京都市西京区にある山城国と丹波国の境、老ノ坂の大枝山(おおえやま)で、ここ丹後の大江山では無いとする有力な説があります。
しかし、丹後の大江山周辺は、鬼だらけで、鬼の交流博物館、鬼退治伝説に登場する多くの神社や地名があり、本家である大枝山より、今ではこちらを説とするのが、一般的になっています。
①と②の鬼退治伝説は、丹後の大江山(当時は与謝の大山)である事は確かですが、③の酒呑童子の大枝山が、何故、丹後の大江山になってしまったのか?

*加悦町史を纏めると、以下のようになります。
元乙訓郡大枝村(現在の老ノ坂辺り)に住んでいた大江氏が丹後国守になり、長暦元年(1037年)丹後に赴任した。
大江氏は、天安二年(858年)大枝音人が丹波守となって初めて「大江」の姓を称した。
子孫が丹波、丹後の国司を歴任し、丹後の大江山は、大江氏が丹後国司として赴任の時に、与佐の大山を大江山と称し、わが姓を当てた。
やがて、丹波の大枝山は「老ノ坂」となり、丹後の与佐の大山が「大江山」に組み替えられ現在に至る。とあります。

※亀岡の小塩山も大江氏が大江山とし、与謝の大山も大山氏が大江山とした。

平安時代初期の延喜式において、籠神社は山陰道唯一の官幣大社とあり、当時は出雲大社より社格が上とされているが、皇學館大学文学教授白山先生の講話を聞き、実はそうではなく、平安京の勢力域、つまり平安京の最北端の大社であるから官幣大社とされたのをお聞きしたことから、考えが変化しました。

なる程、日本書紀で大井山、万葉集で大江山とされた大枝山が、それにふさわしい平安京の最北端の山として、大江山の位置が変わったのではないか?と想像しております。

大浦半島の古刹 多禰寺

飛鳥時代最古の古刹、多禰寺を拝観しました。
国の重要文化財金剛力士像は木造として、東大寺に次ぎ日本で二番目の大きさを誇ります。

舞鶴湾を眼下に景勝の地にあるこのお寺は、医王山多禰寺と称し、当地に初めて仏教を伝えた飛鳥時代最古の古刹です。

今を去る事千三百年の昔、両丹を支配した豪族が乱を起こし、時の帝 用明天皇は第三皇子麻呂子親王に追討の勅命を下し、激しい戦も大江山(与謝の大山)の攻防を最後に平定されました。

世の不安を願う親王は、譲持仏の薬師如来を本尊に鎮護国家の道場として多禰寺を創建されました。往時は七堂伽藍の瓦が山並みに映え、七仏薬師の霊場として香煙が絶ゆことなく、門前市が軒を連ね賑わいました。

栄枯盛衰は世のならい、時代の変遷に壮大な姿は影を潜めました。然しいまもなお風光明媚な山懐に庶民の薬師信仰は息づいて居ります。歴史の風雪に耐え抜いた證として数多くの現存する文化財は訪ねる人々に語りかけ、偲ぶ事が出来ます。《多禰寺パンフレットより》

『多禰寺縁起』

用明天皇2年(587年)、聖徳太子の弟、麻呂子親王(まろこしんのう)の開基。父・用明天皇の命を受けた麻呂子親王は、庶民を苦しめた鬼賊(与謝の大山、三上ヶ岳に住む英胡、軽足、土熊)を「七仏薬師の法」の力で平らげ、その加護に報いるため、丹後の国に七箇所の寺を建て、七仏薬師像を安置した。その中で、親王の護持仏であった第七薬師瑠璃光如来を本尊としたのが当寺で、医王山多禰寺と名付けられた。

現在は真言宗東寺派に属し、西国薬師四十九霊場30番札所として、風光明媚な自然の山懐にたたずんでいる。 また、奈良時代〜平安時代などの貴重な文化財を、当初の像容で遺存されている。
プロフィール

南方系海人

Author:南方系海人
ブログへようこそ!
古代丹後には王国があり、近年の調査で少しずつ証明されつつあります。
また丹後には、素晴らしい自然と伝説が沢山あります。
7000以上もの古墳、遺跡、史跡を自分で歩き、古代からつづくロマン街道や、元伊勢、神社、古墳、山城を旅する記録です。元伊勢伝承地は全て廻ります。
郷土のコアな伝説は、現地に何度でも行って調査します。
私は歴史家でも考古学者でもありませんが、郷土を愛し、歴史を知りたくて開設しました。
ホームページでは無く、あくまでもブログです。
間違えた認識もあるかと思います。
自分が調査した事を纏め、日記帳として利用しています。

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